お別れ
幼い頃から薫の側には兄がいて、薫を守ってくれていた。
勉強を教えてくれて、道場でも、女の子だからとか危ないからと薫を遠ざけず、一緒に稽古をしてくれた。
母によく似た兄。凛としていて、頭も良くて、優しくて、薫の自慢。家族の自慢。道場でも、門下生達に慕われていた。みんな兄が大好きだった。
『薫は可愛いから、兄ちゃん心配だな。』
可愛いと言って、いつも薫の頭を撫でてくれた。
『女の子だからって、無理に女らしくなる必要はないよ。薫は薫らしくで良い。母さんだって、言葉使いは男みたいだろ?』
大好きな、大好きな兄さん。
失ったのは、雪が舞いそうな、とても寒い日。
中学二年生だった薫は、風呂にも入り、炬燵で丸まって兄の帰宅を待っていた。宿題でわからない所があったのだ。本当は教科書や参考書を見ればわかる。だけど兄に構ってもらいたいから、問題を残して待っていた。
冬休みに入り、年末で、兄は大学生。大学で出来た恋人と、兄は遊びに出掛けていた。
その帰り道での、出来事。
炬燵で年末の特番を観ていた時に母の携帯が鳴った。
ディスプレイには兄の名前。普段通り電話に出た母の顔が、一気に険しくなった。
母の手でテレビは消され、部屋の中は静まり返る。異様な空気を感じ取り、薫も息を殺して、耳を澄ませた。
漏れ聞こえたのは女の嗚咽と、『優が、ぐちゃぐちゃ』という、途切れ途切れに聞こえた理解不能の言葉。
薫の視線の先では、母の手が、震えていた。
父は仕事関係の忘年会に出掛けていて不在。母と二人きりの部屋の中、薫はとても、恐ろしかった。
『優は、死んだのか?』
温度の無い母の声。今でも耳に、残っている。
答えを得たのか、母が突然、泣き崩れた。
いつも凛としていて、声を荒げる事の無い母が、まるで狂ってしまったかのように声を上げて泣き、震え出した。
良くない事が起こっているのはわかった。怖くて、怖くて、薫は根が生えたように動けない。
震えながら母は携帯電話を操作して、父にも知らせた。
薫は兄に、会わせてもらえなかった。
だから薫が覚えている最後の兄は、出掛けに薫の髪をくしゃりと撫でて勉強頑張れよと言った、優しいいつもの笑顔。
恋人と共に電車を待っていた兄の側で、千鳥足の酔っ払いが、ホームに落ちた。忘年会シーズン。酔っ払いはあちらこちらにいる。
落ちた酔っ払いは頭を打ったのか意識が無く、兄と他にもう一人、若い男が助けに降りた。
電車はもうすぐホームに来る。非常ボタンを探せと叫ぶ人、駅員を呼びに走る人。
だけどどれも、間に合わない。
側にいた人の力も借りて、酔っ払いはホームに上げた。
兄はもう一人を手助けしながら先に上がらせた。
二人同時に誰かに引き上げてもらっていたら、間に合った。
兄だけが、助からなかった。
***
「鏡を見たら、兄さんがいたの。声を低く出したら、兄さんの声。だから私は、兄さんになるって、決めた。」
あの冬から、薫は兄の真似をするようになった。失っただなんて、もう会えないだなんて、受け入れたくなかったから。
「私の事も兄さんの事も知る人がいない、遠い高校を選んだ。そこなら誰も何も知らないから、一日中、兄さんといられると思った。……優はそれに、付き合ってくれてたの。」
悲しく笑った薫の頭を、優の手がくしゃりと撫でた。
兄と同じ撫で方。
同じように優しい笑顔。
読み方は違うけれど、名前の漢字が兄と同じ男の子。
初めは無意識に、兄の代わりを求めたような気もする。だけどいつしか彼自身が…"藤林優"本人に、薫は、恋をしていた。
「…薫と、藤林の事情はわかった。だけどさぁ、俺らに話したって事は、学校でも本来の性別に戻んの?」
瀬尾の言葉で、黙って話を聞いていた全員の視線が二人に集まった。優の瞳は、薫を伺っている。大丈夫かと、心配している。だけど薫はまだ迷い、答えられない。ここにいる人達は受け入れた。それは恐らく、少数派だ。
「薫が決めるなら、俺はお前の盾になる。その決意はもう、出来てるよ。」
「……優は男の子に、戻りたい?」
優はいつも薫の意志を優先してくれるけれど、薫は、優がどうしたいのかを知りたいと思った。
薫の問い掛けに、優は困り、苦く笑う。
「まぁぶっちゃけ、限界は感じてる。嘘ばっかでもないけど、仲良くなればなる程、騙してる事に罪悪感は感じるんだ。」
「……そうだよね。…引き延ばして、迷惑ばかり掛けて、ごめんなさい。」
そっと身を寄せた薫を、優は抱き締めてくれる。
だけど甘い雰囲気は、まだ許されない。
「んじゃ、話は纏まったみたいだし、優の家行かねぇ?」
提案したのは、ずっと傍観者だった修で、彼は楽しそうにニヤニヤ笑っている。
「どうせなら二人とも本来の格好でさ、優のあの部屋も見せて暴露しろよ。あ、そちらさん時間は?」
修に聞かれ、瀬尾、瑠奈、倫は問題無しと返事をした。それぞれが自己紹介して、優の家に向かう事が本人そっちのけで決まってしまう。
「そういえば薫、なんでそんな格好してるの?暑くねぇ?」
優の問い掛けにギクリとしたのは薫と結花。二人の反応で瞬時に理解したのか、優の手が薫の肩を掴み、ジャージのファスナーが少し下げられる。
「あー!!優の変態!!!」
「結花うるせぇ。これやったの、結花?ボタンは?」
「あ、あああの、勝手に、飛んで…ボタンは、ズボンに…」
結花は自分は悪く無いとそっぽを向き、薫は結花を庇う。まぁいいやと優は呟いて、ファスナーを一番上まで戻した。
「それじゃあみんな、美少女のファンシーなお部屋にご案内するわね。」
美少女に戻った優がにっこり笑うと、瀬尾と倫は苦笑を浮かべ、瑠奈はその見た目なら女の子の声の方がしっくり来ると納得した。
修は何かが嬉しいらしく、ずっとニコニコ笑っていて、結花はわざとらしい不満顔。
そんな友人達と共に、優は薫と手を繋いで藤林家へと向かった。