少女たち 1
私が王韙と出会ったのはおよそ四ヶ月程前の事になる。
その頃の私は、荊州の襄陽城から二十キロほどの所にある隆中という小高い山村の外れに草庵を結び、悠々自適に暮らしていた。
以前にも話したがお金には困らなかったので、実際は広く贅を凝らした作りにしていたので、草庵とは、謙遜してそう称していただけである。
竹のよく取れる土地だったので、茶器や柄杓、靴や鞄も手作りした。
山の童子らに竹とんぼを教えてやったり、読み書きを適当に教育したりもした。
引き篭りというのは、仕官を促されても出仕しない、という意味合いで、実際には暇と財産は売るほどあるので、旅行などで留守にすることもしばしばあった。
庵の住人は基本的には私一人であったが、ストーカーはほとんど常時飼っていたし、今は亡き諜報機関『草』の棟梁も復命すると、数日泊まっていくのが常だった。
ちなみに前の棟梁は男である。
数十年も私に尽くしてくれたが、齢八十を待たずに逝ってしまった。
仕方がないので、私は後任に英江を就けた。
他に適当な者がなかった訳ではないが、絶対の忠誠を誓ってくれそうな彼女を抜擢した。
しかし、彼女を登用したのは間違いだったかもしれないな、と思わなくもない。
なぜなら、彼女はあまり仕事熱心な方ではなかったからだ。
人見知りが強く、時間があれば私の行動を追っているので、他の諜報員達との接触は極端に少なかったし、部下からの受けも良くなかった。
あの頃は特にやる事も無く暇だったので、それほど深く考えずに決めてしまったのだ。
ただ、無償で我が屋根裏に潜む者がいるならいっそのこと使役してやろうという、それだけの発想だったのだ。反省せねばならないだろう。
かなり横道に入ってしまった。まあ、彼女の処遇はおいおい考える事にして、今は回想に戻ろう。
畑は人を使って耕していた。
羅馬から馬鈴薯や人参などを輸入して育てたが、あまり実りは良くなかった。トマトは苦労して手に入れた甲斐があってか、よく実った。原産地に近い為だろうか。
ほかには、大蒜やメロンにいちご、このあたりもインド辺りで探させた。中華にもともとあったきゅうりや大根なども作った。
私が食べたかっただけで、これらを売ろうという気は無かった。なので、玉ねぎはあえて探さなかった。
辛鄒の話すところによるとあまり好かれてはいなかったようだが、村の人間とも没交渉ではなかった。
実は下手糞と評されていた歌を聴かせたり、時には教えたりした。
楽器もいくつか手作りした。が、肝心のギターは上手く音が鳴らなかった。ロックンロールが好きで、街で弾き語りなどもしたが、街人には理解できなかったようだ。
私の歌がまずかったのではないのだろう。これはギターの作成技術が足りなかった事と時代が私に追いついていなかった事が原因と考えていい。
当然だが私の事は荊州北部では有名になった。
変わった人物がいるというので、方々から有象無象が訪れたが、私はその全てと会ってやった。
噂を聞きつけてわざわざ長沙からやってきたのが王韙である。徐曠と嘩蓮の二人を伴っていた。