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「おいおい、冗談だろ。本当に出てきやがった」
大人のヒグマ程もありそうな狼は喉を唸らせて威嚇の態度を示している。
鼻には幾筋もシワが寄っているし、口からはみ出した歯からは涎が滴り落ちている。
相当にご立腹の御様子だ。
じいっと見ていると、実は体の向こう側が透けているのが分かる。シースルーというやつだ。
まさしくこれが霊なのだろう。
初めてお目にかかるが、恐ろしいという感情は湧かなかった。ただただ、驚いた。
たまたま初めて出会ったのが人型ではなかったのでそう思うのかもしれないが、怖いとか、気味が悪いとかというよりもむしろ、未知なるものへの感歎とか、感動とかいうものに近い感情が心を満たした。
「これって、やっぱり、アレ……、なのかい?」
辛鄒が恐る恐る私の袖を摘みながら問いかけてくる。他方の手は強く握られた状態で無意識に胸元にやっている。
以外に女の子らしいところがある。などと言ったら彼女に殴られるだろうか。
「そうだ、アレしかないだろうな」
「幽霊だね」
そう断言してごくりと唾を飲み込む。彼女も随分と肝が座っている。
そんじょそこらの女の子ならば、雄叫びを上げて立ち竦むか、逃げ出すか、していてもおかしくない程の迫力と威圧感、そしておかしな言い回しかもしれないが、存在感をソレは持っていた。なのに、彼女は緊張こそ滲ませているが、至って冷静だ。
「幽霊、などではない。我は犬神である」
犬? 霊? が、言葉を発したのかと思ったが、違った。
声の主は辛雋。こちらには背を向けた格好で、首だけをほぼ真後ろに向けて口を開いていた。
その姿は異様で、むしろこちらの方が霊現象なのではないかと疑うほどだ。
「犬神……。それって、幽霊とは何が違うんだ?」
心臓はドクドクと脈打っていたし、実は膝も震えていたが、惧れを祓って質問した。
「霊は生きたる者の死後の魂。そのような低俗なものと同一にするな。我は死なぬ」
「しかし、お前は辛雋に一度退治されたはずだ。その時に死んだのだろう? それを恨みに思って彼に付き纏っているんじゃないのか?」
「何を愚かな……」
狼が苦笑しようとしたその時、風音が走り、暗闇に銀光が閃いた。
一閃は狼に吸い込まれ、像にノイズが入るようにその姿を少しだけ揺らがせた。
「面倒だよ。これでやっつけてやろう。こいつをやれば父は助かるのだろう? 孔明殿」
辛鄒はさらに右手を動かして、狼の体を切り裂く。
しかし、どうもそれが功を奏しているようには感じられなかった。霞を切り裂こうとしているように、彼女の攻撃は空虚に思えた。
「言ったであろう。我は死なん。故に傷付く事もない。ただ、存在としてここにあるだけだ。しかし、それももうじきになくなる。憎っくき男の娘よ。貴様に父を返してやることはできん。諦めろ。こ奴には我と共に滅してもらう」
「嫌だよ。君こそ父の事を諦めたらどうなんだい。神様のくせに小さい事にこだわっていては駄目だろう」
しゃべっている間にも彼女の手は休まない。水の中に油を垂らしてかき混ぜたように、それはただ揺らぐが、すぐに水と分離される。
「余計な事である。我は理に従うだけだ。いい加減に体を存分に切り裂くのは止めておくがいい。それほど躍起になってやられると、どうにもこそばゆいようだ」
彼の要求を飲んだ訳ではないだろうが、辛鄒は一心不乱に繰り出していた剣を地に刺した。無駄であり、体にも休息をさせたかったのだろう。変わって私が話を繋いだ。
「犬神よ。あなたは何ゆえにここにいる?」
「そうだな、せっかく我を呼び出したのだ。貴様には我の身の上話でも聞かせてやろうか。この男の命も尽きるまではまだ少し間がある」
この男とは、辛雋の事であり、娘の視線が鋭さを増したので、私は二者の間に割り込むことにした。
「ぜひ聞きたい」
犬神の住む祠は、今から千年程昔、周の幽王が殺された頃に人間によって建てられたという。彼は祠が建てられる事によって神となった。
祠には代々、守人ならぬ守犬が立てられ、それを守護していた。こうして神の存在する形は整ったのだ。
彼が言うには、神とは元々、存在有りきではなく、形式や思い込み、人や動物の意思によって存在するものなのだという。霊や妖怪も然り。根っこは同じなのだと。
人々がどういう想いをそこに宿すかによってそのありようは決定されるのだそうだ。
月日が経ち、山中にある彼の祠は狼や犬の棲み家となり、それらと暮らすようになった彼は、いつしか人々からは忘れられた存在となった。
そんな時、ひょっこりと現れたのが辛雋である。彼は不信心にも、空腹に耐え兼ねて、そこに住まう狼を殺して喰ったのだ。
今まで、旅人を狼や野犬が襲って喰らう事はよくあったが、その逆はなかった。
怒った守犬は彼を襲うが、返り討ちにあい、挙句の果てに、祠も焼き壊されたのだという。
これでは、いかに神であっても、私憤を禁じえなかっただろう。
なにせ、彼によって拠り所の全てを灰塵に帰さしめられたのだ。そして、その存在そのものさえ危うくなっているのだ。
「分かったであろう。お前の父は我にとって、許しがたい存在であるのだ。出来うる限り己の犯した大罪を深く反省しながら死の床に就いてもらわねばならん」
これが神なのか。とっても人間臭いではないか。
とてもではないが、私の中にある神様像とは合致しない。話を聞いていると重犯罪に巻き込まれた人の遺族か、テロリストの主張のように聞こえてきた。
