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 地方豪族の家柄に生まれ、さほど生活には不自由はなかった。


 子供の時分から利発で器用だった為、近郊の噂になったほどだった。

 気が付いていなかっただろうが、彼はそこに傲慢になり、自分を見失いはじめていたのだろう。

 神童と言われた者が、後に挫折し、平凡に埋もれていくのはどこにでもある話だ。

 彼の場合もその例に漏れなかったというだけだが、彼の方ではその現実に肯んじ得なかったのだ。


 最初の壁にぶち当たった時にどう対処するかで、その人の人生は大きく決定される。


 そこで逃げるか、乗り越えるか、敵わないまでも懸命に抗うか、人に頼るか、無視して後回しにするか。


 彼がどうしたのかは知らないが、いずれにしても、ポジティブな回答は得られなかったのだろう。


 ある高名な師について学んだが、尊大な彼は周囲と馴染めずに結果、学問でも取り残されていく事になる。

 それでもどうにか師の推挙を得て『冶朗』という官職に就く。

 『冶朗』とはいわば、高級官僚の候補生のような地位である。師の下でうまく振る舞えず落ち込んでいた彼の鼻は再び伸び始めた。


 その後、県の主簿(書記官)から県長(長官)にステップアップしていくが、ある時、知人に知らない方が幸せだった事実を告げられる。


 漢の現皇帝が売官をしていることは既に述べた。


 しかし、彼にはそんな愚行など関係なかった。


 ないと思っていた。だが、関係はあった。

 彼には内緒で、親から金が出ていたのだ。


 衝撃であった。己の身一つで勝ち得た栄光が実は虚栄に過ぎなかったのだ。


 一面、純真であり無垢であり自負心の塊であった彼には到底許容できる事態ではなかった。

 その当時は無我の極致にあって、自分がどう振る舞っていたかすら覚えていないという。


 何にも信用がおけなくなり、酒色に溺れた。女房と娘の待つ家庭も顧みなくなった。


「どの面下げて、部下に命令してたんだ俺は。どういう理屈で人さまの上に立ってたんだよ俺は。どうだ。まさに道化じゃあねえか。三下だと馬鹿にしていた奴等が俺を見て、実は哀れんで、馬鹿にしていたんだろうよ」


 長語りの途中に、彼はそう心情を吐露した。口の端に涎を垂らし、目の焦点は曖昧である。その様子は、ある種の薬物中毒者を連想させた。


 声色に自分を卑下する色は含んでいない。

 おそらくもう、そんな段階は過ぎ去ったのだろう。そこから先はお定まりの転落人生が彼を待っていたのだが、話の重要なピースではなさそうなので、そこまでは記さないでおく。



 それにしても、男の置かれた状況は絶体絶命と言っても差し支えない。どころか、お釣りが来るほど喫緊の次第だった。


 にも拘らず、その顔には緊張の色は注していなかった。

 どこか嬉しさに高揚した様子が見てとれた。諦めでも達観でもないそれは、自虐のようだった。


「それは気の毒であったな」


 意外にも男に優しい言葉をかけたのは、王韙その人であった。さっきから糸の切れた人形のように俯いたままなので、表情は読み取れない。


「おう。小娘さん。俺に同情してくれるのかよ」


「親や周りの勝手に振り回されて生きる恥辱に絶えられん気持ちは頷ける。相手の気持ちも考えずに寄越されるお節介にはへどが出る。少しはお主の気持ち、分かってやれよう」


 自分に危害を加えた相手に彼女がそれほど寛容になれるなんて知らなかった。

 彼女に対する認識を少し改めねばならないようだ。


「そうか。分かってくれるか。よしよし」


「……じゃがの。妾に対して無体を行った事とは一寸も交わらん。それとこれとは別ということじゃ。従って貴様はビチャビチャでは済まさん。ガッチャガチャにしてくれる」


 と、いうのは早計だったようだ。

 彼女への私の認識は一部の狂いも無かった。

 身体を撫で回されて笑って許せる器量はない。


 だが、成り行き任せにしていた私としても、彼女の導火線が爆弾に火を移す前にそろそろ嘴を挟まねばならないだろう。



「おい、男。お前の要求は何だ?」


 人質を取っているからには何か為したい事があるはずだ。


 まさか王韙の身体が主たる目的ではあるまい。

 大変失礼に当たるが、一命を擲ってまで見ず知らずの男が欲する価値があるとは思えない。


「ようやくそれを聞いてくれたか。兄ちゃん。お前はこの小娘さんの従者か何かか?」


「まあそんなものだ」


「ん、そうか? それにしちゃあ……、まあいい。賢そうなお顔してるな。なんでもお見通しって面だ。本当は聞くまでも無いんだろうよ。俺の目的なんてのはよ。それとも、賢しげなのは面だけで、おつむはてんてん、ってやつか? どっちでもいいか。俺が言いたいから言う。それだけだ。そうだ、俺の目的はもちろん太守の首だ。最期のお仕事だよ」


