嵐の後
薫は足には自信がある。陸上部に誘われるぐらいだ。服も男物で走り易い。だからスカートを履いている優にはすぐに追い付けると思っていた。
「ユウ!本気走り半端ないよ!」
優の背中は遥か先。しかもどんどん距離が開いて行く。全く追い付ける気がしなかった。
梅雨のじめっとした空気の中を必死に走る。どうして優が本気の走りで逃げているのかも、自分がなんで追い掛けているのかも薫はよくわからない。
だけど逃げるものは捕まえたい。
狩猟本能のような物に突き動かされ、薫は足を動かした。
「ユウっ!待って!!」
いつも渡る横断歩道が赤で、優は道を代えて歩道橋へと駆け上る。薫も追って駆け上り、下り階段のまだ高い所で優が手摺りを越えて飛び降りたのを見て、目を丸くした。
「な、なんで逃げるのっ?!」
薫も負けじと飛び降りて、再び走り出す。
名前を呼んでも優が答えてくれなくて、背中がどんどん遠くなって、薫は段々、悲しくなって来た。涙を堪えながら走っていると苦しくなって来て、えぐえぐ喉を引きつらせながらついには止まり、蹲る。
「なんで泣いてんだよ…」
蹲ってぐずぐずに泣いていたら、彼の声が降って来た。見上げた先には、息を切らせて汗だくの美少女。
「だ、だってぇ…」
立ち上がり泣きながら抱き付くと、抱き返してくれてほっとした。背中を優の手が撫でてくれるのが心地好い。
「な、なんで逃げるのっ!足、速いし!本気だし!」
「………だってなんか…逃げなきゃヤバイ。」
「何が?」
聞き返したら、力一杯抱き締められて苦しくなる。
「"フリ"じゃ、なくなる…」
「……"フリ"?」
「ほら、お前わかんねぇお子ちゃまだから、逃げる。」
「や、やだ!逃げないでっ!」
腕を解かれそうになり、薫は必死に縋り付いた。
「なぁ薫…俺、こんな形だけど、"男"だよ?」
「知ってるよ?」
「知ってるだけで、わかってねぇよ。さっきみたいに襲われるの、嫌だろ?」
「さっき…」
教室での出来事と感触を思い出して、薫は顔が熱くなる。何をどう言ってどんな反応をすれば良いのかわからずに黙っていると、優の両手が薫を剥がそうと優しく動き、必死に縋り付いて抗った。
「や、やだ!離れたくない!」
「……なんで?」
「なんでって…だって……」
なんでだろうと考えて、薫の胸に落ちて来たのは、たった一つの事実。
「だって優が、好き。」
そうだ、自分は優が好きなんだと思った。
側にいると嬉しくて、ドキドキして、触れたくなる。抱き締めてもらえると嬉しくて、嬉し過ぎて泣きそうになる。
優が黙ってしまったから、薫は少しだけ体を離して、優の顔を覗いてみた。
「真っ赤…」
真っ赤で、目は潤んでいて、見ていると薫まで恥ずかしくなってしまう表情。
心がうずうずと疼く、不思議な感覚。
「昨夜ね、優のほっぺにチュウしたの。そしたらドキドキして、苦しくて、眠れなかった。」
「………え?」
「あれもダメな事?怒る?」
「おこ、らないけど…マジ?」
教室でされた、優のあの行為。あれが原因で優が離れてしまうのなら、自分も同じだと伝えたかった。
顔は熱くて、涙が滲んで、胸は苦しい。
頭の中は大混乱になって来て、薫は必死な気持ちで頷いた。そしたら、力が抜けたように優がしゃがみ込んでしまう。
「優?」
優の右手は、薫の手を握っている。
長い髪が顔を隠してしまっていて、彼の表情は薫には見えない。
「……俺も、薫が好きだ。」
小さな呟き。だけどちゃんと聞こえて、薫は嬉しくて、涙が溢れた。
「な、んで、泣くんだよ?」
「わかんない。嬉しい…」
「泣くなよ。困る。」
「がんばり、ます。」
屈んだままの優に見上げられて、薫は泣きながら笑う。
優は照れたように不貞腐れた表情になって、目を逸らす。
「帰るか?」
「うん!」
見た目と中身があべこべな二人。
並んで手を繋いで、ゆっくり歩いた。
