己の定義 1
「退却じゃ。逃げよ」
彼女が命令を下すまでもなく、兵達は波打つように、我先にと逃亡を開始していた。
土台無理な話だったのだ。
正面からぶつかって勝てる見込みなど最初から無かったのだ。
二十倍の兵をまともに相手にしようなどという事は、象に兎が挑むようなものである。
古城はそれが建っている小山ごと敵軍に包囲されていた。
万庶がいると思われる本陣は二キロほど南の平野にある。
山の東を南北に湘水が流れていたが、そこはその上流となる。
十万を超える大軍で、切り開かれて木の乏しい山はおびただしい万庶軍の旗で、秋でもないのにそのチームカラーである赤色で染め上げられていた。
堂々と隊列を組んで城を出た我が軍は、山の麓にあるなだらかな傾斜で、敵と衝突した。
「あわよくば我らで敵を粉砕できると思うておったが、流石に適わなんだの。あともう少しで大軍に風穴を開けられたのに、惜しかったの」
「全然惜しくない。木っ端微塵に粉砕されたのはこっちだろう。俺たちが率いる本隊、全くいい仕事してなかったしな」
徒歩で少数の騎兵を伴った嘩蓮は、中央から突出し容易く敵陣を駆け抜けて突破し、戻って別の所に抜けて、さらにジグザグに突っ込んだ。
何度も敵を分断するが、統率の取れた軍はそれだけでは崩せなかった。
それでも、いくらか乱れた箇所に李凡将軍の軍が楔をねじ込むように切り込んで戦果を上げた。
尋常ではない嘩蓮の猛攻にたじろぐように見えた万庶軍だが、時間とともに冷静さを取り戻した。
嘩蓮の動きを無視するように作戦を切り替えたようだ。
どうせ止められないならば、放っておくしかないという事だろう。
彼女一人を腹中に収めていても、それは人体に蟻が一匹侵入した程度のものなのだ。
「流石に、嘩蓮はいい動きをしたが、それだけだ。凡庸な軍ならばあるいは少しは勝機が見えたかもしれないが、相手も百戦錬磨だ。この兵力差は埋まらないな」
「妾が先陣を切っておれば、もうひと押しできたものを」
「なんだ。俺の作戦でうまくいかなかったような感じに言ってるんじゃねえ。お前が出て行ったら即座に戦終了してたぞ。だってお前すごく弱いし」
万庶軍は迷わず王韙の本陣を目掛けて動いた。
そうなるともうひとたまりもない。成すすべもなく波が砂城を洗うように呑み込まれてしまったのだ。潮が引けば跡形も残らない。
王韙軍はそのほとんどが山へ逃げ去った。古城に戻ったのは、王韙や私を含めた少数だった。
これまでは城外で城が干し上がるのを待っていたが、今が攻め時であると見た万庶軍は、容赦ない。
ダムに溜まった水が決壊して怒濤となるように雪崩打って城内に殺到してくる。狙うのは勿論、王韙の首だ。
追われる私と王韙は城門をくぐって内庭を抜け、城内の深部に到達する。そこは例の霊安室だ。
あらかじめ灯りは点していたので、あの時のように怖れる事は無い。ここに至ったのは、私と王韙の二人だけだった。
それ以外の者は各所に散らばって我らの合図を待つ。
当然だが、我らはただ負けて逃げ帰ったのではない。
「そろそろよいか? 孔明」
「そうだな。始めようか」
床に這わせてあった紐に松明で火を点けた。
紐には火薬を少しづつ混ぜてある。火は得物を狙う蛇のようにしなやかに伸びて、角を曲がり見えなくなった。
数分後にはその先にある樽に食らいつく筈だ。その他いくつかの紐にも同様に点火していく。
樽の中身は爆弾だった。
その間にも、猛った万庶軍は城内を席巻していく。
小城の中が敵軍で十分に満たされた。
そして、爆音が訪れる。
それを合図に、城内の至る所で破裂音が響く。
手始めに城門が崩壊した。
退路が絶たれ敵が狼狽えるのが目に浮かぶ。
さらに着火した建物から火が上がり、それらを敵兵ごと呑み込む。積み上げた藁や木造の兵舎、望楼から火柱が立ち上がり、火龍のように辺りを焼き払う。
荒れ狂う業火は人の命を恣に喰らった。
城に踏み込んだ敵は万庶軍全体からすれば、大した人数ではなかっただろうが、初めて経験する爆発という事象に、全軍が浮き足立っていた。
そこでようやく彼らは、我らに誘い込まれたという事を知る。
「決まったの」
「まあな。我らが完膚なきまで叩きのめされたのは演技でも何でもないからな。奴らからしたら、偽の撤退とは思わなかったろうな」
それに、古城に逃げ込んだ寡兵で、こんな大規模な火計が行われるなどとは思わなかっただろう。
巻き起こる爆風に圧倒され、爆音に耳を塞ぎ、地に伏せて恐れた。ほとんどの者が口を閉じるのを忘れただろうし、幻覚を見ていると思っただろう。