 「ひい」っと、蹴られた犬のような声のした方には、当人が怯えた目をして小さくなっていた。


 そのまま消えてしまいたかったろうが、肥え太って大きな身体は残念だが隠しようもなかった。


 私は決して武技において大勢に伍する者ではない。

 むしろ、秀でていると言ってもよいぐらいだ。

 一頃は通り一遍の格闘技や戦闘法に精通した。

 あらゆる武道を体得し免許皆伝状を客間にこれ見よがしに陳列した時代もある。


 それでも、やはり、歳月が経ち、隆々たる筋骨も痩せ枯れて久しい。


 嘩蓮や徐曠には及ばないまでも、神妙に相対せば、人質を取るような不逞な輩に遅れを取ることなどあり得ない。

 かといって、その二者の神技ように簡単にこの状況を打破しうる技量はもう失われている。

 一か八かの賭けに出るには私の四肢は畑仕事と読み書きに鈍り過ぎた。


 なので、私は過去の杵柄を振りかざす事無く、鼻の垂れた三歳児が棒付きの飴を舐るがごとく指を咥えて見ているのだ。


「さあ、太守様よ。娘の命か己の命。どっちが惜しい?」


 王粛にしてみれば、天秤にかける意味すら無いおこがましい問いであったに違いないが、なぜか彼は呻吟して見せた。


 そうして、またも「ふぬ」をひり出したのだ。


 それは一定の心的、もしくは身体的重圧をかけると、体内から自動的に吐き出されてくるかのもしれない。


 ちょうど、歯磨き粉のチューブを尻尾の方から巻いていって、残りカスをひねり出すように「ふぬ」は生産されるのだろう。


 しかし、この問いに迷う余地があった事には、素直に驚いた。


 不世出の娘など、今や正当な後継者が出来た彼にとって、足枷にはなっても、大した利用価値も残っていないようだが、政略結婚の具にでも考えているのだろうか。


 それでも、自分の命と秤にかけて束の間にもつり合いが取れるとは思えない。


「ま、そりゃそうだよなあ。我が身は誰だって可愛いわなあ。こりゃまあ、交渉決裂って事で」


 無理もないが、王粛の態度を拒否と受け取ったのであろう。

 天を仰ぐような大袈裟なリアクションで男は嘆いて見せた。誰もそれに反応する者がいないので、言葉を続けた。よくしゃべる男である。


 消え入る寸前の蝋燭のようだ。


「ここまではうまくいったのになあ。残念。作戦失敗ってやつよ。まあ、こいつを嬲って殺るだけでもそれなりに義理は果たせるだろ。行きがけの駄賃でもあるしな。もういいぜ。忘れてくれてよ。こっちとしても、あんたみたいなおっさん弄んでも楽しくねえしな。そんじゃあ、最期のお楽しみ再開っ」


 と、男はむしろ嬉々として少女の身体に手を伸ばす。


「待て。俺が太守を殺すと言ったら、交渉になるんじゃないのか?」


 後先を考えない失言だったかもしれない。


 だが、思わず私は王粛の背後に回り、匕首を手にしていた。


 太守は警備兵の背後に匿われていたが、誰も私を警戒する者はいなかったので、それは容易だった。


 当然、室内の兵士や使用人共が色めき立つ。


 この騒ぎが収まった後、私は面白くない事態に陥るだろうが、やってしまったものは仕方が無い。行きつくところまで行くしかない。


 全く、頼りない主君を持つと苦労する。


 ところで、男はこの状況にあって最悪の相手と言えるかもしれない。


 軽薄そうな口調とは裏腹に、以外に油断というものを見せない。


 広い室内だが、調度品を盾に背後を取られない位置を確保している。


 私は隠し持って逃れたが、椅子に座った足元には、既に兵士から提出させた武器類が散らばっている。


 王韙に不埒な振舞いをしようとした際も如才なく他の動きに気を配っていた。


 荒武者や無頼漢などではなく、元は地望と見識に恵まれた才覚の持ち主であり、彼の語ったところが嘘ではない事の片鱗を伺わせた。


「ふーん。兄ちゃん。名前は何てんだ? あ、どうでもいいか。それよりもなかなか思い切った事言うじゃないよ。そんなにこの娘が大事かよ」


「いや、それほどでもない」


 私はどうしようもなく正直者だった。


「こらあぁぁぁ。どういう事じゃあ。孔明。許さんぞ」


 首筋にあてられた刃先が肌を傷つけるのも構わずに、王韙はがなりたてた。


 飛び散る血潮で顔を濡らす男は迷惑そうに、彼女を手のひらで黙らせるが、まだもごもごと煩かった。


「じゃあよ。お前が小娘の代わりに死んでやるかよ?」


 新たに面白い遊びを見つけたように前のめりになる男。紫陽花のように移り気な奴だ。


「構わんぞ。お安い御用だ。しかし、私が死んだ後に彼女が解放される確証が要るな。無駄死になんて痛い思いしてやる程、私は寛大ではない」


「証拠なんてあるかよ。そんなもん。どのみち、お前がこの娘を助けたいなら、俺を信じて死んで逝くしかないんじゃないの? それにしても、大事でも無い女の為に死ねるってのか?  訳分かんねえなテメエ。そりゃハッタリかよ」


