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戦争は終わった。
王韙軍の逆転勝利である。
辛鄒の率いる桂陽軍、零陵軍、そして元長沙郡太守王粛が纏めた長沙軍の残党。
そして、我ら。最後の死力を尽くした王韙軍。
四方から出現した連合軍にずたずたに分断されて万庶軍は敗走した。
大将である万庶は、長江を超えて命からがら襄陽に逃げ込んだそうだ。
当分は南下できるような状態ではなくなるだろう。散々に散らかされ、失った将兵は数え切れないほどになっただろうと思われる。
我等は敗残兵を追う気にはなれなかった。王韙軍は疲弊の極みにあり、逃げ惑う相手にも遅れを取りかねない有様だったからだ。
援軍の到来で、戦局がほぼ固まると、座り込んでしまう者すらいたのだ。
無理もない、籠城から決戦まで、ここ数日緊張の連続であったのだ。張りつめていたものが切れたのだろう。
それに、昨日から一滴の水も口にしていないのだ。敵兵の去った水場に移動すると、皆嬉々として川と戯れた。
私は王韙と二人、はしゃぐ兵たちを眺めていた。
「ご苦労さん。なんとか勝てたね」
背後から掛けられた声に振り返ると、辛親子が笑顔で立っていた。
父親のほうは、狼の口が治っていて、剽悍な口髭の似合うダンディになってニヤリとしていた。牙ももうない。
振り向いた王韙に、二人は驚きの表情を隠せないでいるようだ。
なぜか。それは彼女に抱かれた私に目線が注がれているのですぐ分かる。私の姿が異様だったからだろう。
「どうしたんだい? その赤ん坊。拾ったのかい?」
辛鄒が指をさしているのは、私である。
「ああ、これな。これは、孔明じゃ」
「意味が分からないな――。ま、ま、ままま、まさかっ……、孔明の子を君がっ?」
「ば、ばっ、馬鹿を抜かすな。そんな訳なかろう」
「ゆ、ゆゆ、許せないよ。うん、許せない。孔明はどこだい? 三編生まれからっても後悔するくらいの事をしてやろうと思うんだ」
恐ろしすぎる。一応、後学のためにどういう目に遭うのか聞いておきたい。
「落ち着け。愚か者」
「これが落ち着いてなんていられるかね。これがっ。さあ、教えてくれ。孔明はどこだ」
「うるさい」
通りすがりの兵士からひったくったコップの中身を王韙は勝手にヒートアップする辛鄒にぶっかけてやる。
「まあ、そういう反応も無理ないじゃろうな。妾も未だに受け入れがたい。うむ、説明は難しいが簡単にまとめると、妾の命を救う為にこうなったんじゃ」
簡単にまとめ過ぎて何一つ伝わらない。きっと説明するのが面倒なんだと思う。
「ますます訳がわからないな」
「面倒じゃな。直接本人に聞くがよいじゃろう。赤ん坊じゃが、話はできるぞ。抱いてみよ」
やっぱり面倒だったようだ。
ほれっ、っと、軽貨物のように投げられた。
慌てて辛鄒が抱きとめる。
恐ろしい奴だ。こちとらふわふわの赤ん坊なのだぞ。間違って地面に落ちでもしたらお陀仏まっしぐらだ。
今の私の声は小さく、耳を寄せないと聞こえないらしい。実は戦闘中もずっと王韙に負ぶわれていた。
「よう。久しぶり」
気軽に話しかけてやる。
「ほ、本当に喋った。こんな小さな赤子が喋るなんて不気味だな。妖怪変化のようだ」
「すごく失礼だぞ。お前」
しかし、実際そうなのだろう。私はやっぱり人ではないのだろう。それは今回の事ではっきりした。
「まあ、何はともあれ元気そうでよかったよ」
まだ引きつったままの顔で彼女は言った。
「ああ、どうにかな。てか、ちょっと助けに来るの遅くないか? 花火が合図だと手紙に記したろう。お陰で死んだぞ」
その表現は比喩ではない。事実死んだ。
