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 車から降りた薫はランジェリーショップの袋を胸に抱き、こそばゆい気持ちで微笑んだ。思い出すのは男の子の制服姿の優。同時に彼の意地悪な発言を思い出し、ほんのり頬が染まる。


「おかえり、奈帆子……と、薫?」


 車の音で気が付いたのか、出迎えに来た父にただいまと返すと何故か、父の目が零れんばかりに見開かれていた。父の秘書的役割の平間に至っては、父の一歩後ろに立ち赤い顔で驚いている。

 どうしたのだろうと首を傾げてみて、さらりと揺れた長い黒髪が視界に入った。はたと気が付き、見下ろした自分の体を包むのは丈の短いスカート。女子の制服のままだった。


「あ!あー!!どうしよう!着たまま帰って来ちゃった!」


 母を振り返れば、あぁそういえばと呟いている。

 優の家の前で彼を下ろし、そのまま、帰って来てしまったのだ。薫の制服も、優の家にある。

 わたわたとスマホを取り出した薫は、優に電話を掛けた。


『もっしー、今気付いた?』


 電話の向こうの優の声は、何処か楽しそうだ。


「ごめん!ごめんね!明日どうしよう?今から持って行く?」

『明日着てくれば?うちで交換すれば良いんじゃね?』

「で、でも…こんな短いので自転車乗れないよ…」

『そか。なら私服で来いよ。そんでうちで着替えれば完璧!……でさ、森のクマさんの反応は?』


 そう言われ思い付くのは薫の父で、駐車場で立ったまま電話をしていた薫の側にはまだ、母も父も平間もいて、電話している薫を眺めている。


「く…クマさんに、凝視されてる。ちょと、怖い……」


 薫の姿を焼き付けるように見つめながら、父の目には涙が滲んでいる。号泣一歩手前で、感動しているのか震えていた。それを父達に聞こえないよう小声で伝えれば、優の楽しそうな笑い声が聞こえて来る。


『俺からの賄賂。親父さんには言うなよ?』

「な、なんの賄賂?」

『んー?土曜の反応の緩和策?殴られる覚悟は出来てっけどさ、死にたくねぇし。』

「よくわかんないよ…」

『薫はわかんなくて良いよ。なぁ薫。それ、すげぇ可愛いからまた見せて?俺だけにで良いから。』


 電話だから耳元で、優の声がいつもと違ってドキドキする物に変わった事に薫はどぎまぎしてしまう。真っ赤な顔を左手でおさえ、慌てながらもなんとか返事をすると優がくすりと笑って、また明日と電話は切れた。


「……………男の声、だったか?」


 切れた電話を眺めながら早鐘を打つ心臓をおさえている薫に、ゆらりと父が一歩近付いた。薫は更に頬を赤く染め、逃げるように玄関に向かってしまう。


「い…いやぁ!薫さんの女の子らしい服装なんて久し振りですね!やはり女将さんにそっくりで美しい!」


 玄関に逃げ込んだ薫の後ろ姿を眺めつつ平間が慌ててそう告げるが、薫の父、稔の顰められた顔は元には戻らない。そんな夫の不機嫌な顔を見上げて奈帆子は微笑み、大きな背中を優しく摩る。


「稔さん、あれは優くんの制服だ。土曜は嵐が来る。」

「嵐?台風か?」


 奈帆子は答えず、ただ笑った。

 奈帆子まで家に入ってしまい、残された男達は無言で佇む。


「おい一誠(いっせい)。薫の電話の相手、男だったよな?」

「お、俺にはよく聞こえませんでしたが、藤林さんに掛けたんですよね?制服の話でしたし?彼女、少し声低かったですから…」

「………それもそうか。」


 どうやら納得した様子で玄関へと向かった稔の背を見ながら平間は心の中で首を捻る。薫のスマートフォンから漏れ聞こえた笑い声は男の物だった。だが挨拶した時に少しだけ聞いた、薫の友人である藤林優の声にも似ていた。電話だと声が変わる物なのだなと結論付けて、平間は仕事に戻ったのだった。



 ***



 台風の影など欠片も見当たらない、梅雨の晴れ間の昼過ぎ。嵐は確かに野口家を襲っていた。


「前回はあの様な格好で申し訳ございませんでした。藤林優、男です。」


 白と紺の道着を纏った熊の様な大男の前で土下座をしている少年。薄ピンクのカットソーの上に七分袖のグレーのパーカーを羽織り、ネイビーのクロップドパンツ姿のその少年の顔は、薫の()友達であるはずの、藤林優と瓜二つ。だが声が低い上に髪も短くなっていた。

