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「では、ここでお別れね」


 長沙の城はここからでも大きく、その高い城壁は所々傷つき、補修中ではあるけれど、底知れぬ存在感を感じた。


 特に破損の酷い南門の下を通過して小一時間ほど経った路上で、甘備は夫の腕を放して振り返った。


 先頭は馬上でいちゃつく彼女達で、次に徐曠の父と王韙は甘備の部下達の馬に乗せられ、最後尾が我々と徐曠である。


 この隊列の中に頼みの綱である嘩蓮はいない。そして私を抱く英江は戦闘がからっきしときている。絶望的な状況である。


「おい。お前はこれで満足か?」


 能面の顔で背後を歩く徐曠に語りかける。


 答えは無いようだ。


 変わり果てた姿の私が孔明であると名乗っても彼女は無表情でいられた。

 すでに彼女は私の知る可愛らしい少女ではなくなってしまったのだろうか。


「王韙は殺される。お前はどこかで父とひっそり暮らすのだろうが、それで本当にいいのか? お前の良心はお前自身を許すのか? 後悔しないと確信できるのか?」


「……」


 表情は微かに動いた。いや、表情自体は変わらないが、目が振れた。


「一年半といえば、お前の人生の十分の一、まともに物事が考えられるようになってからならば、およそ半分だ。王韙と過ごした期間はお前にとって少なくはないだろう。お前が天涯孤独だと偽っていた事はいい。だが、王粛との血縁が否定された王韙は、正真正銘のひとりぼっちだ。そうさせていいのか? 私はそんな事はさせない」


「あっははーっ。何を一生懸命話しているのかと思えば、まだ諦めてなかったの? 赤ちゃん。無駄よ。だって、その子は父親だけじゃあなくって、母親の事も気にしなきゃいけないんだもの。そして、その母親の行方も知っているのは私だけって寸法なのよね」


 嫌らしく口をひん曲げる。醜悪な女である。灼かれた右半身が復旧したところでその醜さは隠せなかっただろう。


「孔明、稚由。もうよい。妾の命は一度、あの古城で尽きておる。今更惜しむものではない」


 しかし、彼女の人生とはなんなのだろう。父親は人格破綻者で母は早世し、長沙の太守に拾われ、乳母に虐待を受け、孤独の末にできた親友に裏切られるのか。


 私が人間では無いことは、もはや認めるにやぶさかではないが、人語を解し人心を理解するのだ。このような境遇で死に行こうとしている少女に対して何も思わないでいられるだろうか。


「稚由。聞いているのか? あいつの言葉が理解できるか?」


「……」


「本当にお前はそれでいいのか。後悔無く笑えるのか。あのままあいつを死なせて、本当にいいのか。聞け、稚由」


 喉が裂けたのではないかという程、声帯が震えた。脳の血管は怒りのあまり三桁は切れたんじゃないかと思う。

 過去数万年はこのような大声は出していなかっただろう。


「……聞きました」


「じゃあ、行け。奴等を引きちぎって来い」


「五月蠅いです。もう黙って下さい。最初から最後まで、あなたは私に知った風な口をきく。私にだって事情があります。あなたや姫様にもそうであるように」


 歯が折れるのではないかと思えるほど食いしばった彼女は、手にしていた槍を捌いた。


 ――くっ。


 視界が回り、痛みが私を襲う。


 槍の柄は英江の頭部を撲ったので、ひ弱な彼女は倒れ、そのまま意識を失ってしまった。


 彼女の手から離れた私は、据わってもいない首が一瞬あらぬ方向に曲がってしまったが、赤子の軟体さは尋常ではなかったので無事だった。


 筋力が破滅的に足りない。歩くことはもちろんだが、四つん這いで地を這う事もうまくできない。


 王韙のそばに行く事も叶わない。


 悔しい。あまりに悔しくて地を叩くが、端から見れば可愛い仕草にしか見えないだろう事がまた悔しい。


「そうね。じゃあ、初めの計画通り、王韙ちゃんのとどめは稚由ちゃんに刺してもらおうかしら」


 いいことを思いついたように甘備はしたり顔だった。


「お前は、悪魔か」


 視線で殺傷できないかと、全霊を持って念を送ったが、効果はないようだ。


「私は人間。どうしようもないくらいに人間よ。むしろ悪魔に近いのはあなたの方ではないのかしら? 無用にしゃべる赤ん坊なんて質の悪い怪談でしか聞いた事ないんですもの」


