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 徐曠は王韙が唯一気を許す相手だった。字は稚由ちゆという。


 歳は彼女よりも一つ下になる。


 生まれは長沙の南、湘南の町である。両親は物心ついた時にはすでに亡いらしく、天涯孤独の身の上であるそうだ。まだ幼年であるにもかかわらず、武技には通じており、私や王韙などは及びもつかない。


 容姿の幼さをからかおうものならば、たちどころに組み伏せられてしまうだろう。


 同年代の娘に比しても小さなその身体である為、簡単に跳ね返せると男ならば誰でも思うだろうがそうはいかない。


 巧みに体位を変えてこちらの力を無効にするのだ。


 そうして、じわじわと疲労を待ち、弱らせる。動きが止まったと見るや、必殺の一撃を喰らわせてくるのでたまったものではない。


 それはあたかも蜘蛛が獲物を補食する様子を彷彿とさせる。ただの小娘と侮っては痛い目を見る。

 それは実地に検証済みなので間違いはない。

 股間が見たこともない程腫れ上がり、激痛に意識を失ったのは記憶に新しい。

 当分の間は擦れるだけで飛び上がる痛さだったので、意識せずまともに歩けるようになったのはつい二日前である。


 その間、私の歩き方の情けなさといっては無いので、精緻な描写は避ける。


 ただ、女子供に関しては指を指して笑い、男共は同情を含んだ苦笑いをくれたことだけは、この忌々しい怨念と共に刻んでおこう。


 うん、いつの間にか私の話になってしまった。



 とにかく、可愛らしく、コロコロと活発であり、一端の武術家としても申し分ない女子ではあるのだが、私を目の敵にする事だけは玉に瑕である。

 致命傷と言ってもいい。私にとって、である。


 頭部から二つ突きだし出した突起物は、ツインテールではなく、鬼の角であるかのように私には感じる。


 そんな彼女も、王韙の前では子犬のように従順なのだ。

 いや、私以外の誰に対しても鬼ではない。

 むしろ、天真爛漫な子供そのものなのである。どうして私に対してだけ悪鬼になるのか。悪鬼に問いただす訳にもいかず、未だに謎は謎のままである。


 我々が自室に戻ると、徐曠は王韙に飛びついた。首の回りをぐるぐるとマフラーのように襟巻いているので、きっと暑苦しいことだろう。その季節にはまだ当分間がある。


「おかえりなさいませー。姫様。稚由は淋しかったのですよー」


「ただいま戻った。よしよし、いい子じゃの」


 と、主の方でもニコニコとマフラーを撫でてやっている。


「今日のお勤めはいかがでしたかー?」


「うーん、今日はちょっと疲れた。部屋に戻って少し休む」


 ひまわりのような笑顔に、主人の方でもニコリと返すと羽織っていた絹製の上着を放って渡した。


 さすがに、一郡の上流階級だけあって、与えられた館はそれなりの物だった。召使いも十人を下らない。


 徐曠と嘩蓮は名目上ただの召使いとしてここに置かれている。ちなみに私は彼女の相談役という立場らしい。


 太守に仕官しているわけでもないので官職も権限も何もない。ただの無職と変わらない。まあ、もともと以前からそうではあるが。

 変わった点といえば、王韙に養われる身になったという点である。


 考えてみると、少女に世話になるというのはすごく情けない気分になるが、身分に傅く事は封建社会においては当然の事、それはきっと気のせいだと己を慰める日々である。


「お疲れになったのですか。それはコイツのせいですね。ご安心ください、迅速に始末しておきますよ」


 と、私の方を指さしている。

 至極不満であるが、コイツとは私を指す二人称なのだろう。そして、全くの濡れ絹である。

 その物言いは冗談のようだが本気なのか、小さな格闘家はすでにゴキゴキと指を鳴らして寄って来ている。


 そんな事を繰り返していると、指の関節が太くなるぞと教えてやりたい老婆心に駆られるが、吐いた言葉はむしろ正反対の表現として唇を離れた。


「ふざけんなよ。チビッ子」


 ここで取り乱しては無様だ。謂われなく女の子に脅かされて身を縮めるなどという事は私の美学と沽券に拘わる。私は泰然と彼女を見やり、勇ましくガンをくれてやった。

 視線と視線はぶつかり合い、間に触媒があれば燃え上がるほどに熱を帯びた。

 どんどんと距離を詰め、気づくとキスする程近くに彼女の顔があった。思わず頬が紅く染まる。

 いいや、と、思いなおし、蕩けそうな面相を引き締めて厳めしい表情を形成する。


「なんだよ。コラ。稚由とやろうってのですか? やるっていうなら、手加減しないです。また、この前みたいに股間を元気百倍にしてやりましょうか。それからすり身にして瀏水に流してやりましょうか」


 瀏水とは、長沙の西を流れる湘水という川の支流である。

 この城は巨大な洞庭湖の南に位置している。南から流れ到り湖に注ぐ湘水は城の手前で瀏水からの水を受け取る。まあ、どうでもいい。


 それにしてもなんと野卑な言葉遣いだろう。

 王韙と対話する時との差が遠大過ぎて屈辱感が半端ではない。

 つい数瞬前までこの娘に恋焦がれていたとしても、この獣性むき出しの発言を聞けば、懐に忍ばせた恋心も空中分解すること間違いがないだろう。

 そして、彼女の不良な生い立ちを想って不意に涙が頬を伝うだろう。

 年端もいかぬのに世に頼る者も無く、己に身に付いた武芸のみを頼りに女の子が生きていくのはさぞ不安いっぱいであったろう。

 こんなにもひねてしまったのは愛が足りない故だろう。


 そう思うと、怒りにまみれ曇った心もいくらか透き通った。愛で満たされた私は、数センチと迫った肩を優しく抱きしめてやった。


「淋しかったんだな。可哀相に。分かる。分かるぞ。お前の事は何でも分かるんだ。お兄ちゃんに全部話してごらん」


「ば、ば、馬鹿、かあぁぁぁーーーーーーーーーっ」


 予想はしていたが、ひどい目にあった。


 ともすると、意識のない間に、一、二回死んでいたかもしれない。

 瀏水に運ぶのはやはり手間に感じたのか、私はその場ですり身になった。憔悴へと流れた。


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