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「今度はこの者達が相手か?」
「そうだ。あなたでも今度ばかりは勝てないと思うよ」
「むん。見た目では判断できんか。ひょろそうな若者と子供、しかもおなごとはな。これまでお前が連れて参った中でも抜群に弱そうではないか。娘よ」
郴の城より南東に少し下った湘潭玲という山中に我々はあった。
標高は低く険しい訳でもない。そんな便利な場所でもあるので、木材の切り出しに使われ、木々は豊かとはいえないが、その分、行き来するのに苦労はなかった。
ものの小一時間ほど馬を駆けさせれば目的の場所には到達したような次第である。
禿山ではあるが、人一人隠すくらいならば申し分無い。
彼は町を嫌い、ここに一人暮らしていた。
白髪交じりの男は平伏するでもなく、立ちつくしたまま、少しもかしこまった様子すらなく、肩越しに桂陽郡の太守と会話した。
彼女の事を娘と呼ぶので、恐らくその父であろうと予想できる。
彼女の父である前の桂陽郡太守は既に他界したと聞いていたが、間違いだったのだろうか。
それにしても、その男は背後から見ても筋肉質な体型であると分かる。
上背も相当有り、平均的男性よりやや長身な私よりも十センチは高い。
最前まで薪割りでもしていたようで、周囲には割られた薪が散乱し、彼の右手には斧が持たれていた。
彼の向こうには汚いあばら家が左に傾斜してかろうじて建っているが、それは人であれば青息吐息の老人が杖を頼りにようやく立っているような様子である。
思いっきり蹴り飛ばせば易々と倒壊しそうでもあるし、いっそ蹴り倒してあげたほうが家の為だろう。
元一郡の太守であり、現太守の父の居城としてはふさわしくないようであるがしかし、そこが今の彼の根城なのだ。
割れた薪のいびつな断面や汚れた家やそのあばら家の横に乱雑に畳まれた衣服等の様子を見る限り、こんなサバイバルな環境で生活している割に不器用で、生活力はあまりないようである。
「そうだよ。あまり見た目で人を測るものではない。私だって武芸の腕は捨てたものじゃないだろう?」
「認めよう。早速だが、手合わせ願おうか。一人づつでも良いし、二人いっぺんにでも構わない。とにかく私の息の根を止めよ。ただし、私も死にたがりではあるが、誇りある死にたがりだ。弱者に首を落とされる事に甘んじるつもりはない。微力であるが精一杯の抵抗はさせて頂くぞ」
そう言って振り向く男は人間ではなかった。
いや、通常の人間の顔をしていなかったというだけで、人ではないなどと断定するのは早計であった。
恐らく人間の娘を持つ身であるので、人ではあろう。その容貌に特異点があったに過ぎない。
私とした事が、それしきのことにも瞬時に思いが及ばなかった事に恥じるべきだろうし、男に対して心の中で詫びた。
その特異点とは目から下にあった。
鼻背と頬から徐々に前かがりになり、鼻がしらに集約されていく。
そこは薄い獣毛のようなうぶ毛に覆われていた。
口のあたりは左右に大きく裂けており、そこからは鋭い牙が覗く。
まるで、人間が狼の鼻先のマスクを着けたような感じだ。これは、狂犬病の一種だろうか。それとも、狼憑きのような、超常的な何かだろうか。初めて見る症例だった。
「ば、化け物です」
徐曠は思いっきり顔を引きつらせている。
「そうか、我の顔は少女には刺激的に過ぎたかな。しかし、これでも歴とした人間である故、そのような発言は今後、我か二人かのどちらかの息の根が止まるまでの間であるが、遠慮して頂こう」
「お、狼の化物がしゃべっていますっ」
「どうやら、少女は先に死にたいようだな」
元太守は長い牙を見せた。
前桂陽郡の太守である辛雋が病を罹ったのは、今から二年ほど前になる。
最初は鼻腔の違和感であったという。
やたらに鼻をムズムズとさせるので娘も異変に気が付いた。
