怯えと決意
窓の外の雨を見て嫌な予感がした優は、自分の男物の制服を出しておいた。メールに返事が無い事から考えると、どうやら彼女は家を出てしまった後のようだ。
朝食の後で美少女に化ける支度をしていると玄関の呼び鈴が鳴り、優は自室を出て玄関に向かう。一足先に母親が開けた玄関先に立っていたのは、レインコートでずぶ濡れの薫。
「この雨でレインコートって、あんまり意味ないのね?」
「自転車だからかな?小雨なら平気なんだけどな。」
「雨の中自転車なんて、危ないからやめてくれない?」
着ていたレインコートは脱がせて玄関に丸めて置かせ、優は持っていたタオルで薫の頭を包む。隙間から雨が入ってしまったようで、制服のシャツは濡れてサラシが透け、ズボンにいたってはぐしょぐしょだ。
「上だけ守っても仕方ないでしょう?」
「上が透けなければ良いかなって。濡れても乾くし。」
「おバカ。いらっしゃい。」
素直について来た薫に、優は自分の男物の制服を手渡す。
「持ってるんだ?」
心底驚いたという顔をする薫を見て、優は苦笑を浮かべて頷いた。
「もっと学校側から反発があると思ってたから用意しておいたの。パンツはいる?」
「え?下着は男物なんじゃ…」
「アタシのじゃないわよ。姉の新品。濡れてるなら全部替えちゃいなさい。下で待ってるから。」
「う、うん。ありがとう…」
自分の支度は終えている為、優はリビングでテレビを見ながら待つ事にした。いつもより出るのは遅くなるが、それでも間に合う為に問題ない。
姉達は雨の影響による電車遅延が心配だと、いつもりより早めに出掛けていて、母親も優に戸締りを頼んで仕事に向かった。父親は忙しいらしく、昨日から泊まりで仕事で今晩帰って来る。
こんな雨の日は、徒歩で通える学校を選んで正解だったなと優は思う。
「サイズは平気?」
足音に振り向き聞くと、薫が何故か赤い顔でもじもじしている。
「何?あんたデブだったの?」
「ち、違うよ!少し大きいもん!」
「なら何をもじもじしてんのよ?」
「だ、だって、人の家で着替えるのとか…下着、まで…」
「あぁ。洗濯するから寄越しなさい。」
「いい!持って帰る!」
「………女物のパンツを、男のあんたが学校の鞄に入れて登校するの?」
赤い顔で、薫が折れた。
優に触られるのが嫌だと失礼な事を主張した為、自分で洗濯機に放り込ませ、洗濯と乾燥をセットしてから二人は学校へ向かう。
花柄の傘を差して歩く優の足下は、ピンクに白の水玉の長靴。
「可愛いでしょう?」
薫が長靴を見ているのに気付き、優は見せびらかしてみる。
「可愛い。傘も。」
「あんたのは真っ黒おじさん傘ね?」
「大きくて便利だよ?」
「あたしは機能性より見た目を取るわ。」
「女の子らしいね。」
「らしさなら、本物に負けない自信があるわね。」
「言い返せない…」
ふふっと二人は笑い合い、校門をくぐると薫はスイッチが入る。男の子になった薫と連れ立って、優は教室に向かった。
教室では、二人はそれぞれ自分の友人グループと過ごす。カップルが教室でベタベタとしているのはからかいの対象になるし、無意味に目立つ必要は無いと優が主張したからだ。それに薫は、優の側にいる時はスイッチがオフになり易く、バレる危険が高くなる。校内では側にいない方が安全だ。
「ね、デート、どうだったの?」
友人の倫がニヤニヤ笑って切り出すと、周りの女の子達も集まって来る。どうやらみんな、爽やかイケメン野口くんのデートプランが気になるようだ。
「普通に映画観て、カフェでお茶したわ。」
カフェの店名を告げると、有名な場所だった為に友人達は羨ましがる。内装が可愛い過ぎて恥ずかしいと、男の子は一緒に入るのを嫌がる店なのだ。
「普通に入ってくれたの?」
「うん!優しいわよね。」
意識して照れてみれば、羨ましいの大合唱が始まる。優は可愛い物が好きだし、ファッションや可愛い雑貨の話を女の子達とするのは好きだ。だけどこれは苦手だなと内心うんざりする。
担任教師が教室に現れ、女子の追求が終わって優はほっとした。
