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「でも、姫様は私に優し過ぎました。私を信じ過ぎていました。私はもう戻る事も行く事もできないです。私は何も出来ないです。生きる事も死ぬ事も、人を殺める事も、人を裏切る事も人に従う事も、一人で立つ事すらままならない。姫様。あなたに心からお仕えすることも、何一つ成し遂げる事が出来ないのです」


 そこには泣き崩れる徐曠の姿があった。


 手には中型の剣。


 おそらく嘩蓮の施したものだろう、身体の至るところを綺麗に包帯で巻かれているが、彼女が無理に動いた為であろう、白かったはずのそれは自らの血で赤く染まっていた。


 一緒にいるはずの嘩蓮は姿が見えない。どこかに遣いにでも出されたのだろうか。


「いいや。そうではない。お主にはできる。なんでもできる」


 そう言って、王韙は無防備に彼女の座り込むベッドに近づいていった。


「止めて下さい。寄らないでっ……くだ、さい」


 青ざめ、振り回す刃先が王韙の頬と腕をかすめる。瞬時に細く赤い筋が引かれた。


 が、構わず王韙は進む。彼女の口元は微笑を湛えており、その姿は、聖母の再臨であるかのような慈愛に満ちていた。


「お主は妾などよりよっぽど優し過ぎる。じゃが、それは己を一番傷つける。ありとあらゆるものに雁字搦めで身動きも取れない。右に進もうにも押し出され。左に行くにも何かが足を引っ張る。どちらにも行けない者はどうなる? きつく己を縮めるより他ないじゃろう。そうやってお主は、己を苛めてきたんじゃな」


