表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/55

三日前、この長沙の城に一通の書状が不敵な髭の男と共に舞い込んだ。


「十日の後に、この城を明け渡して頂きとうございますなあ」


 己の優位を懐にちらつかせた者の鷹揚な態度で、使者は宣告した。

 さらにニヤリと死を予告しにきた死神のような笑みを粗末な顔面に催した。

 自分では男前だとでも思っているのだろうか、妙な自信が汚く黄色い歯の間から溢れていたので、これは奇妙だなと感じた。


 普通ならばこんな品性の不確かな男を大事な調略の使者には立てない。

 相手が不快に感じて、意固地な抵抗に踏み切る材料となってしまうからだ。


 そんなこともわからない敵方はよほど我々の精神を貶めたいのか、憎いのか、鈍いのか、挑発しているのか、単にアホなのか、一体どれかである。


 一城の城主に対してあるまじき無礼であったが、長沙の太守(地方長官)は不機嫌そうに唇を突き出して、そこからさらに捻じ曲げた以外は何も為さなかった。


 いや、正確には「ぬふ」と、子供が菓子を取り上げられたような露骨に不満そうな吐息を漏らしもしたが、この「ぬふ」には大して明確な意味が込められたものではないだろう。


 だからこの際割愛しても差し支えなかろう。


「ご返答は如何であろう?」


 重ねて死神が圧迫してきても、我らがリーダーは捩れた口から「ぬふ」を繰り返した。


これには死神も傲慢なオーラをしぼめずにはいられなかった。


 次の句にも重ねて返答を促したが、反響は溜息にも似た「ふぬ」ばかり。


 死神もやや気色ばみ、眉尻を上げると、今度は苛立ったオーラを纏い出している。


 しかしそれは、死神のみではなかった。


実は、敵味方なく満場一致で、この煮え切らない「ふぬ」に内心ぐらぐらきていたのだ。


 こうなってくると、「ぬふ」には深淵な意味が込められているように感じられてくる。


 我らが太守は相手の器量を読むために「ふぬ」を量産して、この後の会談を優位に進める腹なのもしれないし、または、味方をも欺く、図り知れない謀略が背後で動いているのかもしれなかったが、九割九分は買いかぶりである。そして残りの一分は私の妄想だろう。


 見かねた重臣の一人が座を預け、別室で密議するように計らった。



 別室には余計であったが私も座を共にするよう命ぜられた。


 命じたのは太守の娘、王韙おうい。彼女は私の直接の上司でもあるが、不本意ながら、という一文を付け足しておこう。


 孤高の歴史家にして詩人であるので、本来ならば、下宿の自由気ままな男子大学生のような私には主人など不要である。


不要であるどころか、その至高で孤高で崇高な思索にとって、むしろ有害でしかない。


 なのに、どうして私が人の下風に立っているのかは別の機会に語ろう。


 まだ私自身も気持ちの整理をつけかねてもいるのだ。明け透けにもの申せば正直、戸惑っている。まあ、それよりも今は別室の密談の方からやっつけよう。


 太守王粛おうしゅくは茄のような造詣の顔だったが、今はそれに相応しい顔色になり、見ようによっては旨そうに見える。


 さて、皆さんには聞きなれない単語が出てきたところで、私の現在位置と、この国の行政区の説明をせねばならないだろう。


 まことに退屈ではあるが、出来うる限りざっくり話そうと思うので、しばしご容赦頂きたい。


 まず、私は今古代の中華世界にいる。光和三年。西暦で言うなら、百八十年ごろになるだろうか。


 後漢王朝が繁栄を放棄して、手遅れな病体に成り下がって久しい。所謂、三国時代突入前、後漢の混乱期だ。


 この国の一番大きな行政単位は『州』である。これは中華に十三ある。その下に『郡』があり、列候が支配する同列の『国』がある。さらに下には『県』。王粛の官職は、荊州という『州』の中にある長沙郡の太守である。


