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 王韙が死に神を張り倒してからは、実に不毛な時間が続いていた。


 怒りに打ち震えて決然と会場を後にする者もいれば、哀訴を重ねて懇願する者もいる。

 唾を飛ばして意味の通らない主張をいたずらに振り回す男は、隣の良識ある賢者に口を塞がれて沈黙した。

 興味のないふりをして傍観者を装い、その実、計算高く弁舌を振るう機会を虎視眈々と狙うしたたかな輩もいれば、ただただ訳知り顔でその実、何の考えもなくうんうんとひたすら首を振るだけの愚物もいた。

 大声ならば勝利できると信じているのか、敵手の主張をかき消す事に情熱を燃やす一団もいる。


 私はそれらを誰ともなく眺め、よそ事のように腕を組んでいた。飛び交わされる議論や悪口、唾液や汗汁、はたまた書物やげんこつ、肘に足を横目に見つつ隣の人物を眺めやった。


 この乱知気極まる議場で一段高い場所に立つ少女は、傲然と場を睥睨するように、傍目に明らかな程の怒気を孕んだ顔を隠そうともせず衆目に晒していた。相当なしかめっ面で、整った顔も幼児が作った手作り粘土のように歪んでいる。


 だが、誰も私と彼女を気に掛ける者などいない。

 我らはこの議論の蚊帳の外だった。


 なぜなら彼等は、とにかく持論をこねくりあげて、相手の耳にねじ込んではやり込めて悦にいる事に忙しいのである。


 議論に結果を求めるのではなく、議論をすること事態が目的なのではないかとも思えてくる。


 この城は今、二択の魔力に取りつかれていた。


 降伏か交戦か。


 彼女の隣で、実は寝ているのではないかと私は疑っているが、国で一番悩み抜いた人のような姿勢で頭を抱えて顔を伏せ、上座に鎮座する指導者も含めて城内は二分されている。


 二分とは言っても、割合は等分ではない。


 敵への降伏論が大勢を占め、開戦派をしたたかにやりこめている。


 過去歴史からの定石ではあるが、開戦を望むのは武断の一部将軍のみで、他の武将や文官一堂はみな敵に降りたがっている。


 定石過ぎて、見飽きてしまった光景であるので、私はこっそりと欠伸した。


 つまらなすぎて、何者かが瞼を下ろそうと睫毛にぶら下がっているのではないかと思う程の眠気が私を波状攻撃で攻め立てていたのだ。


 議論の趨勢もすでに見えている。


 開戦組は鼻息が荒いだけで、言論が不確かで纏まりもなく一方的な勢い任せ。理論的に差し込まれる相手の剣にもはやハリネズミのようである。降伏派に降伏を余儀なくされるのも時間の問題だろう。


