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「非常に程度は低かったが、楽しい会話もできたことだし、これで解散にしよう。明日も早いんだからな」
「そうじゃな。たまにはお主の忠告に従って……」
ふとテラスの方に目をやった王韙はそこから言葉を無くしてしまった。
何事かと気になり、私もテラスに歩み寄ると、そこからは美しくも好ましくない風景が見えた。
夕闇が迫る黒と赤の美しいコントラストの下、いくつもの炎と煙、群れで動く人間も確認できた。遠く、人々が怒鳴り合う声もそこかしこで上がっている。
その光景に見入っていると、廊下の慌ただしい足音が二人だけの空間を邪魔するように鳴り響いた。
太守の執務室だったが、「御免」と、だけ断り、ノックもせずに男が飛び込んで来た。
見た顔である。若い下士官だ。続いて十数名の若者が床に跪いた。
「大変です。王太守殿。軍の一部が離反し、城内の各所を押さえ始めています。また、何者かが、城の地下牢から囚人を解き放ってしまいました」
悪い予感は当たったようだ。
あの時、我等が反対者を処分するつもりである事を事前に知って、口裏を合わせて王韙の即位を演出したのだろう。
面従腹背という奴だ。ある程度予測していた事態なので、冷静でいられた。
「叛乱の規模と首謀者を教えてくれ」
それについての答えを彼らは持たなかった。
だが、報告によると、城内のおよそ七割が反乱に加担しているようだ。味方の将兵も抗戦しているようだが、制圧されるのも時間の問題だろうとの事。
始めから、降伏論を唱えていた者は全て投獄しておくべきだった。いや、それどころか、やっぱり殺しておくべきだった。私は甘い。今回は反省する事ばかりである。
「城門はどうだ?」
「我々も取り急ぎここに参ったので、全容は分かりかねますが、北門は、元季将軍が抑えているようで、まだ安全のようです。その他は兵舎から遠いので恐らくもう駄目かと」
「そうか、助かった。よし。逃げるぞ」
まだ事態についていけない王韙を促して、まずは厩舎を目指した。我等の後から、若者達も続いた。
北門には無事に辿り着いたが、そこから逃げ出す事はできなかった。
元気な老将で一番の開戦論者であり、私も王韙への力添えを最初にお願いした元季将軍もそこに屍を晒し、城門を反乱軍に明け渡していたのだった。彼の死を悼む間も無く西へ走った。
街は各所で火の手が上がり、歓声と悲鳴が重奏のように城壁に当たって反響した。騒ぎに便乗した、ならず者は略奪と陵辱を始め、混乱に輪をかける。
至る所で死が生産され、断末魔は夕空を切り裂いた。
飽き飽きするほど目にした風景だ。人間の醜悪さと凶暴性を凝縮した地獄絵図。いや、地獄などよりも凄惨な光景かもしれない。なぜなら、地獄にいるのは悪人だけだ。善良な老婆や無垢な赤子、罪のない女や幼い子供はそこにはいないのだから。
「孔明。なんじゃ。こんなものを妾に見せるな。こんな光景が見たくないから妾は天下を目指したかったのじゃ。妾がこれを見なければならないのは、お主が不甲斐ないせいじゃ」
彼女はヒステリックに叫ぶと、馬上である事も忘れて耳を塞ぎ、目を閉じて私を詰った。
「否定はしない。だが、お前はこの光景を見ておかないといけない。そして、生き抜いてこの光景の無い国を作れ」
「嫌じゃ。見ん」
頭を振って二枚貝のように殻に閉じ篭ってしまった。
「駄目だ。これはお前の義務だ。これを引き起こしたのは私でもあるが、お前でもある。責任を押し付けて終われる事ならばそれでいい。だが、お前の志はそこで死ぬ。それでいいのか?」
「妾はお主の言う通りにしたのじゃ。言い付けに背いたりはしていない」
いやいやと手を振って涙を流している。何かを怖れるような、居りもしない誰かに弁解をするようだった。
馬の鬣にしがみつくようにして世界を閉じてしまった彼女に私は手を伸ばした。そして頭を引っつかむと前を向かせた。嫌がって払いのける手を取って頬を張った。
「汚い物も見ようとしないで、正義を気取るな。威勢のいい事だけならしみったれた酒飲みにでも言える。お前は酔って無い目で見ろ。この世界には汚物が溢れている。人の心にも汚泥が溜まる。自分だけが清くいようなんて通らないんだよ。特に正義なんてもんを掲げる人間ならばなおさらな」