それから、髭が急に濃くなりだした。元々口髭を蓄えていたが、それはむしろ薄くなり、ごわごわとした獣毛のような長い産毛が生えだしたのだ。
容貌は時々刻々と変化したが、日常生活に不便を感じる事も無く、捨て置いた。
しかし、それはついに顔の下半分を覆うようになった。
高熱にうなされ、下痢と嘔吐に悩んだ。慌てて医者に診せても、いかなる名医の薬も効かなかったそうだ。
死の淵を彷徨った辛雋は、本当に死ぬ決意をした。
彼は後事を頼める者に託すと、辛鄒を後継に立てて息を引き取った。
というのが表向きの風聞だ。
実際には、喪は発し、棺も埋葬したが、そこに彼はいなかった。
こっそりと城を抜け、この山に籠ることにしたのだ。
「この顔で政務が務まるとでも思うのか? 朝廷の使者に会う事ができるとでも?」
なぜそうしたかを尋ねると、静かだがやり場のない怒りを内包した言葉を発した。
一命はとりとめたものの、包帯をとり除いた彼を映す鏡には、狼がいたのだという。
剛勇で名を馳せた男でも、耐えがたい程の恐怖が身を包んだそうだ。二晩は布団を被って這いだす事も出来なかったという。
「私が昔虐殺した狼共の祟りだろう。矢傷を負った日から毎晩、我を取り巻いて、襲いに来おる。最初は一匹だった。だが、日増しに数を増やしおる。我ももう疲れた」
なので、ここで隠遁し、娘の寄越す刺客と殺し合い、己の死ぬ日を待っているのだという。
「我はここで、太守としてではなく化け物として死ぬ。ただ、自ら命を断つ事はせん。我と闘え。そして我を討て」
徐曠はその日、彼女自身の最大の弱点を私に露呈させた事を後悔せねばならないだろう。
彼女は実は弱い。あまりに弱い。
着飾って町を歩く裕福な家の娘らと何も変わらない程にか弱い。
「動きは早く非凡である。武技にも尋常ではないものを感じたが、やはり、見かけ通り弱かったな」
腹を殴られて昏倒した少女は、ピクリとも動かない。さすがに日々鍛えている身だから、それくらいでは死んではいないだろう。
俊敏な動きで、相手を翻弄し、終始押していて反撃の隙も与えない。
彼女はそういう戦闘スタイルだった。
今回もその、彼女のターンで戦いは繰り広げられた。だが、結果は惨敗だった。勝敗を分けたのは一瞬だったが、勝負の行方は初めから決していた。
彼女の弱点。
それは、人を殺せない事。
町娘ならば美徳であっても、将を志す者としては致命的だ。
武芸とはつまるところ、人殺しの技能である。
それを発揮できないならば、殺意がないならば、どれほど技を磨こうともただのお遊びであり、宝の持ち腐れというやつである。
それゆえに彼女は今、地を舐めている。
フェイントから右の懐に入るまでは流麗ですらあり、完璧な戦術だった。
相手も翻弄され、虚をつかれ、手にした斧は防御に間に合わなかっただろう。
だが、そこから彼女の勢いは減速する。
短剣の切っ先は手近な急所を好まなかったかのごとく、それの集まる胸や首には向かわず、肩口に掠って僅かな鮮血を飛沫かせただけだった。
「……っ」
相手が避けたのか、狙いを誤ったのか、いや、どちらでもない。
それは彼女の表情が物語っていた。
自身でも、自身の行為に落胆しているかのような、または驚愕しているかのような表情を一瞬見せたのだ。
静止した少女に一撃を加えるのに、得物を使わなかった事に関しては、彼に感謝しなければならないだろう。
なぜなら、後で私がからかってやる機会を残してくれたのだから。
「では、次は貴様が相手になるのか? それとも、すごすごと尻を捲るか?」
厳かに斧を構えて私を見据える狼は尋ねた。
「狼を虐殺した時の話を聞かせてくれないだろうか」
芥子坊主の揺れる畑が山の裾一面に広がっている。収穫の時期が近いのだろう、そこに忙しく働く人々を遠望しながら、私は狼男に所望した。
「そんな事を聞いてどうする。今から殺し合いをする相手の事情など詳しく知ってもなんの楽しみもなかろう」