 稔は眉間に深い皺を刻み、青筋をピクピクと引きつらせながら黙って少年を見下ろしている。


「男…男が、薫の部屋に泊まったのか?」


 低く地を這うような声に、少年は頭を下げたままで申し訳ございませんと答えた。

 二人の周りには、サイズの合わない兄の服を纏った薫と道着姿の奈帆子。少し離れた所では、白の上下の道着姿の門下生達がビクビク怯えながら見守っている。稔が本気で殴り掛かれば少年の命が危険な為、すぐにでも止められるように平間が稔の斜め後ろに正座で控えていた。


「何故、騙すような真似を?」


 まだ稔は冷静に話が出来るようで、説明を求められ、少年は頭を上げずに口を開く。


「高校に、俺は女として通っています。あの時は女友達として薫さんといました。疚しい事は無いので、女のフリをしたままでいました。」

「それで、何故今、君はここで頭を下げている?」


 それまでずっと頭を下げたままだった少年は、すっと顔を上げ、稔の目を真っ直ぐに見つめた。真剣な表情で、稔の怒りに火を付ける。


「男として、薫さんとお付き合いさせて頂く事になったので、頭を下げに参りました。」


 稔の動きは素早かった。

 熊のような体からは想像が付かない程、いや、野生の熊並の速度で左手が少年の胸倉を掴み右手の拳が振り上げられる。あまりの素早さに、平間は間に合わない。


「………何故、そんな目をしている?」


 振り下ろされた岩のような稔の拳が、少年の眼前で停止した。少年は目を瞑る事もなく、真っ直ぐに稔を見たままでいる。


「殴られる覚悟をして来ました。それに俺は、真剣に彼女が好きです。」


 何も言わず、稔は少年を突き飛ばした。立ち上がり、少年から顔を背けて呟くように言葉を紡ぐ。


「………許す訳じゃない。だが、薫を取り戻してくれた事には…感謝している。」


 あの日から、薫は明るく笑う事を忘れてしまったようだった。長かった髪を切り落とし、兄の服を着て、兄の真似をしている時だけしか見られなくなった笑顔。兄と共に毎日来ていた道場にも、顔を出さなくなって久しい。その薫が、薫自身に戻りつつある。道場にもこうして足を踏み入れている。娘の変化が藤林優のお陰で起こっている事に、稔も気が付いていた。


「薫、道着を貸してやれ。稽古を付けてやる。」


 ニヤリと笑った稔の顔は獰猛で、門下生達は、一度は命拾いをしたはずの少年に同情した。当の少年はというと苦く笑って立ち上がる。服の乱れを直し、首を傾げた。


「有料ですか?」

「…………金は取らん。着替えて来い。」

「わかりました。」


 君はきっと何もわかっていないよと門下生達は心の中で叫んだが、稔に怒られるのが恐ろしくて誰もが口を噤む。

 奈帆子は夫を諌めるでもなくただ微笑み、恋人が父親にぶちのめされようとしているというのに、薫は何故か顔を輝かせて少年の手を引いて道場を後にする。

 これから始まる稽古という名の制裁行為に怯えていたのは門下生達だけで、熊が浮かべる笑みにぶるりと体を震わせたのだった。


 ***


「優は強いってお静さんが言ってた。何をやってたの?」


 自分の稽古着を渡しながら首を傾げた薫を、優は文句を言いたそうな顔で見やる。


「なんだよ"お静さん"って?時代劇?」

「この前そう呼んでって言われたの。ダメだった?」

「いや…まぁ、良いんじゃねぇの?冗談通じねぇ相手だって学んだだろ、(しず)も。」


 きょとんと首を傾げた薫の頭を優はくしゃり撫でて、微笑んだ。


「お前もやんの?稽古。」

「んー……見てたいから、私も着替えようかなぁ。私の相手もしてくれる?」

「それはあれだ、稔さん次第だろ。ぼろっぼろにされたら無理。」

「優なら大丈夫だよ!」


 満面の笑みで言われた言葉に、優は顔を顰めて小さな溜息を吐く。両手で薫の頬を摘まんで横に伸ばした。


「そんだけ信頼されてたら、俺も頑張りますよ。」

「ふん!がんびゃっへ」

「何言ってっかわかんねぇ。」

「は、はなひへよー」

「かぁわいい」


 くすくす笑う優の手から頬を解放され、薫は両手で頬を摩ってふくれっ面になる。


「着替えるけど、俺の着替え見たいの?」

「え?着方わからないかなって。手伝うよ?」

「なんとなくわかる。剣道と同じだろ?」

「なら私も着替えてくるね!」


 うきうきした足取りで部屋を出て行く薫を見送って、優は大きく息を吸い込んでから吐き出した。


「痛いのやだなぁ…」


 一人になった部屋で肩を落とし、もそもそと着替える優だった。

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