目指すものは 1
人がいないところを始めて見てそう感じたが、長沙城の謁見室は、その広さの割には、それを感じさせない作りだった。
改修されていない上、戦火にも合わなかった為、古くから変わらない、支柱の多い空間なのだ。
かくれんぼをするには打って付けで、死角には事欠かない。
太守の椅子は正面の奥、一段二十センチ程高くなった位置にある。
「ここの座り心地、悪くないの。地方の太守でこれならば、洛陽の玉座はどんな座り心地なんじゃろうな」
上機嫌でつまらない冗談とも本気ともつかない事を抜かしているのは王韙だ。
先ほどまで私をこてんぱんに怒鳴り散らし、叩いてつねって慟哭していたのが嘘のようだ。
私が勝手に王粛を処分した件について、相当ご立腹であったのだ。
これについては申し開きのしようもないので、ただただ謝罪した。平伏して土下座してその上に座られて頭を踏まれて魚の腐臭と同等だと自ら認めた彼女の靴下をえづきながら口に含んでようやく許された。五刻、二時間半ほどの長く苦しい道のりだった。
再び二時間半前に時間旅行させられたら、きっと私は発狂しただろう。
「そうですね。自分の重みも感じない程フカフカな綿が詰まっているんじゃないですか。まあ、孔明殿の背中よりはよっぽど良い座り心地でしょうね」
どんな綿だよ。本気で座ってみたいな。
それにしても徐曠め。ここぞとばかりに私を責め立ておる。
彼女は長い折檻の間もニタニタと嬉しそうに笑ってやがった。私の最も屈辱的な瞬間には歓声を上げていた。憎たらしいったらない。
ちなみにその屈辱的な瞬間はここには記述できない。
「いや、存外座り心地は悪くなかったぞ。お主も掛けてみるか?」
「遠慮しておきます。オッサンが移りそうです」
誰が座らせるか。
乳臭くなるわ、と言うとまた殴られそうなので止めておいた。
「私は座りたいよー。ご主人様に正座するなんて、背徳感だよ。いや、正座するご主人様の膝に座った方がより官能的かもしれないね」
嘩蓮はフォローともなんとも判断のつかない発言をする。
あと、どうして正座なんだよ。
「何の話だよ。私を一端の椅子であるかのように論ずるのは止めて頂こう。座り心地なんか良かったとしても一向に嬉しくない。自分の座り心地なんか気にしたこともないし、これからもする気は無いぞ」
少なくとも椅子になるべく生まれてきた訳ではない。
「よしよし、椅子の話はそのくらいにしよう。孔明。お主もあんまり僻むな。寂しくなったらいつでも座ってやるぞ」
「だから椅子じゃねえし、太守の椅子に嫉妬なんかしてねえよ。それより、今後の展開についてだ。いいか?」
ここに三人を集めた本題を切り出す。
放っておけば、いつまでも下らない椅子の議論で持ち切りになりそうだ。
「よいぞ」
今朝未明、王粛の寝所で死体が一体見つかった。
第一発見者は彼の従僕で、王粛の着替えを持参した際に胴と首の離別したそれを目の当たりにしたのだという。
王粛邸の門前に人だかりができたので、そこに私はシレっと加わった。事件のあらましをそこで知ったような振りをして、立ち去った。
実際には私が集まった野次馬に教えた事だったが。
そうして事情に詳しくなった私は、開戦派の主だった将数名に面会を求めた。
王韙に力添えをしてくれるようお願いした。
返事は色よいものが得られた。
桂陽郡との同盟確約をほのめかしたのが効いたようだ。
また、文官達も幾人か口説き落とす事に成功した。これで予想される仮想敵と同等程度の勢力を得ることができた。
屋敷に帰ると王韙はすでに父の事を知っていた。そこでこっぴどく叱られて今に至る。
「長沙の重臣一堂には、王崇姫の名で召集をかけた。ここで集まらない者は粛清する。そして、集まった者の中でも王崇姫の太守の座に就くことに反対を唱える者、これをどうするかはその人数による。少勢であれば、この場で斬るが、多ければ代表格の者だけ斬る。人選は私に任せて頂こう。執行者は優璃だ」
優璃とは嘩蓮の字だ。
「はい。質問です。オッサン」
「どうぞ、稚由君」
腹の立つワードを織り交ぜやがる。
「姫様に賛同しない人間の方が圧倒的多数だった場合はどうします? 代表格の二、三人を斬ったところで城内は纏まらないと思うんですが」
「いい質問だ。その場合は、やはり反対者全員を手にかける事になるな」
私や王韙では不可能だが、嘩蓮ならば苦もなくやってのけるだろう。
これが最良の手だとは思わないが急場を凌ぐにはこの程度しか思いつかなかった。
反対派の求心力になるであろう王韙の弟君を殺しておくことも考えたが、私は甘いのだろう、幼い命を奪うことにも抵抗があった。