「それでも、私は父の味方だよ。父が今まで私の味方であったようにね。例えどんなに悪人だろうと、他者に蔑まれようと、私は父を信じる。当たり前だよ。だから、必然的に君は敵だよ。だから、おしゃべりなんて意味はない。君の存在を一刻も早く消すだけだ」
体力も持ち直したのか、辛鄒がそう切り出して、地面から剣を取り返すと、私を押しのけて前に出、重たそうに身体を前進させた。
彼女達はお互いに信頼しあって生きてきたのだろうし、これからも生きていくつもりなのである。
どこぞの父娘とはえらい違いだ。
「待て。話を聞いていくつかの矛盾……、というか、違和感があったので、それを発表する」
命懸けで無駄な攻撃を繰り返そうとする娘と神様は、私の話を静聴してくれる意志があるようだったので、咳払いをし、一つうなずいて続けた。
「犬神よ。あなたは真に辛雋に非があると思うのか?」
これに対しての回答はなかったので、しかたなく先を進めた。
「人間が空腹になって、どうしようもなくて、手近な獲物を探す。その対象がたまたま辺りにたくさんいた狼であった。これに対してなにか間違いがあっただろうか。確かに、場所柄に関しては配慮が足りなかっただろう。なにせ、狼を祀っている祠で狼を殺してしまったのだ。しかし、これさえもたまたまそうだった、というだけのことではないだろうか。人間がそこで狼を祀っていた事を知らなかったのだとしたら。その行為が過失だったのだとしたら……」
「男が我が祠で何を祀っていたかを知っていたかどうか等、問題ではない。そこで何を行ったかが重要なのである。その行為は祟を受けるには十分ではないか」
「そうだな。そこについてはあなたの言う通りかもしれない。それに、そこに狼が祀ってあったということは、我々に彼自身が語っていた事から考えても知っていたと思う方が普通だろう。では、その後だ。彼は狼に取り囲まれた為、緊急避難として、祠を焼き払ったのだ。そうしなければ、まともに複数の野犬を相手にせねばならず、それでは生きる道がなかったからだ。そう考えると、自己防衛の為の仕方のない行為だったと考える事はできないだろうか」
「人間がどう考えていたかなど関係ない。どう振舞って結果がどうなったのか。それだけが真実なのだ。何度も同じことを言わせるものではない。あまりうるさいと、お前たちにも祟を受けてもらわねばならん」
狼の意思を代弁していたただのスピーカーだった辛雋はおもむろに立ち上がった。五芒星の外に投げ出してあった斧を手にすると、のそのそと我らの方に向かって来るではないか。仕方ないので、私も剣を抜いた。
「やっぱり、曲がりなりにも神様って奴は、頑固なんだな。不要なことだけど、そこらへんは私の思っていた通りの神様像だ」
必殺の勢いで迫る斧はかわすことはできても受けるのは危険だ。剣を折られてしまってはおしまいである。
私達は狼と辛雋の作戦に有効な対処法を見いだせずにただ防戦一方となった。
「おう。ついにボロが出たな。狼」
「なんだと?」
「お前は神様なんかじゃない。ただの幽霊だって言ってるんだ」
「聞き捨てならんな。理屈を聞いてやろう」
「まず、お前が行なっている事は全部、祟りなんかじゃあない。ただの仕返しだ。それも、やられたからやり返すってだけの程度の低いな。呪いで太守を狼面にしようなんて陰険だったし、毎晩悪夢を見せて精神を蝕もうなんて、悪魔が考えそうな事だし、私達をうるさいから排除しようなんて、独裁者の言葉かと思ったぞ」
「何かと思えばそんな事か。幼稚な理論に返す答えなど持ち合わせん。好きに批評すればいいことだ。我の祟りの手法など、人間にあれこれ口出しされる必要は認めん」
狼は首をフルフルと振って話にならない、と言いたげな態度である。
「それだけじゃあない。決定的な勘違いがお前にはある。そうだ、もう、気を遣う気にもならん、お前は神なんかじゃあない。もう、お前をお前と呼ばせてもらう。犬神は狼や犬にとっての神じゃあないだろ。だったら、単に神でいいはずだ。犬にとっての神は犬でしかないだろうからな。あえてお前が犬神であるのは、人間にとって、お前が犬の形をした神であるからだ。それは、お前が人間の方を見なくなった事で、既に神である資格を失っていたという事でもある」
彼は間違いを犯した。
本来ならば、祠を建てそこに彼を祀った人間を守護の対象とするべきを、守犬を始めとする犬や狼達の守り神となってしまったのだ。
神様に対して使う言葉ではないのかもしれないけれど、恩知らずとも言えるだろう。いいや、もともと、神様なんてそんないい加減なものなのかもしれない。
「…………それは。奴らが、我を忘却しようとしたからだ」
狼は、さっきより少しぼやけて見えた。
それは、剣が彼の実体の無い身体を傷つけたからでは決してないだろう。
奴が奴の理論で語ったように、奴の存在がそういう原理で有るのだとすれば、我々の取る手段はひとつしかない。
「どうだかな。祠が犬の棲み家になったから人が寄り付かなくなったんじゃないか?」
「……」
「そして、自分の姿に近い犬共を好んだのはお前の方なんじゃないのか? どうだ?」
「違う。あ奴らがあまり来なくなったから……」
「はん。淋しくなったんだな。語るに落ちたな、犬神。さようなら」
あとひと押しだ、既に奴の存在は揺らぎ始めている。奴にはもう何もない。自分自身を肯定する理屈さえぼんやりしている。
だから私は、隣で父の振り回す斧から必死で逃げる娘を剣の柄で思いっきり殴り飛ばした。
そして、私自身は助走をつけて思いっきり、近くに聳え立つ木に頭をぶつけた。