午後の授業をサボってしまった二人だが、学年一位と二位は伊達じゃない。真面目な二人は優の部屋で、午後やるはずだった授業の範囲を自主的に勉強することにした。
「汗気持ち悪くない?」
「気持ち悪い。サラシだけ取っても良い?」
「お風呂入っちゃえば?また着替え貸すわよ?」
「ううん。拭くだけで、平気。」
部屋に入ると優は何故か美少女に戻ってしまったが、顔が赤いから照れ隠しなのだとわかり、薫は黙っている事にした。
優の持っていた参考書を開き、二人は黙々と勉強する。部屋の中を満たすのはシャープペンシルがノートの上を滑る音と、教科書を捲る音。
「あの騒ぎはなんだったの?」
勉強の区切りが付いた所で、薫が切り出した。二時間近く勉強した後で思い出したように出された話題に、優は小さく笑う。
「なんていうか…薫は友達に愛されてるみたいよ?」
「どういう意味?」
「みんな薫と遊びたいのに今日ずっと眠かったでしょう?あんたに遊んでもらえなくて、男子達が拗ねたのよ。」
「……でもなんか、優、責められてなかった?優も怒ってたし。」
納得がいかないと薫が追求すると、微笑んだ優が机越しに身を乗り出した。
優の口から出て来たのは、男である彼の、優しい声。
「薫がモテるからヤキモチ。それだけ。あいつらに悪気があった訳じゃないから、お前も気にすんな。」
くしゃりと髪を撫でられて、薫は嬉しくて頬が緩む。頭にあった手が移動したと思ったら鼻を摘ままれ、薫は驚いた。
「そんな顔すんなよ。可愛い。」
「なんで鼻摘まむの?」
「葛藤の八つ当たり。」
「よくわかんない。」
「お子ちゃまめ!」
「いひゃい!」
解放された鼻をおさえて、薫は優を涙目で睨む。睨まれた優は何故か真っ赤になって、顔を逸らしてしまう。
優の反応の意味がわからず首を傾げていると、彼は咳払いをして立ち上がった。
「昨日のお菓子残ってるけど、食う?」
「食べるー」
「あんまり甘い物ばっか食ってると、デブになるぞ。」
「走ったもん!優の所為で全力疾走したもん!」
「俺もそれで腹減った。煎餅食う?」
「……ジジ臭い」
「言うようになったなぁ、おい?」
「やだ!やめて!脇腹やぁっ!」
身を捩って逃げようとしたが、流石男。力は優の方が上のようで薫は逃げられない。のしかかられてくすぐられ、薫はタップしてギブアップを宣言する。
「美少年と美少女の絡み……たまらん。しかも美少女攻め。」
聞こえた声に、二人はドアの方に視線を向ける。そこにはベリーショートの女性と凛花が、細く開けた隙間から中を覗いていた。
薫はうつ伏せで、優は薫の腰に跨っている。真っ赤になった優は、素早く薫から離れた。
「誰もいない家に連れ込んで何をしてるのかしら?ノーブラの子を押し倒して?お姉ちゃん、あんたをそんな風に育てた覚えないわよ?…もっと乱れさせなさいよ!」
「バカだろ!変態!!」
「あら、優の方が変態じゃない?止めなかったら薫ちゃん、危なかったわよねぇ?」
「ばっ!しねぇよ!薫で変な事考えんのはやめろ!」
「優なら良いのかしら?」
「俺でもやめろ!!!」
真っ赤な顔で怒鳴る優と、ニヤニヤ笑って優で遊ぶ凛花。二人を避けて室内に踏み込んだ謎の女性が薫ににじり寄り、薫はなんとなく、後退る。
「リアル男装女子?うっは、萌え。これで学校通っちゃってるの?サラシ巻いて?」
「冴子!薫に近寄るな、この変態!」
凛花を振り切った優が女性の襟首を掴んで乱暴に引き離した。優の腕で守るように抱き締められて、薫の頬が赤く染まる。
「女装癖持ちの変態に変態呼ばわりされた。どうするよ、りんりん?」
「んー?でもサエサエも立派な変態よね?」
「うっは、美女から笑顔で変態認定、堪らん。悶える。」
笑顔の凛花と頬を染めて締まりのない顔で笑う女性。
優の腕の中で、一体これはどういう事態なのだろうかと首を傾げた薫なのだった。