 もういい加減にして解散させて頂きたいものであるが、上座からは鶴が一声を発する事もなく、苦悩はいつ果てるともなく続いている。


 いっそのこと、そのまま石化してしまえば、本人もお集まりの皆様も楽になれるというものだろう。


「崇希さん。今、君は何を考えておいでかな?」


 私は努めて優しく、拳を色が無くなるくらいに握りしめ、今にも噛みつきそうな顔で会議場を睨め回している娘に問いかけた。


 崇姫すうきとは、王韙のあざなである。


 字とは、王が姓で韙が名前であれば、それ以外に自分で付ける名である。


 この国では普通、相手を呼ぶ時は字である。


 面倒なことだが、王韙の事は崇姫と呼ばねばならないのだ。無論、私にも字はある。


 私は今、姓を諸葛、名を亮、字は孔明、と、名乗っている。


「知れた事じゃ。手元にひと振りの剣があればいいのにな、っと、思っている」


 そんな無体な思考は知れていない。こちらを振り向いた彼女は、その大きな瞳だけに怒りを燈し、呆れたように私を向いた。


 つまらない事を聞く奴だ、とでも言わんばかりだ。


 古来、君主を諌めるのに、自刎してその意志を示した家臣は数多いが、当然彼女がそのような殊勝な行為に及ぶわけもないので、何をしたいのかは自明である。


 力づくで議論を終着させようというのだろう。


 私としては既知ではあるが、見た目に反して野蛮なことだ。


「止めておけ。彼等の中には歴戦の将も何人かいる。それじゃなくてもお前のようなヘボに黙ってやられてくれる奴はいないぞ。逆に斬り殺されるだけだ」


 特別剣技に秀でているということはなく、彼女はむしろ素人同然である。


 そのくせ振り回すのは好きらしく、私や二人の側近にはしきりに手合わせを申し込んで来ては軽くコテンパンになる。


 運動神経もお世辞にもいいとは言えない事は、乗馬の訓練を眺めていても明らかだ。

 あれは馬に乗っているというよりも、乗せられている。見ている方が悪酔いしそうな程、完膚無きまでに家畜に振り回されている様は、憐れですらある。

 おまけに見た目通りに痩せっぽちの非力なので、この先武芸に芽が出る可能性も極めて低いだろう。


「何を勘違いしているのじゃ。妾は彼らを斬り殺そうなどとは思っていないぞ。お主は見た目の通り悪辣な事を考えるのう」


「じゃあ、お前はその剣を使って、この人口密集地帯で一体全体どうしようっていうんだ?」


「無論、余計な口を開けないように指を飛ばして彼等の口に詰め込んでやって、妾の意に沿うように意見を変えて頂くだけじゃ。丁重にな」


「想像してみろ。ひたすら怖いぞ。俺の考えの斜め上を行ってる。それに、それだとふんじばられちまって、結局お前が斬り殺される未来は多分変わらねえぞ」


「ふん、ちょっと数万の敵に脅かされたくらいで半べそになるような惰弱共に、やすやす斬られてやる妾ではないぞ」


 いつもながらに思うが、彼女の言は冗談なのか本気なのか判別できない。


 まあ、冗談だとは思うのだが、ゾッとする時がないではない。


 あと、重ねて言うが、彼女には武芸の嗜みは無い。いかにもありそうに振舞っているだけだ。本人はそれで強くなったつもりでいるらしいので、なおさら哀れみを誘う。


「精神論で敵は倒せないと何度言ったら解ってくれるんだ?」


 親切にも、出来ない生徒に噛んで含めるように教えてやった。


 実際、私は、彼女の家庭教師のような存在だと自任している。


 彼女の偏差値は相当に低空飛行なので、私のような優秀な家庭教師がしっかりと踏ん張って導いてやっても三流大学にねじ込むのが関の山だろうが。



「分からんのう。妾を説き伏せたかったら、百万言を弄する覚悟が必要なのだぞ?」


 腕を組んで偉そうげだが、私の方が目線が上なので、流し眼をしているようにしか見えないのが可愛らしくもあり、滑稽でもある。


「そんな面倒なことは御免こうむるね。むしろ私がひと振りの剣を欲するほどだ」


「そうか、お主が妾の代わりにここらの不心得者共と切り結んでくれるというのじゃな。主孝行な奴じゃ。今度なでなでをしてやろう」


 彼女を消してしまった方が百万もの弄言をするより安易だと言いたかったのだが、ポジティブ過ぎる彼女は簡単に曲解してしまったようだ。


「それをやってもいいが、私だってきっと斬り殺されるだけだ。そして次はお前の番だ」


「妾は死なんぞ。お主が死んでも妾は生きる」


「なんだと。まさか、私を捨て駒にするのか?」


「そりゃそうであろ。妾には大志があるのじゃ」


 えへんと、無い胸を反らす様は見ていて愛らしいが、よく考えると言葉の中身は私への侮蔑に等しい。


「それでは私には志が無いように聞こえるじゃないか」


 実際、無いんだけど。


「あるというのか? 仕官を拒み続けて来た引きこもりのお主に。じゃがしかし、あったところで、所詮叶わないぞ」


「なんでだよ?」


「妾がお主の分の『士』を消しておいたからな」


「酷い。それじゃあ、下心しか残らない。あんまりだぞ。私の志になんてことするんだ」


 なんと油断のならない奴だ。

 私が志無く、いつまでものんべんだらりと隆中の草庵に引き籠っていたのは彼女の仕業だったのか。


 あまつさえ、下心だけ残すだなんて。私が嫌らしいへそ曲がりになってしまったらどうしてくれるつもりなんだ。


「そうじゃな、確かにやりすぎた。まあ許せ『弘法も筆の誤り』じゃ」


「待て、弘法大使はまだまだ先の時代の人物だぞ。なぜそんな諺を知っている? というか、この先に生まれる保証も無いぞ」


「なんの話をしているのじゃ。弘法は私の読み書きの師じゃぞ。そんな海の物とも空の物ともつかない人物のことは知らん」


「いいや、何か知ってるだろ」


 その言い回しは普通、海の物とも山の物とも、というはずだ。


「知らない。と、言うのに。しつこい奴じゃ。クビにするぞ」


 突っ込まれるのが煩わしくなったようだった。ほとんど仙人と変わらない悠々自適さと崇高さを身につけた当方としては、クビにされても一向に困ることはないのだが。口にすると鬱陶しくもややこしいことになりそうなので、話題を転換することにした。