「悪いね。長沙制圧に時間がかかってしまったよ。万庶という奴は案外用心深い。我等の軍と三分割して、三分の一づつしか城門内には入れなかったんだ。本城にまで入れたのは私を含め数名のみだったよ。しかも、軽い軟禁状態でね。城を手中に収めたのはほんの三日前。もうちょっとで君達もお陀仏だったね」
恩着せがましい物言いにやや鼻白んだが、確かに彼女達の活躍がなければ、我等は城を枕に討ち死にするしかなかった。
「それにしても三日前だったら、もうちょっと早く参陣できただろうが。まさかお前、いいとこ取りを狙ったな?」
「いやいや、そう買いかぶられては困るよ。孔明君。我らはただ、勝機を伺っていただけだよ。まともにぶつかるには兵力が足りなすぎるからね。我が軍は」
たしかに、桂陽、零陵軍に王粛の長沙軍一万を糾合しても四万にも満たない。寄り合い所帯で十万を超える万庶軍と正面からぶつかっても勝てる見込みは少なかっただろう。一見正論ではある。
「おい、私が渡した指示書をちゃんと読んだんだろうな」
「なんの話しだい? 言っている意味がよくわからないよ。そんな怖い顔をしてはいけないよ」
「『長沙を制圧後、直ちに万庶軍にその旨を報せて混乱に陥れる。その後万庶軍の糧道を脅かす。これは、完全に遮断する必要は無い。そして、武陵方面の退路を絶つ。これも完成しなくてもよい。そうしておいて始めて敵と対する。そうすると、相手は逃げ場の無くなる不安でまともに戦えなくなる』そう記した記憶があるんだが」
長沙を取られ、武陵への退路も絶たれる。そして目の前には敵、背後にも敵。
味方の半分以下のそれではあっても、周りを取り囲まれる事で、相手は必ず不安に陥る。
とりあえず大きな獲物を揺さぶっておきたかったのだ。
「そうだっけ? あんまりダラダラと長ったらしい文だったから、忘れてしまったよ」
「嘘だろ」
分かりやすく、胸に手を当てて、図星である事を教えてくれているが、これももしかしてわざとなのだろうか。こいつは以外と演技派なのかもしれない。
「嘘じゃあ、ないよ」
「誰かさんにいいところを見せる為にギリギリまで待機していたんだな。この悪党。全てにおいてわざとらし過ぎるわ」
二人でいちゃついていると、王韙が寄ってきて会話に加わりたそうにした。
「お主ら、さっきからこそこそと何を話しておる。妾にも聞かせい」
「聞かせたくないから。こそこそしてるんじゃないか。馬鹿だなあ。崇姫ちゃんは、かわい……、いやいや。相変わらずだね。大人の話合いだから、少し下がっててくれないかい」
思わず「可愛い」と言ってしまいそうになっている。不満そうに王韙は唇を尖らして、後ろに下がる。その仕草は確かに可愛いかもしれない。
「お前もさっさとカミングアウトしたらどうだ?」
「何だい? かみんぐあうと、って」
「お前の正体をばらしちまえって事だ」
「ファザコンだって事かい?」
「なんでファザコン知ってて、カミングアウト知らないんだよ。いや、よく考えたらそんなに不自然でもないか。それより、そっちじゃない。レズビアンの方だろうが。なんで、お前が父親に告白するのを見なきゃならんのだ」
「ヤダよ、恥ずかしい」
レズビアンも知っているようだ。どこで教わったのだろう。亡くなった外国人の母からだろうか。どっちも造語っぽいけど。
「ファザコンも十分恥ずかしいぞ」
「ファザコンは普通だよ。女の子はみんなお父さんが好きなんだよ」
「そりゃニ、三歳ぐらいの頃の話だろうが。だいたい思春期には父親の存在なんて汚物になってるんだよ」
「汚物は言いすぎであろう。我もさすがに傷付く」
辛父が娘の胸元の私を寂しげな顔で覗き込んで来る。
「いきなり入って来ないでくれ、お父さん。どんだけ耳聡いんだよ」
「貴様にお父さんなどと呼ばれる筋合いはない」
「ああ、確かにそうだ。そりゃそうだ。もう何でもいいや」