 ついに徐曠を掴んだ。優しく。


 そして、手のひらを傷つける刃物を両の掌で優しく挟み込む。危険な量の血液が腕を伝って袖を濡らし、やがてシーツに広がった。


「や、いや。止めて……」


 どちらが襲撃者なのかもう分からない。

 凶器の持ち主が啼いて何かを懇願しているのだ。


王韙が何を想って何をしようとしているのか、そして自分が何を願っているのか、本人達にも分からなくなっているのではなかろうか。


「妾の屍を越えて行くのじゃ。稚由。妾の可愛い妹よ」


 刃先は呑み込まれて行くように王韙の胸元に収まって行く。それが最も自然な事ででもあるかのように、当たり前の行為であるかのように。深く。


「あ……、あ」


 ただ、意味の無い言葉が漏れた。


 徐曠の視線はジワジワとその版図を広げていく赤い領地を眺めていた。その首が緩慢な動作で左右に振られ、現実を否定した。


「これで一つ、成し遂げたの。一方が開ければ世界は広がる。他方を乗り越える事も容易い。そういうもんじゃろ。のう、孔明よ」


 無言で部屋に入り込んだ私に気がついていたようだ。ニヤリと歪んだ彼女の口元に赤い物が垂れ下がる。


「ああ、そうだな」


 刃先は肺にでも刺さっているのだろう。呼吸音がどこか抜けたような調子で荒い。


 今の文明レベルの医学では助けようもない致命傷だった。


 ゴボリと血の塊を吐いた。もう長くないだろう。


 今、私はどのような顔をしているだろう。


 怒っているだろうか、それとも悲しんでいるだろうか、どっちともつかない表情だろうか、ひょっとすると、情けない泣き顔を晒している可能性も否定できない。


 徐曠はどうしてよいのか分からず、ただおろおろと私と王韙を見比べるだけである。


「のう、孔明。妾は死ぬのか?」


「ああ、そうだな。それだけ血が出てりゃ間違いない」


 そのやり取りを聞いた徐曠は、自分が死神に行き遭ったような様子で、びくりと肩を震わせた。


「あっさりと言うんじゃの。冷たい奴じゃ」


「私は怒っているんだ」


 いや、怒ってなどいない。哀れんでいるのだ。


 気宇壮大な夢を抱き、何も成さずに死んでいく少女を。何もしてやれなかった自分を。


 しかし、やっぱり怒っているのかもしれない。


「何に……、いや、分かっている。済まなかった。じゃが、これしか思いつかなかった」


 出会った時からそうだった。彼女は軽率過ぎた。感情のままに流され過ぎた。この死は宿命であったのかもしれない。


「そう簡単に馬鹿は治らないんだな」


「済まん」


「最近お前、謝りすぎじゃあないか? まあいい。稚由。席を外せ」


 私は振り返ると、床の一点を見つめて動かなくなった少女に指図した。私の声が届いていないようなので、重ねて命じた。


 ようやく、我に返った彼女は、いやいやと首を振る。王韙の最期を看取りたいというので、強引に叩き出したが、彼女は最後の抵抗をしなかった。


「人は死ぬとどうなるんだろうな」


 二人きりになると、私は、古今に議論され尽くしたと思われるような陳腐な問いを切り出した。


 赤い沼となったベッドに横たわる彼女は抜け出た血の分だけいつもよりも小さくなったようだった。


 永久にその赤い沼から抜け出られないようで、弱々しく息をつくその姿を見ていると、心臓に釘を刺されたような痛みに襲われた。


 私はなるべく、人と深く関わる事を避けて生きてきた。生きている限り、別れは訪れる。


 別れは関わりが深いほど悲しい。

 だから極力繋がりを求めないようにしてきた。だが、今回はそれができなかった。


 今の私は彼女というピースを欠く事を酷く恐れている。


 自らの血だまりに沈み死にゆく彼女を見下ろして始めてそう思った。彼女を愛している、と。


「この期に及んで何じゃ。何を黙りこんでおる。妾を怖がらせようとでもいうつもりか? それならば無駄な事、もう十二分に怖い。じゃがな、やってしまったものはしょうがあるまい。この現実を受け入れよ」


「そうじゃない。お前が死というものをどう捉えているのか聞いておこうと思ってな。どうだ」


 うーん、と唸って、しばらく虚空を眺めた後に、トランプのババが混じった手札を差し出すようにおずおずと話し出した。


「そうじゃな。死についてはあまり考えた事が無い。しかし、生については時々想う事がある。人は死んで土に還る。でも、人が生まれるのは土からではない。なぜか。それは肉体とは精神の入れ物でしかないからじゃ。では、その精神はどこから来る? 母親じゃ。母は精神を分割して子に与える。違うか?」


 彼女はゆっくりとショック状態で青くなった唇を動かした。

 その上唇と下唇の間には、見えないゴムが渡してあるようで、いちいち開くのに震えたし、何より重たそうだった。


「いいや、違わない。というより、正解なんて誰にも分からない」


「そうか、お主のように何でも知ったような顔をしておっても、分からんのか」


「それが辞世の句か? 冗談なんて言っている場合か。さっさと答えんと、力尽きるぞ」


 ニヤニヤとして私をからかうようだった。こんな時にも緊張感がない。いや、こんな時だからか。


「人は土に還る。じゃから、魂も土の中じゃ。この大地に還り、大地の一部となる。それが死。そんなところかの。それより、妾はどこに埋められるかの。死体が敵軍に渡れば五体を引き裂かれるかもしれん。まともに埋葬もされんかもしれん。酷いもんじゃのう」


「そんな事はさせない」


 私は迷っていた。


 一時の感情で取り返しのつかない事をしようとしているのではないかと、そう思っていた。


 私の孤独と虚無を他者に分け与えてしまってもよいのだろうか。


「そうか。それを聞いて安心したぞ。そうじゃ。いつか、お主に勾践について評を求めた事があったの」


「ああ、あの下らない会議中の事だな。覚えている。お前は俺の論評が気に食わないようだったがな」


 長沙城が降伏派と開戦派に別れて論陣を張った時のことだ。


 暇つぶしに問われた事に彼女の不興を買ったのだが、もう懐かしい昔の話のようだ。

 まだあれから一月も経っていないが、それが嘘のようだ。


「そうじゃな。妾は奴が嫌いじゃ。奴は臥薪嘗胆などと言われるように、呉王夫差ふさに隷属して一時、国を売った。そして、国に戻るとたくさんの美女を贈って呉を油断させたのじゃ」