「まあ、そういう事にしておこう。それより、どうするんだ。この状況」


 この状況については、この会議場の様子について言っている訳ではなく、この会議の主な議題になっている北荊州の動向とこの長沙郡の身の振り方についてである。


 荊州牧の万庶ばんしょは荊州北方を支配下に置いている。


 根拠地は襄陽じょうようである。彼の勢力は荊州一州に留まらない。手当たり次第に勢力を伸ばし、大勢力になりつつある。


 長沙への宣戦布告からすでに、南郡の江陵を発っているという。ゆっくりと七万人の大軍を率いてじりじりと示威的に進軍しているらしいという報告がある。


 彼自身、勇猛であり、一軍を率いて戦場に舞い踊る事もしばしばあるという。


 こう聞くと蛮勇な荒武者のように聞こえるが、私にはそうでもないように感じる。侮れない男だと思う。


 彼の行動には一面、理が有る。今回の南征は何も長沙一郡欲しさではない。未だ彼の傘下にない零陵れいりょう郡と桂陽けいよう郡をも視界に入れているのだろう。大軍でゆるゆると見せつけるように進むのは、そうすれば、その武威に恐れを成して降る勢力も出てくることを狙っているからである。この長沙のように。


万庶には一面理が有る、と先述した。


 それは、当然、別の捉え方もできる事を暗示した。


 大軍を擁して遅々と進まないのは、兵士たちの食糧、兵糧を無駄に消費する事に繋がる。

 普通、日常生活では一日二食でも、行軍中や作戦行動中は三食饗する事が望まれる。

 働かざるもの食うべからず。腹が減っては戦は出来ぬ。で、ある。食事量の多寡は士気に影響するのである。金がかかる事は言うまでも無い。


 もう一点ある。それは、相手に時間を与える、ということだ。


 戦の準備はもちろん、他方に助けを求めることもできる。


 その二つの点で不利益を被る訳であるが、そんな事も織り込み済みなのかもしれない。


 それでいて、いけすかない死神のような使者を派遣したり、武威行軍を行ったりしているのだとしたら、そこに隠された万庶のメッセージを考えてみる必要があるだろう。


 対する長沙の軍事力は、非常に慎ましいものだった。


 太守の人柄のせいか、長い太平のお陰か、徴兵制は凍結されており、ここに職業軍人は少ない。戦用の人足や世話人を除けば三千人に満たない。


 戦乱や飢饉、災害などで荒れた他所からの流入で昨今、人口増加の目覚ましい荊州南部のこと、募兵すれば結構な数が集まるだろうが、安穏と暮らしてきた農民達に鎧兜を被せても、ものの役には立たないだろう。また、それだけの武具も無い。


 構図を整理すると、果敢な戦士と平和ボケした農民の戦いと言っても過言ではなかった。もちろん手に合わない。


 これでは城内の議論が降伏に流れるのも理の当然だろう。順調にいけば七日後には、万庶はこの城の太守の椅子に腰掛けていることだろう。


「そうじゃな、真面目な話、この流れをひっくり返すのは難しいじゃろうな。この城は七日後には明け渡すことになるじゃろう」


 分かっているのか。意外に冷静だ。

 己が一軍を率いれば、勢いで勝てるとでも考えているのかと思っていた。


「そうじゃ。その通りじゃぞ。果敢な戦士とは、私のことじゃろう。この戦、やはり必勝じゃな」


「モノローグを読むなっ。心を覗けるのかよ」


「馬鹿な。そんな事できるはずなかろう。ただ、お前が私の事をそう評したがっているのではないか。と、思ってな」


「そんなこと予想できるもんか」


 いつの間にか、無くしていた上機嫌を取り戻していた彼女は、悪巧みをする子供のようにニヤニヤと含みのある笑みを浮かべていた。


「私ほどの人間になればそれくらいの読唇術は心得ている」


「読心術の間違いだろ。それ」


「いいや、合っている」


「どういう事だ」


 彼女の言わんとしている事は杳として知れない。馬鹿にしたような雰囲気が見てとれたので、癪に障ったが、後学の為、憮然として訊ねた。


「仕方ない、気づいてないようじゃから種明かしをしてやろう。お前の思考はダダ漏れじゃぞ。気持ち悪いことにずうっとブツブツ呟いていた。優しい私だからそんな不気味な癖も指摘してやるのじゃ。ありがたく思ってもらおう」


 うそ。そうなの?


