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森のくまさん

 自宅の玄関で靴を脱ぐと、薫は自分の部屋へ直行した。畳の上に鞄を置き、一緒に持っていた紙袋の中からもらった物を取り出して並べる。胸を潰す為の下着以外に、凛花からお古の洋服をもらった。

 それと優から、クマのぬいぐるみ。

 不安だったり寂しかったりしたら抱き締めてみるように言われて渡されたのだ。早速抱き締めてみて、薫は顔を綻ばせる。


「優の匂いだ…」


 優の香水と、優の部屋の香りがする。ずっとあの部屋にあったからだ。そしてくれたのは、薫が優の部屋に行く度にこの子を抱っこしていたから。


「薫?こちらにいるのか?」

「お母さん、ただいま!」


 襖を開けて入って来た母親を振り向くと、母の奈帆子の視線が薫の前で広げられている物に注がれているのに気が付いた。


「……それは?」

「優のお姉さんがくれたの!このクマちゃんは優の手作り!」

「……良かったな。食事は?」

「まだ!遅くなると危ないから帰りなさいって。優って心配性なんだよ。」


 幸せそうに、楽しそうに笑って薫は優の話をする。男子の制服を脱ぐ娘の姿を、奈帆子は正座して眺めた。

 あの日から、薫は兄の部屋に入り浸っていた。学校から帰って来れば兄の部屋に向かい、兄の服に着替える。だが今の薫は自分の部屋で、もらった服を着てみようかと悩んでいる。


「………薫、下着、買いに行こうか?」

「え?」

「そこにある服、サラシでは似合わない。」

「そうだね、行こうかなぁ…」

「明日はどうだ?車で送って、迎えに行く。」

「うん!」

「良かったら彼女も誘いなさい。」

「彼女?」

「優くんだ。」

「き…聞いてみます……」


 赤い顔をした薫は結局、自分の中学時代のジャージとTシャツを身に付けた。二人連れ立って部屋を出て、薫は手を洗いに洗面所へと向かう。娘の背を見送り、奈帆子は涙をぐっと堪えて歩く。


(まさる)…あの子を返してくれて、ありがとう……」


 堪え切れなかった涙が頬を伝い、奈帆子の着物の袖を濡らした。


 ***


 自分の布団で目が覚めた時、胸にぽっかり穴が空いたような喪失感を味わった。涙が溢れて来て、薫は縋るように手を伸ばす。

 触れたのは茶色いクマ。

 抱き締めて、香りを吸い込む。


(ゆう)………」


 彼と離れたくなくて、何も考えずに手を伸ばしてしまった。伸ばした手を、彼は握り返してくれた。

 嬉しくて幸せ、だけど…代わりに失ってしまう物はもう、取り戻せないのだと思い出した。

 面影がどんどん薄くなる。

 "思い出"に変わってしまう。

 もう少しだけ、両方掴んでいたいと思う自分は、なんて我儘なのだろうと薫は思う。


「もう少しだけ…兄さん…消えないで……」


 クマを布団に残して立ち上がり、薫は服を脱ぎ、男の子を着込む。鏡の前に立ってほっとした。

 まだ大丈夫。

 ここに兄はいる。

 ふらりと部屋を出て、薫が向かうのは家の外。つっかけのサンダルを履き道場へと向かう。中を覗くと神棚の前に父がいて、目が合った。


「久しぶりだな。やるか?」


 父を見上げて首を横に振る。ふと森のくまさんの歌が浮かんで、顔が綻んだ。


「着替えちゃったからまた今度、教えて下さい。」

「そ、そうか。今度な。また、教えてやる。」


 歌を口ずさみながら、薫は道場を後にする。今日は自転車ではないから時間に余裕があるのだ。もっと早く思い出せば良かったなと後悔して、薫は家への道を戻る。

 懐かしい歌を歌う娘の背を見つめる父が、片手で顔を覆って泣き崩れた事を、薫は気付かなかった。


「お母さん、おはよう。」

「おはよう。」


 台所へと顔を出した薫は母の背中にくっ付いた。手元を覗くと、味噌を溶かして味噌汁を作っている。


「ねぇお母さん。お料理、覚えたい。」

「………好きな男でも出来たか?」

「うん。…優はね、お料理が上手なの。だから驚かせたい。」

「……そうか。袖を捲って手を洗いなさい。漬物を切ってもらおう。」

「はい!」


 糠床から人参と胡瓜を出すように言われて、母からの指示を聞きながら慎重に取り出した。それを綺麗に洗ってまな板に置く。


「左手は、こう。ゆっくり切るんだ。手を切らないようにな?」

「はい」


 とっても慎重に、慎重に切って、なんとか綺麗に切れた。それだけで食事の支度は終わってしまって、薫は自分が切った糠漬けを皿に盛って運ぶ。朝食の席へ現れた父に、自分が切ったのだと自慢気に告げれば泣いて喜ばれた。