彼女は声を張り上げてわんわんと子供のように泣いた。後ろを駆ける若者達は呆気にとられてそれを見ていた。
彼女の人格形成には、やはり幼少時代に受けた虐待がかなり大きな影響を及ぼしているようだ。
いつもは泰然としている彼女もこのように大きく感情を発露させる瞬間がある。その振り幅は、傍で見ていると首を傾げるほど不自然なものであった。
愛情の欠損した家庭に育つと人はいくらか歪む。様々な歪み方があるが、彼女の場合はこのような感情の爆発なのかもしれない。
興奮して抑制が効かなくなったり、怒ると手がつけられなくなったり、泣き出すと止めどないというものだ。
まるで子供じゃないか。
彼女はこうして、ふとした拍子に子供に戻り、自分の中に沸いた猛烈な感情を追い出しているのかもしれない。
一人では抱えきれなくなった情動を吐きだしているのかもしれない。
危うい。それは、ところどころ断線した線路の上で、いつ横道に逸れるか解らない電車を運転しているようなものだ。
私は彼女を引き寄せて自分の馬に乗せた。
空になった馬はこちらの蔵に手綱を結んだ。このまま一人で放ってはおけない。未だむせび泣く彼女を抱え込むと、西門へ急いだ。
西門は混戦状態だった。城外の市民を受け入れる途中で変事が起こったのか、城門は開きっぱなしになっていたが、門前では百人程度の人間が二派に分かれて争っていた。
ここで、味方の援護をしても大した意味は無い。既に大勢は決しているのだ。私は強行突破で逃げ出す事をすぐに決断した。
しかし、ここでも私は非情な決断を迫られた。
一刻も早くこの城を出なければならない。
城門までの距離は数十メートルだ。
城外に出ようとする一団があれば、慌てて門は閉じられるかもしれない。そうなれば、もう逃げ場も無くなるだろう。ここだけが活路だ。
そう思えば、言葉も自然と出てくる。
「ここは無理にでも駆け抜ける。悪いが君達、盾になってもらえるだろうか」
私の馬にはようやく平静を取り戻し始めた王韙がいる。派手に動く事もできない私が、先頭に立って混戦を抜けるのはリスクが高すぎる。
「はい。喜んで盾となりましょう。我らは王太守殿に忠誠を誓おうと今朝結びあった同志です。あの決意表明を拝聴し、我らは感動しました。その凛然としたお姿、微かに漂う哀調と勇ましいお声に震えたものです」
太守の執務室にいた我らに変事を報せてくれた若い下仕官がハキハキと一分の逡巡も見せずにそう言った。
一団を率いているのも彼のようだ。表情こそ悲壮ではあったが、彼らの瞳には自己犠牲の恍惚とした光が滲んでいた。
「そうか。名はなんという?」
彼らはまだ少し茫洋としている太守に各々名乗りを上げた。死の間際に、己の墓標に名を刻む者のように私には見えた。
「では、参りましょう。我らはお二人が城外に出たのを見届けたら、城門を閉じ、追手の追及を阻みます。どうか、お元気で」
「待て」
では、と駆けようとする彼らに声をかけたのは、正気に戻った王韙だった。
十五対の視線が再び私の胸元に注がれる。
「お主らも死にに行くのか?」
「違います。太守殿の城門突破のお手伝いをするのです」
「その後じゃ。ここに残るという事は、死ぬのも同然ということじゃろう。違うというのか」
「違います。我らは太守殿の為にこの門をお守りする。その為に残るのです」
「一緒の事じゃ。止めてくれ、妾と共に付いて参れ」
「ありがたいお言葉ですが、お断り申します」
「もう止めておけ。彼らにそれ以上言わせるな」
私は堪らず、口を出してしまった。
彼らが共に脱出したとしよう。そうすれば、多く人目に付くので、追手がかかりやすい。
他方、ここで城門を死守すれば、私達が安全圏まで逃げ延びる可能性が増す。そう考えた上での決断なのである。
正直、このような判断ができる彼らは、非常に惜しい人材である。是非生き残って、王韙の下に参陣して欲しい。
それにしてもやはり、彼女は子供だ。
彼らの気持ちを全く汲んでやれない。いや、心の底では理解しているだろう。だが、その気持ちに気付かない振りをしているのだ。それだけ彼女は感傷に弱い。脆く、儚く、流されやすい。
でも、それではいけない。このままでは、乱世の主君たる資格は無いのだ。
「かたじけない。それでは、改めて、参りましょう」
小さな背中は震えていて、歯ぎしりの音が私の耳にまで届いた。