「そうだ。それのどこがまずいんだ?」


「ふん。奴は一国の王じゃ。王が考えるのは民の事じゃろう?」


「それは、まあ、そうだな。で?」


「それにな、よりにもよって美人計じゃ」


 やや激して来たのか、儚いながらも吐き捨てるように言った。


「それのどこが悪い。兵法にも適った立派な戦略だぞ。味方にはほとんど不利益もなく敵を美人で蕩かせる事ができ、その部下には反感を与える事ができる」


「ここまで言っても分からんのか? 己が呉を滅ぼしたい為だけに、国土を売り、また、国民である美女を捨て石に使ったんじゃ。平たく言うと、他者を道具にして己の欲求を満たしたのじゃ。これが鬼畜の仕業でなくて何だというのじゃ」


 生まれついて王族であった者、生まれついて奴隷であった者。それらが終生変わりなく運命を背負って生きていく不条理さ。

 肉体的な力のなさから虐げられる女性の宿命。それらに対する純粋な怒りを、彼女は思考の根底に持っているのだ。

 それは、彼女の根っこであり、境遇に由来するものだろう。


 私もこの時代に染まって、そんな感覚は忘れかけていた。


 だから、彼女の指摘に最後まで気がつかなかった。それは人権意識というやつだ。


 しかしこれは、彼女の思考が乱世のリーダー向きでは無い。とも言える。


 どちらかというと、一揆の指導者のそれである。弱者の権利と正当性だけを主張しているに過ぎないのだ。


 勾践の行いは確かに、虐げられた当事者達にしてみれば、極悪人のそれであったかもしれないが、結果、呉という宿敵を滅ぼす事に成功しているのだから、歴史の評価において、彼女の挙げた点だけ取り上げれば、誰に恥じる事もない行為である。大志の為に誇りを犠牲にしたのだ。


「お前は志の為ならば、勾践になる事ができるか?」


「無理じゃ。なれん。お主はそうあって欲しかったのじゃな。では、ひとつ教えてやろう。勾践は呉を滅ぼす事ができた。じゃが、それからは讒言を容れ、良臣を排斥した。これは、お主の言う、志しか持たなかったが故じゃ。結局、恩や誇りを忘れ、国も失くした。そうじゃろう? 志は誇りに優先しない。共に同列である。これが妾の辞世の句じゃ」


「…………。分かった。覚えておこう」


「妾は、困窮に喘ぐ者、時代に虐げられる者を救いたかった。それだけじゃ。他に望みは無い。……もう、ほとんど目は見えない。終わりが近いのじゃろう」


「待て、まだ死ぬな」


「無茶を、言う」


「最後の質問だ。お前が死後の世界で永久に一人ぼっちだったとする。そして、生きている私を殺して死後の世界に連れてくる事ができるとする。その時、お前ならどうする?」


「意味が分からん。じゃが、お主とならば…………」


 迷ったが、決断の刻だ。もう彼女の命に猶予は無い。


「そうか。さて、王韙。今からは私の言う通りにしろ」


「ああ、今ならなんだってする。好きな事を言ってくれて構わんぞ。どうせ捨てた命じゃ。お主にくれてやろう」


 彼女は既に観念した人の顔でこちらを見ている。


 口は真一文字に引き結ばれているが、相当に苦しいはずで、無理をしているのが明らかに見て取れた。


 ようやく自らの死を実感し始めているようだった。


 彼女ぐらいの年齢の人間にとって、死とはあまりに遠い存在だったのだろう。


 しかし、剣も政治も軍略も何一つまともにできないくせに、彼女はなんと誇り高いのだろう。


 最期まで泣き言は言わなかった。


 彼女には私心が無い。

 手前勝手な理屈ではあっても、常に天下国家、その太平を願っていたのだ。


 痛々し過ぎる。死の間際ぐらいは泣き叫んで命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、私は彼女を安らかに眠らせてやれたのに。


「そうか。いい心がけだ。では、王韙よ。お前の提げているその剣で私を刺し殺せ」


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