「ハッタリだろうがそうでなかろうが、お前が私を殺す意図が分からんな。私に太守を殺させる方が、目的達成には近づくんじゃないか?」


「だから、俺はもうどうでもいいんだよ。言っただろ? ただ、最期の瞬間を楽しく生きる事ができればよ。目的なんざ、ついでだよ。ついで」


 そうからかうように横目で私を伺うと、王韙の首から滴る赤い条を下から舐め取るようにした。

 それと同時に肩まではだけていた着衣を荒々しく剥ぎ取ろうと画策する。くくく、と愉快そうに。


 その時、思いがけない事に、私の人質となっていた王粛が動いた。


 手を伸ばすが間に合わない。


 生ける屍のようにフラフラと前に進むと布っきれを巡って揉み合う男と少女の前に踦き、命乞いを始めたのだ。


「何が不満なのかは分からんが、どうか、どうかワシを助けてくれ。金や領地ならいくらでも差し出す。だから……」


 錯乱しているのか、行動の辻褄が合っていない。


 本来ならば、彼を殺す事をあっさりと諦めた男にではなく、背に鋭角を突き付けている私にこそ命乞いはすべきである。


 気が狂れているのだろうか?


 あまりに常軌を逸した行動である。


 私もそうだったが、男も明らかに虚を衝かれた様子で、王粛をただ眺めた。


 手を伸ばせば簡単に刺殺できる距離であるが、その先端は振るえなかった。


 彼の娘も狼狽している風ではあったが、その父を見る視線には徐々に侮蔑の色が深くなっていった。

 その眼には私や男以上に彼に対する殺意が感じられた。その瞳を覗き込むと、複雑に色が混ぜ合って、結局光沢の無い黒い塊になったような、そんな色が見えるようだった。


 彼女の思惑はともかく、それからの展開は早かった。


 男はやっと思い立って、刃先を動かした。


 しかし、予想だにしない太守の動きに遅れはとったが、抜け目なく距離を詰めていた私が難なくそれを弾く。


 手から武器を失った男は足元の得物を漁ろうともがくが、あられも無い格好の王韙に蹴倒され、ふんづけられ踏みにじられる。


「おい、捕まえろ」


私の号令で正気に戻った警備兵が順次組みついて、男は御用となった。




「妾は父を殺す事にした」


 王韙は揺るぎない様子で宣言した。それは事件のあった夜だった。彼女の寝室に集められた私と徐曠、嘩蓮に向けての決意表明だった。


「決行は?」


 私はできるだけ感情を込めないように端的に尋ねる。


「三日後」


「三日後である理由はなんだ?」


「孔明、徐曠。お主たちは、妾の名代として桂陽へ行け。お主たちの帰還後に決行する。事は極秘裏じゃ。今晩には発て。妾はその三日、安静期間という名の蟄居を命じられた。今回の賊の太守邸侵入が妾の不用意な訪問によるものじゃという讒言があったらしい」


 この発言により、私と徐曠の間でひと悶着あったことは言うに及ばないだろう。

 私としても人選の拙さに泣きたくなるが、彼女は我ら二人の懇願を割愛した。


 無謀にも太守邸に押し入り、王韙に無体を行った男は、周述しゅうじゅつという名だった。


 彼が語った話のほとんどは間違いが無く、一年前までは、零陵郡夫夷県の県長であったが下野していたらしい。

 彼は獄に繋がれてすぐに気が触れた。

 あの時もかなりイカレてはいたが、まだ話の筋は通っているように見えた。

 今では支離滅裂な妄言ばかりが口を突いて出るようになったそうだ。


 ある種の薬物中毒の様相で、私の見立ては間違っていなかったようだ。


 ともあれ、奴の背景をその口から引き出すことは困難になった。


 彼の弁は、どこかしら誰かに言い訳をしているような印象があった。きっと、彼の動向を見張っている者があの場にいたに違いない。


 ところで、太守を殺害すると公言した私に対して何らかの咎めがあることは覚悟していたが、不審なことに翌朝になっても沙汰が無い。


 念の為、『草』を遣って調べさせたが、どうも、私に対する処罰は検討もされていない様子であった。


 あの腑抜けの太守の事であるので、忘れてしまったかと思ったが、周囲が忘れるはずもない。


 こうなると却って不気味というものである。


 私は落ち着かない心地で逃げるように長沙の城を後にした。


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