 止めて、恥ずかしい。


「しかし、こ奴らは何故ここまで、降伏を望むのであろうな。進んで敵に屈するなど、情けなく恥ずべきことだとは思わんのだろうか」


 それは、概ね彼女の中でも了解済みの疑問なのだろうが、他人の意見も一応容れてみようかという心の動きと、私の口から同じ意見を聞いて共感したいという気持ちから発したのだろう。


「そりゃもちろん、味方に勝機が無いからだろう。あと、太守に対して忠誠心が希薄だからだろ」


 高校の教室二クラス分くらいの広間に君臣数十名で喧々囂々騒がしい空間ではあるが、さすがに当の本人のお隣であるので、聞き咎められると具合はよくない。


 密談に近い囁き合うような問答だったが、そんな不審な我らを気に留める者もいないようだ。


「ふん、おかしな話じゃな」


「何がだ?」


「いや、父に忠誠心が無いのは論を待たないことだとは認めるが、勝機が無い事に関しては、惰弱なこ奴等の能力不足に起因しているのではないのか? そうであるのに、主に屈辱を強いるというのは臣下としてはゴミ同然ではないのか。カスそのものではないのか。やる気と内なる正義さえあれば、決して何者にも負けることは無いというのに」


 これは公平な論ではない。彼女の主張には一番大事な視点が抜けている。いや、あえて考慮していないのだろう。蛇足ではあるが、私もあえて申し添えておこう。


「勝機の大小には臣下の能力も重要だとは認めるが、基礎戦力の違いは大きいと思うぞ。あと、さっきも言ったが、精神論だけで勝とうとするな。無理だから」


 大日本帝国の軍部にいそうな奴だ。さぞ、上司に可愛がられる事だろう。まさに竹やりで航空戦力に対抗しようと進言しそうである。


「いや、勝つのじゃ。一人五殺じゃ死ぬ気で頑張ればどうにかなる数字じゃ」


「敵は十倍以上なんだけどな。一人で五人倒しても、半分にしかならんぞ。あと、相手も死ぬ気で頑張るだろうさ。戦争だもんな」


「じゃあ、十殺じゃ」


「言ってるだけならただじゃねえか。そもそも、兵士の盛強さが段違いだ。一人一殺も厳しいぞ」


 すると、下の歯と顎を出して上唇を軽く噛む。拗ねた子供があくまで抵抗姿勢を貫く様子である。


「ええい。やかましいのう。私が本気を出せば済む話じゃ。しかし、あの頃に戻るのは私自身、怖いがの。あの、鬼神と呼ばれていた頃に」


 三文芝居だった。どうしても、考えを曲げないらしい。彼女のこれは頑固などという次元を越えている。すでに病気の域に達しているのではなかろうか。それでも私は慈悲深いので、根気よく相手をしてやる。


「いつの頃の話だよ。お前まだ十五だろ。鬼神じゃなくて奇人の間違いじゃないのか?」


「奇人には違いないが、鬼神でもある」


「認めちゃった。それじゃあ、これまでの発言全てが奇人の方に集約されちゃうぞ。いいのかよ?」


「望むところじゃ」


「望むなよ。興奮しすぎて何言ってるのか分かってるのか? お前」


 何がなんだか分からない。会話の主軸を見失っている。彼女はよく自分の意見に拘泥し過ぎて我を忘れてしまう。


「ぐるるるるる」


「ほーらほら、落ち着け。お前は良い子だなー。よーしよし。大丈夫だぞー」


「ふーっ、ふーっ」


 警戒心剥き出しの猫のようになった王韙をあやしてやるのも私の仕事だ。


「どうにかならないのか。その癖。まともに話もできないぞ」


「すまん。反省している」


 言葉とは裏腹にほっぺたが膨らんでいるし、唇も突き出している。まあ、反省したところで治るようなものでもないだろう。


「それはそうと、彼等は彼等で思惑があるだろうな」


 彼らとはもちろん長沙降伏を唱える輩である。


 しかし、私は彼らが特別間違いを犯しているとは思わない。弱きから強きに付くのは戦乱の常であるし、それが誰にとっても不利益となるとは一概には言えない。私は矜持や志を強く肯定するが、それすらも命あっての物種だと思うのだ。


「それはどんな思惑じゃ?」


「いくつか考えられる」


 そう言って腕を組んで間を持たせる。


「勿体ぶらずに早く言え。私はホトトギスが鳴くのを待ってやるほど悠長な性分ではないのだぞ」


「どうしてお前がそんな時代を先取りした発言を頻発するのか知らないが、まあ、追及するもの虚しい事になりそうなので偶然ということにしておこう。じゃあ、ホトトギスが鳴かなけりゃどうするんだ?」


