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「ああ、あなた。よかったわ。無事だったのね。あなたに何かあったら私、この先どうやって生きて行けばよいのか分からなくなるところだったのよ。本当に良かった。本当に良かったわ」
地下牢は剥き出しの土だったが、その着飾った豪勢な服が汚れるのも構わずに甘備は、汚泥の混じった床に涙を落とし、膝を突いた。
「あ、ああ、甘備……、なのか?」
助け出された夫は、彼女の半身を目の当たりにして驚いたように言葉を漏らす。
さすがに甘備もこの言葉には鼻白んだ様子だったが、
「そうよ。私、私よ。助けに来たわあなた。無事なのかしら」
愛しい旦那をどうしても助け出したい一心で、お尋ね者であるにも関わらず城に踏み込み、我等を恫喝したのだ。
いじましい女だと思うことができれば、ある面からは賞賛できるかもしれないが、我等からしたら迷惑この上ない。
そろそろ目障りなので彼らには退場願おう。
「気は済んだか? だったら、そいつを連れてさっさと城を出ろ。そして二度と我等の前に姿を現すな」
「誰? あなた? 今しゃべったのはあなたなの? 確かに男の声だったと思うのだけれど」
私――赤子を抱く英江はもちろん何も語らない。
初対面の人間においそれと声をかけたりはしないが、甘備はそんな事は知るよしもないので、彼女の方向から男の声がしたことに不審を覚えたのであろう。
「しゃべったのは私だが、それはどうでもいい。お前達の目的は達したはずだ。早急に消えろ。私はお前のような奴を許したつもりはない。できる事なら、将来の禍根は絶っておきたいと願っている次第なのだが、太守を今すぐに開放するならば、捨て置いてやる」
ようやく私が声の発信源である事に思い至ったらしい。
彼女等は口々に「赤子がしゃべった」、「妖怪変化の類か?」、などと驚きの声を発している。
人を驚かせる時はどんな状況でもほくそ笑んでしまう私であったが、今は口の端を引き締めた。
交渉事はどんな手段であっても相手の心を動かした方が制する。動揺があれば、そこには付け入る隙ができるのだ。
「化け物め。あなたの言いなりになどならないわ。だって、私はまだ目的を達してはいないのよ。この娘を殺さない限り、私の熔けた右側が納得してくれないんだもの」
やはりそうきたか。誰しも掌中にある仇をみすみす逃す事はないだろう。だが、ここからが交渉だ。
「それをやってしまって、お前達がここから無事に逃げ仰せると思っているのか?」
「できるわよ。そんなの。その為に稚由ちゃんがいるんだもの。ね?」
問われた彼女は一人の男を牢から連れ出していた。
ぶつぶつと下を向いて怪しげな呪文を紡いでいるその男には見覚えがある。
王粛の屋敷で王韙に不埒を働いた薬物中毒者である。彼が徐曠の父親だという事はあの古城での甘備の言葉から知れた。
人の道を外れ、いくつもの罪を犯し、苛烈な拷問の末、既に廃人と化しているようだが、彼女にとってはかけがえのない肉親なのだろう。
この過酷な場所から父を救う為に地獄の門をくぐった彼女の行為をどうして愚かだと断ずる事ができるだろうか。
「無理だな。彼女は人が殺せない。従って、彼女の力でこの難局を切り抜ける事はできないぞ」
徐曠に目を向ける。
小さくビクリと肩を震わせる少女がそこにいた。大罪を暴かれた者のような蒼白な顔で俯いている。
私の知る彼女は町娘さながらの人どころか、虫を殺すことも躊躇うような乙女であった。
どういう訳か私に対しての狼藉は留まるところを知らなかったが、何にしろ、彼女は人殺しができない。
「だから、できるわよ。できるようになったのよ。だって、もう人殺しなんだもの。この子」
はずだった。




