熊と虎
門下生の一人と、優は向かい合って立つ。突然やってみろと言われ試合形式。やっぱり怒ってますよねと、内心苦く笑った。
「手を抜いたら怒られるんだ。少年、すまねぇ!」
申し訳無さそうに告げた相手に微笑み掛け、優も構える。
ここの流派は合気柔術。攻撃を無力化され、返される。さてどうしようかなと考えながら、優は相手を見つめた。
半身で腰を落としている相手の構えを見て、戦い方を決める。
素早く間合いを詰め、中段前蹴り。相手の注意が腹部に向いた所で上段回し蹴りへと切り替え、相手の体勢を崩した。驚いている相手が立て直す間を与えず、そのまま蹴り下ろした足を軸に後ろ回し蹴りを横っ面に叩き込む。
「いや、逆にすんません。」
静まり返る中、平間が優の勝利を宣言する。倒れて呆然としている相手に歩み寄り、助け起こして優は苦く笑った。
「めっちゃ入りましたよね?ごめんなさい。」
「いってぇ…。経験者ならそう言って!」
「いやぁ…すんません。」
涙目の相手に対し、優は平謝りだ。薫から借りた道着は優の戦い方では動き辛く、内心では不味いかなと思っていたが意外とイケる物だなと考える。
「お前、空手か?」
側にやって来た熊に見下ろされ、優は頷く。
「他にも父親から、柔道、剣道、合気道習ってます。」
「ほぉ!何処の流派だ?」
「道場は通って無いんでわからないです。いつもは親父の仕事仲間と稽古したり、何でもありの格闘技で試合して遊ばれてるんですよ。」
「混合格闘技か。お前、うちに入らないか?筋が良い。」
「痛いの嫌です。だからいつも、先手必勝。」
「なよっちい奴だなぁ!」
「まぁ女装が趣味ですし?」
いつの間にか上機嫌になった稔は優の肩を叩いて豪快に笑っている。
門下生と稔の中にあっという間に溶け込み稽古に誘われている優を、離れた所から眺めて薫は拗ねていた。唇を尖らせ、悲しげに呟く。
「やっぱり男の子はズルい…」
優と兄の姿が、重なった。
少し前まで、あそこには兄がいて笑っていた。自分もあそこに入りたかった。男になりたかった。
「薫…」
奈帆子が薫の様子に気が付き、声を掛けようと手を伸ばす。だがそれは、優の薫を呼ぶ声に掻き消される。
「次はお前だろ?来いよ!」
「……うん!」
立ち上がり、嬉しそうに薫は駆けて行く。薫の明るい笑顔を、門下生達も何処かほっとした様子で見ていた。
薫の兄の優が居た頃は、女の子なのだからと門下生達は薫をお姫様扱いしていた。可愛がられていた。だけれど薫はそれが不満で、女の子である自分を嫌っていたのだ。それが兄の死で顕著に表に出てしまい、薫は女を捨てようとした。兄との思い出が色濃い道場にも、近付けなくなった。
「優の導きか…はたまたただの偶然か…」
側に来た夫の呟きに、奈帆子は薫と優の姿を眺め、目を細めた。
「どちらでも構わない。薫が、薫に戻れるのならば。」
「そうだな…」
その日の稽古で筋が良いと気に入られた優は、これ以降頻繁に薫や門下生、稔から稽古に参加しろと誘われるようになり困る事になるのだった。
***
今日は正座ばかりだなと優は内心溜息を吐き出す。向かい合うのは強面ヤクザ面の父。
野口家の道場で稽古に参加した後、車で稔が家まで送ってくれた。朝家を出る時に覚悟していたボロボロ具合ではなく、スポーツ後の気持ち良い疲れを抱えて助手席に座り、どうやら優を受け入れてくれたらしい稔と世間話をしながら帰った。そこで、己の父英吉の帰宅とかち合ったのだ。優が間に立って和やかに父親同士は挨拶を交わし、その場はそれで終わった。稔の車を並んで見送り、玄関の中に入った所で鋭い父の視線に見下ろされた。男の服を着た優と、優を女だと思っていたはずの薫の父親。何がどうなって共にいて、何故車で送ってもらったのかを説明しろと目で言われ、優はリビングに正座して説明する羽目になったのだった。
「と、いう訳で、男だと説明して土下座して来た。」
薫との付き合いが初めは"フリ"だったという怒りを煽りそうな事は避け、薫の兄の事、薫の両親に女だと思われた経緯の説明を終えた優は目の前で殺気を放ちそうな虎を見つめる。虎は呆れたように長く息を吐き出して、なるほどなと呟いた。
「で、あちらさんは許してくれた訳か?」
「そうみたい。むしろ気に入られたかも?」
「女装はこれで終わりか?」
「いや。それはまだ。」
ピシリと虎の青筋が動き、優は苦く笑う。
「俺だけ先にやめる訳にいかないだろ?薫が女に戻る決心出来る前に俺だけバラしたら、あいつ、余計戻り辛くなる。」
「………薫ちゃんは、まだ?」
「多分まだだ。でもさ、どうなんだろ?ここまで来ちゃったら卒業まで引っ張るしかねぇのかも?」
「お前、流石にそれは厳しいだろう。」
「かな?ま、それでバレて、俺は変態扱いでも薫の方の印象が薄まればいっかなとも思ってる。」
今後どうなるかはわからない。クラスメイト達の反応も未知数で、薫がいつ、男の子を着る事をやめられるのかもわからないのだ。
「お前の馬鹿な趣味が厄介な事になったもんだな。」
「本当だな!びっくりだわー」
のんびり笑う優の頭に拳骨が落とされた。頭を抱え、優は声無く蹲る。
「お前の事はあまり心配せんが、薫ちゃん、支えてやれよ。」
「おう…そのつもり…」
英吉が立ち上がり風呂場へ向かうのを見送ってから、遠子が優の側に膝を付いて殴られた頭をそっと撫でる。
「あんたもいつの間にか"男の子"ね?」
「もう賞味期限、来たかな?」
「見た目はもう少しかしら?でも中身はもう、"男"ね?」
「やっぱ?もう少し引き伸ばしたかったんだけどなぁ。」
苦く笑っている優の頭を撫でながら、遠子は黙って微笑んだ。
優の趣味に父親は渋い顔をしたが、この母はいつも笑ってなんでもないように受け入れる。母にまで反対されていたら、優は意固地になっていたかもしれない。
「母さん、肩揉んでやろっか?」
「あら、それより母さん、優の美味しい夕飯の方が良いかしら?」
「はいはい。うちの女連中って人使い荒いよなぁ。」
立ち上がり、優は台所へと向かう。その背を見つめる遠子は、優しく笑っていたのだった。