 転がった私を侮蔑の視線で突き刺すと、再び徐曠を促す。


「嫌です。私にはもうできません。別の事ならなんでもします。だから……」


「そう、つまらない。じゃあ、そこの悪魔を殺して」


 槍は個を描いて、私の頭部に突き刺さる。


 ――その寸前で停止して、ゆっくりと地面に落ちてガランと音をたてた。


「できません」


「何よ。なんにもできないんじゃない。あなた。折角、人殺しにしてあげたのに。無敵の戦士にしてあげたのに。あれは何だったの? あの時あなたに殺された人達はどうなるの? 無駄死になの? 不甲斐ないあなたのせいで、無駄に生きて無駄に死んでいったというの? あなたに無駄に殺される為だけに」


「そんな……、それはあなたが……」


「私は指示しただけ。お膳立てをしてあげただけ。あなたの弱さを払拭しようとしてあげた。手助けをしてあげただけ。それだけなの。実際に手にかけたのはあなた。惨殺したのはあなた。あなた以外ではありえないのよ。甘えないでちょうだい」


 甘備はすでに泣き崩れている徐曠の頭に足を乗せて、甘備は思いっきり地面に押し付けた。


「もういいわ。私がやるから」


 彼女の手元がキラリと閃いたかと思うと私の小さな額には重い何かが突き刺さっていた。

 短刀だった。


 周りの者が息を呑み込み、悲鳴を上げる。


「孔明っ」


 叫ぶ王韙は幾重にも残像を結んでいる。いや、これは、私の意識がどうにかなってしまっている結果だ。


 もはや口も開けない私に背を向けて、醜悪な元乳母は王韙に向かう。


「次はあなたよ。王韙ちゃん。じゃあね。さよなら」


 涙こそしているが、観念した様子で目を瞑る王韙はもはや菩薩のような笑みさえ湛えている。


 それを仮初めとはいえ、乳母という立場で面倒を見ていたはずの女が殺すのだ。これが許せる訳がない。彼女の人生を散々に弄んだ末に捨てようというのだ。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。


 ゆる……せ……な……。


 気が付くと私は碧空に叫んでいた。


 何を叫んだのかは我が事ながら分からなかった。


 目の前が赤く染まる。


 これは出血や吐血のせいではない。炎の赤だ。


 私の周囲が燃えている。いや、違う。これは、私の身体が燃えているのだ。


 手を翳すと、赤というより金色の炎が渦を巻いて蠢いた。


「何なの? やっぱり、悪魔なんじゃない」


 膝を突くと簡単に立ち上がる事ができたし、自在に四肢を操る事ができた。


 動く度に赤や黄色、青や金、白に紫、様々な光が付いてくる。


 額ももう痛くない。


 一歩踏み出した。


 身体が軽い。


 羽になったように太ももが上がる。この分では飛ぶことさえできるかもしれない。


「来ないで。気持ち悪い」


 甘備の言葉に彼女の取り巻きの男達が私の方に向かってくる。数は四人、一人はその手に巨大な斧、あとの三人は槍で武装している。

 身のこなしからそこそこの手練のように見受けられる。


 三本の槍が私を貫こうと向かって来るが、私の纏う業火に触れると溶けてしまって一向に効果を得ない。


 大斧さえも私が腕を振ると、柄を残して消え去った。

 

 そしてもう一振りすると、四人は炎に巻かれてしばらくしてから消し炭となった。


 背中に力を込めるとやはり、飛べた。

 私の背には炎で形作られた翼が生えていた。

 目線の高さはもう、生後数日の赤子のそれではなく、馬上で王韙に刃物を向ける悪女を見下ろす程だった。


 赤子のものではなく、成人の歩幅で十歩以上も離れた場所だったが、一瞬で間を詰めた。


「遅いわよ。化け物っ」


 確かに遅い。私は間に合わないだろう。

 今にも刃は王韙の喉に突き刺さろうとしている。

 その光景は残酷にも、スローモーションのように今の私の目には再生された。


 絹を裂くような悲鳴。


 これ以上はないというほどに甘備の目は剥かれていた。


 甘悸が身を挺して王韙の盾となり、彼女の凶刃を受け取ったのだ。


 落馬した彼の腹からは短剣が生えていた。


「あなた……。どう……して?」


 混乱と絶望と落胆と脱力。それら一切を凝縮した甘備はもう思考能力を失っていた。

 つまり、それ以上、何もできなくなっていた。


 そして私が彼女に到達した。


 あまりにあっけなく、彼女は私の炎に灼かれ、灰となった。


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