視線の先
教室に入ると整列した男子達が待っていた。
「藤林、昨日は悪かった!」
一斉に頭を下げられ、優の隣で薫が慌てる。やはり昨日のはこれだけの事態だったのだと思って優の表情を伺うが、彼は表情を変えずに下げられたままの男子達の頭を眺めている。
「朝から暑苦しいわね。私は気にしてないから、あんた達も気にしないで。瀬尾くん、机悪かったわね。先生に怒られた?」
「いや…腐ってたんだって事で落ち着いた。」
「そ。それなら良かった。」
にこり笑った優は、整列中の男子達の脇を通って自分の席に向かう。机に鞄を置くと、横から突進されて一人の女生徒に抱き付かれた。
「倫、痛い。どうしたの?」
「優大丈夫?怖かったでしょ?」
「男子達は昨日倫が一喝しておいたわ。いくら野口が好きでもやり過ぎたわよね。」
倫には抱き付かれ、瑠奈には手を握られて心配されている。他にもクラスの女子が数人側に来て、昨日の出来事に憤慨していた。
優は彼女達を見て、破顔する。
「心配してくれてありがと。アタシはなんとも思ってないわ。」
「優強いー、あたしだったら不登校になるー」
ごろごろ猫のように甘えてくる倫の頭を撫でている優は、背後に気配を感じて振り向く。誰なのかを確認する前に、抱き付いている倫から剥がされた。
「みんなから聞いた。なんでもなく無かった。」
優を奪還したのは薫で、優の腰に腕を回して抱き付いている。倫に妬いたのだと悟り、優の唇は笑みの形に緩む。
「あら、言った通りだったでしょう?男子達が拗ねたの。」
「優は優しい。」
「名前の通りかしら?」
「うん。ぴったりの名前だ。」
背中から抱き付いている薫は優の肩に顔を埋めた。優は手を伸ばし、くしゃりと黒髪を撫でる。
甘い雰囲気の恋人達を前に頬を染めるのはクラスメイト達で、美男美女カップルの珍しい光景をまじまじと観察していた。
「やだー!ちゃんとラブラブなんだね!良かった!」
「本当。あまりにも二人が淡白だから心配してたのよ?」
嬉しそうに笑っている倫と瑠奈の言葉に、優は照れ笑いを浮かべる。薫は顔を隠したままだが、見えている耳が赤い。
「学校であんまりベタベタしてもウザいじゃない。今は特別よ。」
「やだ。もっと優にくっ付きたい。」
「ダメよ。あんたがこっちに来ると男子達が拗ねるわ。」
「えー……あんまり、他の女の子に触ったらやだ。」
「ん。気を付ける。」
誰にも聞こえないように耳元で、小さな声でのヤキモチの言葉に優の顔が綻んだ。
優から離れた薫は男子の輪に戻って囲まれて、優は仲の良い女子の友人達にラブラブだった事をからかわれる。
その光景を少し離れた場所から眺めているのは優とは別グループの女子。彼女達は昨日の騒ぎに参加して優を罵っていた。
「藤林、ウザい。」
「みんなの薫くんだったのに…」
「あんな身長デカい女のどこが良いのかわかんない。野口、騙されてるって。」
「あんなのより美羽の方が可愛いよね。」
「そんなぁ、美羽はチビなだけだよぅ。」
美羽と呼ばれた少女は茶色い髪をふわふわに巻いた、背の低い可愛らしい見た目をしている。だけれどその目は鋭く、敵意剥き出しで優を睨み付けていた。
美羽側の一方的な優との因縁は、四月まで遡る。
オシャレが潰される灰色の中学時代を終え、美羽は燃えていた。高校の制服を可愛く着こなし、メイクも覚えて、格好良い彼氏を捕まえて薔薇色の高校生活を送るのだとわくわくしながら迎えた入学式。そこで美羽は、運命の出会いを果たした。
サラサラの黒髪に涼やかな目元。醸し出される柔らかな雰囲気。身長は理想よりも足りないが、きっとまだ伸びるだろうと考えた。新入生代表で壇上に立った彼は、美羽の理想の彼氏だった。
野口薫。同じクラスである事に美羽は歓喜した。
美羽には自分は可愛いという自信があった。周りの友人からもそう言われる。だからきっと、仲良くなれば自然と野口薫は自分を好きになってくれるはずだと思っていた。
だけどそれは、ホームルームの自己紹介で藤林優を見るまでの自信。
モデル並に背が高く、制服から伸びる足はすらりと長い。毛先が緩く巻かれた黒髪、二重のぱっちり大きな瞳。口紅無しでも桃色の唇。美人は性格が悪いはずだと美羽は考えていたが、藤林優は誰にでも優しかった。
媚びたりせず、男子とも普通に会話する。しかも勉強も出来て、友人に頼まれると嫌な顔をせずに、時折からかいを交え和やかな雰囲気で勉強を教えたりもする。
美羽は悔しかったが、自分と同じくらいの身長の女を野口薫が好きになるはずが無いと考えたら安心した。
昼休みには友人達と楽しそうに校庭を駆け回り、体育の授業では抜群の運動神経を発揮して女子の視線を一身に浴びる。入試でも中間テストでも学年一位の野口薫。
いつしか美羽は、彼を崇める女子達と仲良くなり、明るく元気な野口薫を見守る日々を送っていた。
仲良くなりたい。だけど彼はいつも男子の中心にいて、恥ずかしくて話し掛けづらい。
いつか仲良くなれるかな。
授業で同じグループになる事があるかもしれない。体育祭や文化祭があるから、その時に仲良くなれるかも。そんな美羽の、淡い恋心。
「のーぐちくん!ちょっと良いかな?」
野口薫に一切興味を持っていなさそうだった藤林優のこの言葉で、暗雲どころか、嵐が来るとは思いもしなかった。
二人が並んで帰宅した次の日、野口薫も藤林優も変わった様子が無くて美羽はほっとした。だからまさか、二人が付き合っているとは思わなかった。信じたくなかった。
「女の子がそんな風に足を出すなんて、痣が出来ちゃうわよ?」
腹いせに足を引っ掛けてみようとすればひらり躱した藤林優は、にこりと微笑んでそんな事を言う。
「あら、その子拾ってくれたの?お礼にあげるわ。可愛いでしょう?」
鞄に付いていた手作りらしきぬいぐるみを引きちぎり捨てようとすれば、いつの間にか背後にいた藤林優が微笑んでぬいぐるみをくれた。
「あら、誰も手伝ってくれないの?半分貸しなさい、持ってあげるわ。」
日直の仕事で集めたノートをよろよろ運ぶ美羽に気が付けば、半分以上奪って一緒に運んでくれた。
「荒井さん、おチビね。貸してごらんなさい。」
黒板の上の方に届かない美羽から黒板消しを奪い、手伝ってくれた。
「危ないわね。怪我はない?」
わざとぶつかって転ばせようとしたのに力負けした美羽が転んでしまえば、優しく微笑んだ藤林優が立たせてくれて、怪我の有無を確認してくれた。
嫌味な女だと思った。
美羽は性格が悪いのに、彼女は嫌がらせをする美羽にも優しい。
ズルいとも思った。憧れた。でもそれを、美羽は認めたくなかったのだ。
「藤林さんなんて、大っ嫌い。」
呟く美羽の視線の先には、友人の柚木倫と三橋瑠奈と共にファッション雑誌を見ながら楽しそうに話している藤林優の姿。
いつの間にか野口薫が自分の視界に入らなくなっている事に、美羽は全く、気が付いていなかった。