7
結果から言うと、この日、人死には出なかった。
一つの存在がこの世を去っただけだった。我々の完全勝利といってもいいだろう。
ここでは、便宜上、彼のことは神、または犬神と呼んでおこう。
奴にしてみれば始めから分の悪い勝負だったのだ。
昔、犬、もしくは、狼か犬と思しき何かが、人々を何かしらの窮地から救った。
人々は、犬、もしくは犬に似た何かに感謝の意を評して祠を建立した。
そこで奴は存在する事を許され、神格化する事になったのだろう。
しかし、時日が過ぎるにつれて、神はより近い存在である犬に対しての愛情を深くするようになる。
そうなるような、人間から心が離れるようなきっかけがあったのかは、犬神からは語られなかったので分からない。
そうして人にはとうに忘れ去られた神と祠は、狼と犬達にのみその存在を支えられるようになった。
この時点で彼の拠り所は、人間が作った祠とその犬達のみであったと言えるだろう。
辛雋によって全てを焼かれた神には、その存在を維持する事ができなくなった。
何者にも認知される事の無くなってしまった神はいずれ、消滅する。
そこで、唯一、自分を知覚している辛雋に取り憑いた。
己の存在を繋ぐ為だけに寄生したともいえる。
この時にもう、神ではないただの霊のような存在に成り下がってしまったと考えられる。皮肉にも仇敵と共生する羽目になったのだ。
彼がいなくなれば、その存在も潰える。かなりのジレンマだったろう。
だが最後には、宿主と心中しようとしていたのだろう。最期の瞬間には、その唯一の認知者、辛雋から意識を奪い支配した。
「そうか、その時点で彼を知っていた者は君と私だけになったんだね。だから、私たちが忘れる……、意識を失う事で彼には存在理由が無くなった」
「そうだ。この世で誰にも知覚される事の無くなった、必要とされなくなった神は消滅した」
危ない賭けだった。私の仮説が正しいという保証はどこにも無かった。
鼾をかいて眠る父親が目覚めるのを待つ間、彼女はその膝枕で眠る男についての想いを語ってくれた。
「私は見ての通り、この国の人間とは違う、はるか西にある『安息』と呼ばれる国の血が混じっている。その国に関しては、母に聞かされたこと以外は何も知らないんだけどね」
母親が異国の人間だったようだ。
目鼻立ちのはっきりした顔立ちと肌の色が示す通りである。『安息』というのは知らないが、海上貿易で流れて来たのだとすると、彼女の母の出身はインド諸国のいずれかなのか、クシャーナ朝、地中海あたりのパルティアだろうか。
「私は知り得ない事だけれども、小さな頃には出自の不確かな母と私を父はよく庇ってくれたらしい。幼齢の頃にも何不自由無く暮らさせてもらったよ。それは母が亡くなってからも変わりはなかったんだ。見てくれの異なる私に纏わる、風聞や悪口雑言なども握りつぶしてくれたのだろうね、ほとんど耳に入る事はなかったよ」
肌や髪、目や造形、見た目の違いというのは、人間にとって根源的な違和感をもたらすのだろう。
いわゆるハーフの子に対する偏見は、後世になっても無くなりはしない。
ましてやこの時代である。
特にこの国では血や家は重要な繋がりである。
酷い虐待や迫害を受けても不思議は無い。むしろ、そうされて当然とも言える。
残念だけど、それが人間というものだ。
彼は彼女達を守るために多大な労力と時間を費やしたであろう。
「私が同性愛者である事を打ち明けても父は怒ったり落胆したりはしなかったよ。心の中では憂慮する思いがあったかもしれないが、少なくとも私にその思いを匂わせる事もなかったよ」
なんとも物分りの良い父親である。歳がいってからの子供であったので、猫っ可愛がりしていたのかもしれない。
「政務からは引退した今でも私は度々ここを訪れる。相談もするし何でも話す。崇姫を好きであるのと同じほどに私は父を愛しているよ」
父が隠遁生活に入り、自らの死を望んだ時も彼女は、彼女自身の想いよりも父の希望を優先している。
それは痛々しい覚悟ではあったけれど、それだけに愛の深さは測れるだろう。
なんともはや、どこぞの父娘に聞かせてやりたい言葉である。
片や深い愛情で繋がっていて、片や憎しみで父を殺そうというのである。対照的な親子関係であろう。
「同盟については了解した。喜んで味方になりたいよ。それに君は恩人だ。私の事は揚飛、またはお前、と呼んでくれても構わない。元々他人行儀な呼ばれ方は好きではないのだしね」
夜明けの時刻。そう語る辛鄒の顔は逆光になっていた。
彼女から良い返事をもらえたので、ようやく私は、今回の戦の勝算と作戦について彼女に語ることができる。
詳細については、別に持参した文書に記したので、参照してもらうとしてここでは概要だけを簡単に教えた。
「難しいね。かなりの綱渡りだよ。万庶の動きには南の各郡も敏感だし、交州を動かす事はできるだろうが、それら諸勢力の足並みが揃うだろうか? 零陵太守などは難物だぞ」
「まあ、代案はいくつかそこに入れている。よく確認しておいてくれ。頼りにしてる」
短い打ち合わせを終わらせると、そろそろ空が白んでくる頃になった。
夜を徹して虫に刺されたので、眠さと痒さが交互に襲う。煩わしく気怠い気分で朝日を拝んだ。
満天の星空の下ではなく、虫の羽音に悩まされない屋根のある一室で一眠りしたい誘惑に全身舐め回されたが、もう時間は残されていない。
暢気に寝ていた徐曠を文字通り叩き起すと出発を告げた。
帰り道は強行軍であったが、私はその中で睡眠を取る事に成功した。
ただし、鞍に紐で縛られたままの荒い眠りであったが。馬の手綱は徐曠に取らせた。
少々文句が出たが、すぐに黙らせる事ができた。
なぜなら、この旅の中で、我らの位置関係は大きく変わってしまったからだ。
私は彼女の弱みを握ったし、彼女は今回何一つ役に立たない女だったからだ。
当面は私の言葉に逆らう事も出来ないだろうし、彼女から難癖をつけられる心配からもしばし遠ざかるだろう。
まあ、長続きはしないだろうが。