 太守とは、『郡』の長官であり、経営や行政、軍事などを実務的に行う。


 朝廷の支配が曖昧になった昨今、『州』の長官たる『牧』は、本来の汚職などの監察官たる役目を越えて、『郡』の経営にも口出ししたり、あまつさえ、自領にしようなどと画策したりするようになってきている。


 まあ、要は国の形が滅茶苦茶になりつつあると理解してもらえればそれでいい。


 世界的に見ても稀有な戦乱模様を呈することになるこの国は、今のところはまだ、ギリギリのところで漢の朝廷が権勢を保っている。一応、それぞれの官位は皇帝から授かっている形だ。


 しかし、今の皇帝は売官行為を行なっている。

 官職を金で売りさばくのだ。有りうべき愚劣の極みであるが、この話は横道になるので置いておこう。


 皇帝とは、漢王朝の最高位である。


 并州へいしゅう河南尹かなんいんの洛陽という国都にいる。唯一にして至高の存在である。


 だが、もう三代と続かないだろう。しかし、悲しむには当たらない。物事には必ず終わりがあって然るべきである。万物はいずれ崩壊し、また新たなる物に変遷していく。それだけだ。例外はただ一つしかない。悲しくなどはない。歴然とした事実で、それは私が誰よりもよく知っている事だ。


 この国を支配する政府組織である漢王朝が腐臭を放ち始めてから久しく時がうつろって、今や野良犬も食べずに避けて通るような悪臭を発していた。


 当然の帰結として巷の混乱は焦げたスクランブルエッグのごとくであり、経済は狂い、塩や米価は高騰、税率は高止まり、働き口を失った民草は路頭に迷い、街路には野盗強盗の類が溢れ、怪しげな宗教はところかまわず流布して民衆に淫靡な教えを垂れ流す、各地の国士は己の領土拡大にご執心で、領民のことなどどこ吹く風。まあ、歴史にいく度となく繰り返された、いわゆる乱世といういっそありふれた世の中、その一歩手前になっている。



 混沌とした時代は賑やかで、ある種の魅力を持ってはいるが、私のような閑寂を愛する一詩人、一居士としては、迷惑この上ない。戦乱など、鍋に放り込んでやって蓋をして閉じてしまいたい。そして、中で勝手にグツグツと煮え立っているがいいのだ。


 時代は緩やかに退廃へと向かっているが、多くの人間はこれまでと同じ、王位簒奪と光武帝による中興は経たが、王朝樹立以来四百年の漢の世が続くと信じて疑わない。


いわば、嵐の前の静かな状態だと言えるだろうか。



「なぜ、あのような無礼な言葉をお赦しになるのじゃ?」


 可哀相な茄子に向かってびしりと人差し指を突き付けたのはその娘だった。端正な眉尻をキリリと挙げて憤懣やるかたない、といった表情だ。


「あのような下賤な男、斬り捨てて首を落し、塩詰めにして綺麗な包装をかけて相手に贈りつけてやればよいのじゃ。迷う事はありません、今すぐに父上自らお手を汚されるべきじゃ」


 苛烈な文句と指先を昂然と親に向かって差し込んだ。彼女が指弾する度に、茄はしおれ、色も白くなっていく。


 言葉の内容もさることながら、彼女のこれまで見た事もない貌に対する驚きのせいも多分にあったのだろう。白く萎びたそれはもう煮ても食えないだろう。


「お斬りになれないなら、妾が代わって為しましょう」


 汚い物でも見るような侮蔑を含んだ目で、慄き震える男を睨み据える。


 父親が醜態を晒したのだから、娘が怒りを覚えるのは仕方のないことだろうが、私が彼女に進言したいのは、この場合、あの不遜な使者に対してその矛先を向けてやるのがよかろう、ということだ。ことさらに茄を指弾で穴だらけにする必要もあるまい。


「ひ、姫?」


 居合わせた重臣共も王韙の発言に戸惑っているようだ。さもありなん。彼らからしたら、全く無害な蝶々が突然毒蛾に変身したような驚きを得たのだろう。


 十年あまりの間に秘めに秘めていた彼女の激情と鬱憤と野望の一端に初めて彼らは触れたのだ。


 しかし、これはどうにも好ましくない状況だ。私はようやく己の立場をわきまえ、顔のニヤニヤを消し、行動に移った。


「姫、姫。落ち着かれよ。皆さま、済みません。姫はどうやら、初めての公式の場に、気が動転してしまっているようでございます。奥にてお休み頂きますので、我らはこれにて失礼致します」


