踏み出す一歩
授業は通常に戻り、一年一組のあべこべだった男女も普通の問題の無い生徒になって教師達は安堵していた。クラスメイト達は戸惑いつつも受け入れているようで、毎日が平和に過ぎてゆく。
男に戻った優は、やる気の無い生徒だった。怠いが口癖で、大抵瀬尾と共にいてバイク雑誌を見ていたり、くだらない話で笑っていたりする。
倫と瑠奈とも変わらずファッションの話をしたりもする。その中には薫も加わり、いつの間にか薫が走り回る光景を見なくなっていた。
最近ではもうすっかり、薫はおっとりした女の子だ。
「薫っち、誰に見惚れてんのかなぁ?」
「それはもちろん…ねぇ?」
意地悪な顔で笑う倫と瑠奈に挟まれ、赤面した薫の視線の先には優がいる。体育の授業で、ハードル走のタイムを計っているのだ。
「フォーム、綺麗…」
うっとり薫が呟くと倫も瑠奈も同意したが、一学期は手を抜いていたのが丸わかりで呆れている。
走り終わった優は体操着の袖で汗を拭い、寄って来た男子達に何故か蹴られていた。今まで手を抜いていた事の文句を言われているようだが、笑って受け流している。
優もまた、すっかり無邪気な男の子だ。
体育の後は薫も優も、それぞれ男女の更衣室で着替えるようになった。初めは薫がいる事に赤面していた女子達だったが、薫の下着姿を見ると納得したようで、最近では変な反応は無くなった。
女の薫が受け入れられるに連れ、薄れていく物もある。
ふとした時に、思い出す。
家の中はまだ、兄がいた時のままで保たれている。
涙はまだまだ溢れるけれど、立ち止まったままで蹲り続ける事は、やめたのだ。
「薫?何考えてんの?」
包み込むような温もり。
降って来た穏やかな声。
見上げた先には、彼の微笑み。
「優が…好きだなって…」
机に両手をついて、後ろから抱き締めるように薫の顔を覗いていた優の顔が、真っ赤に染まった。ぼんやりしていて忘れていたが、今いる場所は教室だったのだ。周りに視線を巡らせて、友人達のニヤニヤ笑いとぶつかり薫の顔にも熱が上る。
「なんでここで言うかな?キス、出来ねぇじゃん…」
彼の声は日が経つにつれ、どんどん甘さを増していると薫は思う。少年、というよりも、青年になりつつある優。
「帰ったら、良い?」
耳元での掠れた囁きに頷けば、彼は甘く甘く、笑う。
学校帰りはこれまでと同じ。二人手を繋ぎ並んで歩く。
結花や修を含めた友人達と駅前で遊んでから帰る事もあるけれど、今日は二人きり。
藤林家の優の部屋。勉強道具を出そうとして、優に止められた。
「まずはこっち」
優の脚の間の床を示され、薫は赤くなったが素直に従う。
「して?」
首を傾けた彼の、可愛いおねだり。
優の脚の間で立ち膝になり、肩に両手を置く。ゆっくり、少し長く唇を重ねて、これで良いかと視線でお伺いを立ててみる。
「足りないよ。大人のが良い」
浮かべているのは意地悪で甘い笑み。真っ赤で狼狽える薫を見て、楽しんでいるのだ。
「俺からしたら止まんないから、して?」
お願いと続けられれば、薫は彼に操られるように動いてしまう。
好きで、好きで、堪らない。薫の心の中は、優でいっぱい。
重ねて、重ねて、そっと差し出す。だけれど優は受け入れるだけで、待っている。
薫の心臓は破裂寸前。
ぐっと身を寄せて深く口付ければ、優の両腕に腰を抱かれる。
いつの間にか恥ずかしさは薄れ、薫自身、もっともっとと、優を求める。
薫が首に両腕を回して上向いた彼の口腔を、愛しさと、イヤラシイ気持ちで撫で回した。
そっと目を開ければいつもは飄々としている優が真っ赤で、動揺していて、薫の嗜虐心が刺激される。
もっともっと。
もっと深く。
優に、近付きたい。
「か、薫っ…ストップ!」
お互い息は乱れて、とろりと赤い顔。
