微妙な距離
寝不足でぼんやりしながら薫は目を覚ました。起き上がり、可愛らしい部屋を見回す。
窓には淡いグリーンのカーテン。チェストの上には手作りのぬいぐるみ。白いドレッサーの上にはスキンケアグッズと化粧品が並んでいる。この部屋の主は未だベッドの上で、彼はぐっすり眠っていた。
目を擦りながら時間を確認して、薫は少し悩む。いつも自分が起きる時間は過ぎている。だけれど優が何時に起きるのかが、わからなかった。
「ユウ、ユウ?何時に起きますか?」
小声で語り掛け、優の手を突つく。
掌をくすぐってみると、微かに唸って引っ込められた。
「おはよーございまーす。」
楽しくなった薫は、右手の人差し指と中指で優の顔の上を歩いてみる。
「顎です。おー、ほっぺがプニプニします。鼻ー。おでこ。眉毛綺麗ですねー?………地毛だ。」
ウィッグをしていない優の姿はレアだなと思い至り、薫は優の髪を撫でてみる。男の子にしては少し長いショートカット。染めていなくとも、彼の髪は茶色い。
「触り心地が良いですね?」
優は一向に目を覚まさない。段々薫も睡魔に襲われて、もう少しだけと、優の手を握ってベッドに突っ伏して目を閉じる。顔を付けたベッドから香るのは彼の匂い。ドキドキするけど安心するなと考えながら、薫はいつの間にか眠ってしまった。
***
アラームの音で意識が浮上するのは珍しいなと優は思う。
次に考えたのは、左手が温かい。柔らかな何かを握っている事に気が付き、ドキリとした。
焦って目を開けた先にあったのは、黒くて小さな頭。
「薫?なんでここで寝てんの?」
薫の頭を撫でてから、肩に触れて揺すってみる。
繋いでいる手をきゅっと握られ、優の心臓が跳ねて暴れ始めた。
「薫?」
「ん……ねむい…」
「まだ寝てて良いよ。起こしてやるから。」
「抱っこ…」
「はいはい」
くすりと笑った優は、ベッドから下りて彼女の体を抱え上げる。自分と同じくらいの身長の相手を持ち上げるのは大変だが、優は見た目の割に力があるのだ。
寝ぼけているらしき薫を自分のベッドに寝かせて、優は薫の髪を撫でる。細い薫の髪は触ってて気持ちが良いなと、優はいつも思う。
「……ユウ…?」
「んー?起きた?」
名を呼ばれたから返事をすれば、薫はへらりと笑った。
「幸せそうな寝顔だな。」
マシュマロのような頬を突つき、指先を滑らせて唇を撫でる。人差し指と中指で柔らかさを堪能してから、自分の唇に持って行って触れた。
「変態だ、俺。」
真っ赤に染まった顔を擦って立ち上がる。スイッチを入れる為、顔を洗って支度をしてしまおうと、優は部屋を後にした。
***
優が美少女へ化け終わる頃に、薫は自主的に目を覚ました。むくりと起き上がり、美少女の優と目が合うとあからさまにがっかりした顔になる。
「何よ?人の顔に文句でもあんの?」
「おはよー、美少女のユウ。」
「おはよ。あんまり眠れなかったの?」
「………………漫画が面白くて…」
「あんたに漫画渡す時は責任持って取り上げる事にするわ。」
着替えたら下りて来るよう告げて、優は部屋を出て行く。
優が去った部屋の中で、薫は可愛らしい女の子の部屋着を見下ろした。鏡の前に立ち、自分の姿を色々な角度から観察してみる。
「………可愛い?」
昨夜、優に可愛いと抱き締められた事を思い出して頬が緩んだ。
もっと言われたい。だけどそれには、手放さなくてはいけない物がある。薫はまだそれを、放せない。
女の子を脱ぎ捨てて、薫はサラシで胸をおさえて男の子になる。借りた着替えは洗って返そうと考えて、自分の荷物の隣に置く。優の部屋を出て階段を下りてダイニングに入ると、優が二人に増えていた。
「あら、薫ちゃん?おはよう。」
「え?お、おは…?」
ダイニングテーブルには新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる美女。だけど声は完璧に女の人で、優の方が少し低い。
「似てるでしょ?長女の凛花。アタシの女装のモデル!」
台所から出て来たのは制服姿の優で、椅子に座っている美女を後ろから抱き締めた。二人並ぶと本当にそっくり、瓜二つだ。
「おはようございます!野口薫です!」
「元気の良い子ね?薫ちゃんは優の逆で美少年?……良いわね。」
「姉さん、なんの想像してんの?」
「当然二人の絡みよ。」
「マジで腐ってんな。」
「あら、そっちとは限らないわ。女の子同士もときめくわね?」
「朝から変な事言うな。」
薫には二人の会話の内容は理解出来なかったが、優はどうやら、姉達の前では男の子に戻ってしまうようだ。昨夜の夕飯の時には女の子だったが、父親がずっと難しい顔をしていた為、家ではどうやら普通の男の子でいるらしい事がわかった。
「姉さん以外はみんなもう出掛けちゃったの。だから静かに食べられるわね!」
目の前に並べられたのは洋食で、野口家と違って朝ごはんも女の子らしいのだなと薫は思う。
「ね、薫ちゃんって胸潰しにサラシ使ってるんですって?体育の後の着替え、大変じゃない?」
「確かに大変ですけど、他に方法が思い付かなくて…」
「あら、ナベシャツとかバストホルダーの存在を知らないのかしら?」
凛花の言うそれがどういった物なのかわからず首を傾げると、喜々として教えてくれる。それによると、どうやら胸を潰す為のグッズが売られているという事がわかった。
「お金は掛かるけどサラシより楽よ。試してみたら?」
「それは何処で手に入るのでしょうか?」
「友達はネットでとか言ってたわね。聞いておいてあげるわ。」
「そ、そんな…悪いです…」
「気にしないで!優の女装も完璧で楽しいけど、美少年も良いわね!」
「姉さんの趣味だから、薫は気にしないで良いのよ。」
楽しそうな凛花の様子に薫が戸惑っていると、優は気にするなと笑った。それならお言葉に甘えてしまおうと、薫は頭を下げる。
「薫ちゃん、かぁわいい!お姉さんに任せておきなさい!」
凛花は優と似ているからかほっとするなと思って薫は微笑み、頷いたのだった。
朝食の片付けは凛花がやってくれると言うので、二人は歯を磨き、藤林家を後にする。借りた服は洗って返すと主張した薫に優は、男が使用済みブラを鞄に入れて登校するのかと言って却下した。
薫は、優に勝てる日は来るのだろうかと少し落ち込んだ。
いつも通り手を繋いで登校して、下駄箱で靴を履き替えてから手を繋ぎ直した所で、一人の女生徒に睨み付けられている事に薫は気が付いた。上靴の色から同学年だとはわかったが、薫はその女生徒に見覚えがない。
「優」
女生徒が声を掛けたのは優で、薫が優を見ると、彼は困ったような面倒そうな微妙な表情をしていた。
「あんたがその男と付き合ってるって聞いたんだけど、マジで言ってんの?」
「結花、顔こわーい。」
「馬鹿にしてんの?ねぇあなた、騙されてない?」
「え?あの…」
彼女は優の性別を知っているのだと薫は思った。どう返せば良いか薫が戸惑っていると、繋いでいた優の手が、するりと離れる。
「薫、先に行ってて?…結花、お話しましょ!」
薫から離れて、優は彼女の腕を掴む。
知らない女生徒と去って行く優の背中を、薫は呆然と見送った。