 私は慇懃に、そして無礼に、且つ乱暴に王韙の袖を取り、廊下へと歩み出て場を辞そうと試みた。


「父よ、このまま、相手に舐められていてよいのですか? 城下十万の民に胸を張って白旗を掲げる事ができるのですか? せめて、あの非礼な使者の肝を冷やしてやろうとは思わないのですか?」


 ――が、失敗した。


 私が渾身の力で引いたにもかかわらず、この華奢な女はビクともしない。困った奴である。


 どうしてコヤツはこうなのだろう。激すれば引く事を知らない。人はそれを猪突猛進ともいう。


 別室に設えた椅子に一人、深く潜り込んだ王粛は、そこ以外が全て海になってしまったかのように、情けなく縋りつく漂流者のように動けないでいた。


 大きな身体は今や小娘に呑まれてしまうのではないかと危ぶまれる程頼りない。


そして例の一言。


「ふぬ」


 やはり、魔法の言葉であったそれを聞いた途端に、何かが心頭に発した少女は、やおら立ち、背を向けて去った。


 先ほど私が連れ出そうとした奥の間へ続く廊下ではない。逆の方。つまり、無礼な使者のいる方へだ。


 面倒な事だな、と呟いた私も追従せねばならない。


 先の間に戻ると、使者は胡坐をかいて待っていた。


「何をしておるか。私を待たせるなどという事が許されると思っているのか。立たされ過ぎて足が痛いわ。貴様が揉んでくれるのか?」


 いきなり赤い顔で怒鳴られた。


 顔色は元々青白かったので、赤いというよりは紫に近かったが。言動と身なりから察するに、それなりに彼は高位のようだ。


 始めの名乗りは私も聞いていたが、律儀に覚えていてやる義理はない。なにしろ、威張って大声で喚き散らすのだ。こっそり小指で耳に栓をすることぐらいは許されてしかるべきだろう。


彼は、待たされてようやく出てきたのが小娘と私だけなのを見て、明らかに不満そうだった。


 死神の痩躯に洞のような眼をギラリと向けているので、いっそう不吉な様相になっていた。


 夜道に出くわせば、お年寄りなどは、迎えが来たと勘違いしてなにがしかの神に祈らざるを得ないだろう。


 これから起こる事態は、私には容易に推測できた。


 それによってもたらされる不利益も困難も計算機ではじき出すように容易に算出できた。彼女に心から、そして愚かにも無条件に忠誠を誓う徐曠じょこうなどならば、身を挺しても主人の暴挙を止めただろうか。


 いや、むしろ、彼女を信奉する奴ならば煽ったのだろうか。しかし、私はどちらでもない。放置した。


 幾多の災難を封じ込めたパンドラの箱が、今解き放たれようとしている。ここに彼女は、歴史の表舞台を踏むのだ。


 優雅な生活や名誉などには興味はない。そんなものに意味などない事は私が誰より知っている。非人道的な勧誘を受けて、成り行きでここに立っている私だが、最終的に彼女に随身する事を決めたのは、ひとえに彼女の勇躍する様を拝む為である。


 後世の歴史家は、『三国志』の『王韙伝』の初めにこう刻むだろう。


『彼女は荊州からの使者を殴り飛ばした』、と。


だが、実際には、彼女はかの使者を殴り倒し、二、三ふんづけた上、まだ足りなかったようで揚句、馬乗りになって数えきれないほどのビンタの雨を降らせたのだったが。


 改めて口にするが、そんな彼女は、私の主である。


 パンドラの箱から出でて、降りかかる不幸は、彼女にではなく私に向かっているのではないだろうか。そんな思いがよぎり、しばし暗澹となった。


 プロメテウスは最後に希望をちゃんと入れたのだろうか。万が一、入れてなければ、知承はしない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