息継ぎの合間で止められ、唇は離れたけれど、体は密着したままだ。
「り、理性…飛ぶ。ちょっと…待って……」
「やだ。優、もっと…」
いつもとは逆で、襲うように、薫は優の唇を塞ぐ。
諦めたのか、段々優も夢中になって、飲み込む唾液がどちらの物かもわからなくなる程に、お互いを味わった。
「……どした?…なんか、不安にさせた?」
髪に差し込まれていた優の手に頬をそっと撫でられ、薫はやっと、唇を離した。
肩で息をして、お互いの体が、熱い。
「不安……」
呟いてみて、思い浮かぶ。
何もない訳ではない。だけれどそれは醜い女の感情。優に知られたくない、黒い気持ち。
どうしようもなく、薫はもう…女だった。
「なんかあるなら、言って?出来る限り、拭い去りたいから…教えて?」
筋張った、男である優の手。挟むように包み込んで、右の親指がそっと薫の頬を撫でる。
誤魔化す為に唇を重ねようとしたが、その両手に阻まれ許されない。
「なんかあった?」
再度問われ、薫は折れた。
「……優、モテ過ぎ。女の子が優にキャーキャー言う。やだ。」
仏頂面で伝えてみたら、優が嬉しそうに笑う。
「なんで笑うの?バカにしたぁ!」
カッとなって離れようとしたが、優に抱き締められて叶わない。暴れてみても、本気で離れたい訳ではないから抜け出せない。
「嫉妬可愛い。…どう証明したら良い?俺は薫だけだって。言葉?行動?」
耳に吹き込まれたとろとろに甘い声。溶けてしまうような錯覚に、薫は襲われた。優に凭れかかるように抱き付いて、唇を尖らせた薫は両方だと答える。
「薫だけが好き」
耳に、優の唇が押し付けられた。
「他の女にカッコイイとか言われても、響かない」
言いながら優の顔が下りて、今度は首。
「薫の言葉だけが、俺の思考をぐずぐずに溶かすんだ」
手を取られ、甲へのキス。
「……俺を男に戻したのは、薫だよ」
蕩けた笑顔の優に、キツく、抱き締められた。抱き締められて嬉しい。優の言葉も、嬉しい。だけどもっともっとと、女に戻ってから、薫は自分が欲張りになっていると感じた。
「優、好き…」
言葉に出さないと溢れ出して、壊れてしまいそう。
「大好き…」
好き。好き。好き。
自分の想いが優を壊してしまいそうで、薫はふいに、恐ろしくなった。
寄りかかってばかりいては、その内優は、押し潰されてしまうのではないか。
そうならない為に強くなろう。
優の腕の中、大好きな人の香りと温もりに包まれて、薫は決意する。
「薫、好きだよ」
優しい優。
弱い薫を守ってくれる優。
(側にいる為に、がんばる。)
心の中で呟いて、薫はふわり花開くように、笑った。
***
優の家で少し勉強をして、制服のスカートの下に短パンを履いた薫は帰り道を自転車で駆け抜ける。
道を逸れて向かったのは自宅の最寄り駅。自転車を停め、券売機の前に立つ。
込み上げる吐き気を堪え、震える指で買ったのは入場券。
まずは駅のホームに慣れようと、竦む足を動かし、改札を抜けた。
イケると薫は思った。
券売機ですら、前は体が震えて近付けなかったのだ。願書の提出も、入試の時も、改札を抜けられず自転車で向かった。
体が震えて、吐き気が酷い。
辿り着いたホームで、薫は壁に背を付けて立つ。
優の笑顔を思い浮かべて、大丈夫だと自分に言い聞かせた。
だけどアナウンスが流れ、電車が近付いて来る音で血の気が引いた。
兄を奪った、鉄の塊。
怖くて堪らなくなり、薫はその場に蹲る。口元をおさえ、目を瞑った。電車が発車して、完全に離れるまでそのままじっと、動けない。
焦らず、少しずつ慣れよう。そう決めて、薫はよろよろとホームを後にする。
一歩は踏み出した。
優と、みんなが分けてくれた勇気。
優しさに溺れてばかりいないで自分の力でも、薫は前に、進むのだ。