 洋装に着替えた母が運転する車で、優の家まで送ってもらう。途中雨が降って来て、梅雨は通学に困るなと考える。薫は気にしないが、優に心配を掛けるのは申し訳無く思うのだ。


「路駐は出来ないから行くが、藤林さんのご両親に宜しく伝えてくれ。」

「うん!ありがとう!」

「行ってらっしゃい。気を付けて。」


 薫が傘を差して車外へ出ると、手を振ってから奈帆子は車を発進させた。薫は少しの間それを見送り、藤林家の呼び鈴を鳴らす。出て来たのは、タオルを持った優だった。


「あれ?あんた自転車じゃないの?」

「今日はね、車。」

「そ。入りなさい。」


 優が"美少女の優"で、薫はがっかりしてしまう。昨日の男の子の優が、とても格好良くてまた見たいと思った。


「帰りは?どうするの?」

「学校まで来てくれるって。それでね、下着をね、買いに行くの。」

「良いんじゃない?垂れたり形悪くなると困るものね。可愛いの買って来なさい。」

「あ、あの…優の好きなの、選んで欲しい…」

「……………は?」


 突然男の声になられて、薫の心臓が跳ねた。薫の視線の先の優は、思考が停止してしまったのか固まっている。


「おか、お母さんが!優くんも一緒にって!」

「あ、あぁ…アタシにって事ね?女の子同士でって意味ね?奈帆子さん、やっぱり女だって思ってたのね……無理!」

「え?えぇ?!自分じゃわかんない…」

「あんたなんなの?使用済みの下着はあんなに必死に恥ずかしがった癖に買う時は選ばせるとか、ほんと…なんなの?!」

「だ、だって、履いた後のはやだよ!でも優が可愛いって思うのが良い!」

「ば、バカじゃねぇの!やだよ!行かねぇよ!好きな子の下着を親と一緒に選ぶとか拷問過ぎるだろ!」

「行ってあげればいいのにぃ、ゆ・う・こ・ちゃん?」


 玄関先でやり合っていた為、他校の高校の制服を着た静音(しずね)が優に忍び寄って、頬に人差し指を突き刺した。勢い良く振り向いた優は、真っ赤になって静音に掴み掛かる。


「出てけ陰険眼鏡!さっさと学校行け!」

「はいはい行くわよー。ゆうこちゃん行き慣れてるんだからどうって事ないでしょ?行かなかったら有る事無い事口から滑って出ちゃうかも?薫ちゃんの使用済みブラで優が」

「嘘行ってんな!出てけ!」


 バンッと玄関を優が閉めて、静まり返った。薫は肩で息をしている優を見つめ、疑問を解決しようと口を開く。


「ゆ、優…」

「陰険眼鏡の言う事は信じるな。あいつは嘘吐きだ。」

「そ、そうだよね。下着のお店に行き慣れてる訳ないよね?」

「…………そっちは本当。」

「え?そっちって?」

「良い。もう良い!行くから!行ってやるから!朝から疲れる事言うな!」

「は、はい。ごめんなさい…」


 疲れ果てた様子の優は、美少女の皮が剥がれたと行って部屋に上がって行く。薫も手招きされたので付いて行くと、部屋に入って振り向いた優に抱き締められた。


「補給。ちょっとだけじっとしてて。」

「はい…」

「……クマは役に立ったか?」

「優の匂いがしたよ。」

「そか。補給おしまい!」


 にっこり笑って薫から離れた優は、乱れたウィッグを直し、リップを塗って香水を付ける。

 それを座って見守る薫は、もう少しだけ長く抱き締めてもらいたかったなと考えて、自分の考えに焦り赤面していたのだった。

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