 またしても、何の事じゃ。と、惚けて見せた後に彼女は答えた。


「羽を毟って嘴に詰めるそうして、妾の意見に以下同文じゃ」


「お前にはその発想しか無いのか。ホトトギスの奴、鳴きたくても鳴けないだろうが、それじゃあ」


「余計な意見を言われたら面倒じゃろ」


「鳥類に何の意見があるってんだ。お前の発言には異見しかないぞ」


「そのシャレうまくないぞ」


「うるさい、放っといてくれ。真顔で言われるとすげえ恥ずかしいだろうが」


「冗談はもういい。で、こ奴等の思惑とはなんじゃ?」


「冗談言い出したのはお前だろう。まあいい。一つには、ここで降伏論を説き、実際に降った時に功としたい、いわば実績作りということ。または、既に敵方に結んでいて、降伏してもらわないと困る奴がいる。こいつ等は、売国奴だな。太守も一族も土地も誇りも売っぱらって自分の命と最低限の地位をなんとか買い戻そうって魂胆だ。長沙は国じゃないけどな。ただ単に戦争怖いってのもいるだろう。あと、真っ当なのは、戦になれば田畑は荒れる。そんな民草の生活を気にしている人間。この中にそんなのがいるのかどうかは疑問ではあるけどな」


 現行制度下では、太守以下の地方上級官職は中央派遣が基本だ。


 治乱の曖昧な昨今では、各地で豪族や地方官の軍閥化が進んでいるが、この南荊州ではまだ中央政権の制度が生きていた。


 故に、彼等の多くは己の保身のことしか頭にない。


 太守が頼り甲斐溢れる人物であっても、そうでなくふにゃふにゃと果断さの欠片もない男であっても、実際そこには忠誠心などというものが介在しにくいのは確かである。忠誠心による球心力も無く思想の指向性もバラバラ。


 こんな寄り合い所帯で何か大きな事を為そうなどという事にまず無理がある。


「そうじゃな。だから腹が立つ」


 彼女はそれから、首を捻って眉間に皺を作ったかと思うと。よく動く口を閉ざしてしまった。



「孔明、越の句践こうせんの話を知っているか?」


 句践とは、春秋時代の越という国の国王である。彼は大国であった呉という国を滅ぼして、春秋の盟主である覇王、五覇の一人となった人物である。


 一時は呉に攻められ、国を失う寸前までになったが、国の存続と引き換えに敵国に降り、馬番をさせられることになる。


 そこから、気の触れた振りをして自国に戻り、どうにかこうにかしてがむしゃら頑張って雪辱を果たした執念深い男なのだ。


「急に話題を変えるなあ、おい。まあ、知っている。まだ記憶に新しい」


「どういう意味じゃ? まあいい。で、彼をどう思う?」


 唐突な問いである。彼女はこういった問答が好きだ。


 お互いの意識を擦り合わせるように議論を投げかけてくる。暇な時をつぶすには丁度良いし、議論を戦わせる事は私も嫌いではなかった。


 それにしても、延々続く駄目な会議が暇だからといっても、ここで始めるのは暢気過ぎやしないだろうか。己の運命を決めるテーマが話し合われているのだから。


 まあ、私にとっては、全てが時間潰しなのだ、気にはしない。


「そうだな、いくつかの美点を持っていた良い指導者だと思うが」


「その美点とは?」


「うん。まず、意志を貫いて、よく汚名返上したこと。それが例え苦渋と屈辱に向かう道であっても臣下の進言をよく聞き入れた事。艱難辛苦を耐え抜いた事」


「うん。それだけか?」


「あと、将来の確たる目標を持って、今に流されずに生きた事、敵方に二姫を贈った謀略についても感心するところがある」


「……、ふん。では、汚点は?」


「うん。汚点か。そうだな、晩年は占いを信じて政を行い、臣下の言を容れなかった事かな。それくらいの事しか知らないぞ」


 直接会った事もないしそれほど知った相手ではなかったが、聞き齧った話だとそういう評価になる。


「そうか。この件に関してはお前とは意見を異にするようじゃな」


 悲しそうにそう呟くと、会話は打ち切られた。


 得意げに語った人物鑑定はバッサリと切り捨てられたようで、私は深く傷ついた。


 すぐにも帰りたい気分だったが、会議はまだ終わる気配がない。


 とにかく腹の虫が泣いた。


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