これまで随分と調子良くおしゃべりしていた口でよくそんな事を言えるものだと感心した方がよいだろうか。
それとも、そう突っ込んでやった方がよい彼流の冗談だろうか。判断に迷ったが、話を進める方に会話の舵を切った。
「だから、その殺し合いを回避しようという心づもりで言っている」
「我の病を治癒しようとでもいうのか? 無益な時間だ。先にも申したが、既にあらゆる名医が匙を投げている。貴様に何ができるのだ?」
「あなたに対して何かを出来るつもりで聞くのではない。聞いて何が出来るかも分からない。私はあくまでこの無意味な戦闘を避けたいだけだ。でも、悩みは誰かに打ち明けると、気分が軽くなるもんだろ」
「なんだそれは。貴様は何かの勧誘員か、それとも詐欺師か? 我をペテンにかけようとでもしているのか?」
台詞の辛辣さの割にはそこにはさほど敵意は感じられない。
彼の訝るように、私にも自分でもおかしな事を言っているという自覚はあった。無益な戦いは避けたいのは本音だ。
私が彼に勝つ自信もない。
徐曠を助けた事からも、彼が人殺しをしたい訳ではない事は明白だ。
だから、私がこの戦いを避けるのは簡単だ。
戦わなければいい。
おそらく彼は、逃げる私の背を斧で切り裂こうとまでは思わないだろう。
彼が欲しているのはきっと、ただ、戦いの中で死にたい、という武士の願望だろう。
ではなぜ私はこんな事を言い出しているのか。
そこまで考えて気が付いた。
どうやら私は大業な語り口の癖にお喋りな彼を助けたいようだった。
「どれも正解かもしれない。あなたも死ぬ前にそれぐらい語っても損にはならないだろう。これから斬られゆく私への餞別だと思ってくれてもいい」
「ふん、面白い事を抜かす。いいだろう。死ぬ前に少し時間をくれてやろう」
「どうもありがとう」
父娘共に、私を気に入ってくれたようだ。
これで、娘の方と結ばれても誰も文句は言わなかろう。
口から思わず出かかった「娘さんを下さい」は、またの機会にとっておくとしよう。
まあ、残念な事に当の本人が同性に御執心なので、一蹴される可能性が高いが。
かといって父の方とは結ばれる気は無い。
「そうは言っても、語る程の事も無い。我が桂陽に赴任する為に益州から旅をしていた時だ。重安の街を発った日の晩、うち捨てられた祠に泊った。そこで、数匹の狼に囲まれたので、斬り捨てた、というだけの話だ」
「それだけ? 本当に? なぜ、それで祟りがあると思ったんだ?」
「おう。そうだな。確かに、そこを抜かしていた。その狼共を斬った場所が普通ではなかったのだ」
辛雋の言はたどたどしく、目を中空に漂わせ、必死に当時を思い出すようにしている。
彼の目の下には深く暗いクマがある。
毎夜襲い繰る狼の群れに悩まされているのは本当なのだろう。不眠は確実に彼の精神を蝕んでいるようだ。
「というと?」
「狼の神様を祀った祠の中だったのだ。神様の前で信者を斬れば、祟りがあるのは当然の事、甘んじて罰を受けねばならないのだろうな。我は」
彼の言葉に異論がないのは、辛鄒もまた迷信深いという事の表れなのである。
この時代の人間は彼らに限らず、往々にして超常現象や事象のこじ付けや迷信を容易に受け入れる傾向にある。
広域に商いを行い、人心を得ている辛鄒であっても例外ではないのだ。
多くの人々が合理的な思考ができるようになるのは、近代に入ってからになるだろう。
怪しげな宗教団体が国家を牛耳ったり、エセ妖術使いが跋扈する世の中なのである。
まあ、何百年経っても、詐欺師や悪徳宗教、似非慈善事業や嘘つき政治家にだまくらかされる人々はいなくなったりはしないのだが。
「いいだろう。あなたの祟りを取り除いて進ぜよう」
できるだけ神々しく見えそうな表情を作って二人を眺め、私は言い放った。きっと、怪しげな宗教の教祖はこんな感じだろうなと、想像した。