それに、反対派の者は弟君がいようがいまいが、反対派の抵抗勢力として残るであろうと考え、思い留まった。
弟君を担ぎ上げるつもりだった。今はあくまで太守は弟君であるとして、実権はこちらが握る。そうしておいて、抵抗勢力の大義名分を失くそうという狙いだ。
「孔明。お主は斉の桓公を知っておるか?」
「春秋五覇の一人だろう。面識はないがもちろん知っている。悲惨な最期を遂げたんだな」
紀元前六百四十年ごろに即位した斉という国の王である。斉の富国強兵に務めた名君とされている。
「そうじゃな。一年もの間、放っておかれて埋葬もされなかったようじゃ。その功績に比して、哀れなものじゃな。しかし、妾は、彼のこの最期は有るべくして有るのだと思う」
「ふうん。というのは?」
「彼は元々柔弱な男なのだと思うぞ。敵であった管仲を引き立てて宰相にした。また、孔子曰く、『斉の桓公は正道を歩んで策謀を用いなかった』と評されている。じゃが、これはいずれも他者の諫言によっての行いじゃろう。己では、何事も為し得なかったのじゃ」
「しかし、他者の諫言を容れるというのは、簡単にできることではない。それができることも名君の一要件だとは思うがな」
「まあ、それについては否定はせん。じゃが、彼の場合はいくらか様子が違ったのではないかと推察している」
彼女の様子はまるで犯人を名指しする名探偵のようで、いかにも得意げである。
「というと、何が違うんだ?」
「奴は優柔不断の典型じゃった。亡命して、安全になったと呼ばれればホイホイと国に戻り、鮑叔牙に窘められれば、殺そうとまで思った管仲を登用し、その後は管仲の言いなりじゃ。泰山への封禅は例外じゃがの。その他の行動もたぶん概ね言いなりじゃったのじゃろう。そして、管仲の死後はまた佞臣共のいいなりじゃ。最期には後継者もよう決めん。これが優柔不断でなくしてなんじゃというのだ」
唾を飛ばして力説する彼女は、自分の説に陶酔しているようである。
「確かに、言われてみればそうなのかもしれないな。ほとんどが当て推量ではあるが、少しは説得力があるようだ」
「奴はただの神輿だったのだろう。担ぎ手によっては右にも左にも輿を振る。妾は嫌いじゃ」
「そうだな。いつか確かめてみよう。しかし、歴史は結果が全てだ。実際にはどれだけ暗君であろうと、在位中に施した政策や業績が素晴らしければ、評価される。それが本人の意志とは違ったとしてもだ。歴史とは過去の事だ。そこには記録しか遺らない。今に生きる人間ではないので、性格がどうであったかはあまり重要ではなく、実績が全てなんだよ。誰しも、死んだ人間の悪口は言いにくいもんだろう。まあ、死人に口無しなんて言って、悪行を押し付ける奴もいるにはいるが」
そうだ、人はいずれ歴史の中に没する。
中華の歴史に残る幾百の国々にだって人は生き、そして死んでいった。
王韙も例外ではない。彼女が何を考え、どう生きたのかなどという事は、誰かが後世に遺さなければ無いも同然になるのだ。
人は子を産み、子に親の話を語る。だけど、何代も前の祖先のことなど知る機会は少ない。
その業績などはともかく当時の人々の心境など押して測ることすら難しい。
歴史書とは素晴らしいものである。だから私は記したいのだ。私の出会った、限りある人々の人生について。彼らがその時どう考え、どう行動したのか。今後数千年は忘れないように。
「じゃが、見習うべき点は確かにある。やはりそれは、管仲を招いた事じゃ。妾は、この行いを見習って、一つお主に提言がある」
「お、そうきたか。な、なんだ? なんか怖いな」
彼女が他者の行いを倣うなんて珍しい事なので、それと同等以下の、槍が降るだとか、滝が逆流する、とかいった事が起きても別段驚くには値しないだろう。
「お主は妾に反対する者を粛清する。と、言ったの」
腕組みをして、私のまっすぐ正面に立つ。何か文句を言いたい時の態度である。
「ああ、言ったな」
「それを止めよ。反対する者は捕らえておいて、牢に入れておこう。そうして、戦が済んだ後にまた意見を聞いてみてもよいのではないじゃろうか。彼らにも家族はいる。その者達に恨まれても後々厄介じゃ。事は成し難くなる。最後に寛恕するかどうかまでは保証できんがの」
雷に打たれたような衝撃を受けた。
彼女がまさかそのような寛容な心を有していようとは予想の範囲外だった。
「分かった。御意に沿うようにしよう」
私としたことが、思わず感涙に声が詰まるところであった。
ホモの噂を流した事も少しだけ許してもいい気がしてきた。
ただ、悔やまれるのは、その温情を実の父には向けられなかった事だ。