薫は大丈夫だろうかと振り向いてちらりと見てみれば目が合い、嬉しそうに微笑んだ彼女に小さく手を振られ、苦笑して振り返す。まるで犬だなと考えて、自分の想像に優はこっそり噴き出して笑った。
だけれど、そんな二人の様子を見ていたクラス担任が目を見開き驚いていたのを、二人は気が付かなかった。
帰りのホームルーム終わり、優と薫は担任教師に呼ばれた。成績は優秀な二人、授業態度も問題はない。クラスメイト達は面倒な委員の仕事でも押し付けられるんじゃないかと、災難だなと笑っていたが、優と薫には心当たりがある。
「ビビるな。大丈夫だから。」
担任の後ろを並んで歩き、怯えている様子の薫の耳元に唇を寄せ、優が囁いた。手を握って微笑めば、薫は弱々しく笑って頷く。
担任の先導で連れて来られたのは生徒指導室。座るように促され、優と薫は並んでパイプ椅子に腰掛けた。
「いやぁ…急にすまんな。時間は大丈夫か?」
和やかに話を進めようとしているらしい担任の意志を読み取り、優は微笑んで頷く。
「アタシ達が付き合ってる事ですか?ちゃんと勉強と両立しますよ?」
先制で右ストレートをかましてみれば、担任の笑顔が引きつった。さてどう出て来るかと優が見守る先で、担任は深呼吸をしている。
「付き合ってる、のか?」
動揺するのは当然だよなと、優は担任である林に同情した。薫は男装する事によるこういう事態を予測していなかったのか、優の隣で怯えている。やはり勉強は出来るがおバカだなと苦笑を浮かべ、優は俯いている薫の髪をくしゃりと撫でた。
「お互いの事、知った上で付き合ってます。その事ですよね?」
緊張している担任、怯えている薫。無駄に引き伸ばしてもストレスを抱えるだけだと判断して、優は男の声で告げた。
美少女の口から出て来た男の声に、担任は心底驚いている。優の性別を知っている相手でこれなのだから、余程自分の女装は完璧らしいと、こんな状況だが優は自分を褒め称えたくなった。
「そ、そうか…なら、良いんだ。だけど、あれだ。色々困る事も、あるんじゃないかと、思うんだ。そういう人達もいると、先生も知っている。困った事があるなら言いなさい。力になるから。」
「……先生って、真面目な良い人なんですね。」
本心から驚いた。もっと頭ごなしに性別に合った制服を着なさいと言われる物だと優は思っていたのだ。もしかしたら、優と薫二人だったからという理由の他に、クラス担任がこの人だったから、二人はそっとしておいてもらえたのかもしれないなと気が付いた。
「先生もな、本当の事言うと、今まで知らない世界だったから…お前達の担任になってから勉強してるんだ。でも良かった。二人が、"独りきり"じゃなくて……」
「余計な心労をお掛けしてしまったようで、すみませんでした。俺達、身体と心は一致してるんで大丈夫ですよ。ただ薫は、事情があってこの格好みたいなので、もう少し見守って頂けると有難いです。」
「……藤林の方は、どうなんだ?」
「俺のは趣味です。可愛いでしょう?」
にっこり微笑めば、林は脱力して机に突っ伏した。かなり緊張していたようだ。
「なんだよ!色々考えて、心配したんだからな!先生の数ヶ月の胃痛は無駄か!」
「無駄じゃないですよ。俺は、林先生が担任で良かったなって思いました。」
林は安心したのか涙目だが、優の隣にいる薫は何故か、青い顔で震えている。林もそれに気が付き、薫の顔を覗き込んで心配する。
「野口、どうした?こんな所に呼び出して、怖い思いをさせたか?ごめんな?先生、怒ったりしないぞ?」
「薫?どうしたの?」
男の声をやめた優に、薫が真っ青で泣きそうな顔を向けて手を伸ばした。優はその手を、そっと握る。
「ユウ…怖い……」
「先生が?」
微かに首が、横に振られた。林は自分では余計に怯えさせると思ったのか、黙って少し、二人から距離を取る。
「兄さんが…消える…消え掛けてる……」
「アタシの、所為?」
「わか、んない…どうしよ…怖い、怖い…」
「ね、アタシあんたの事情よくわかんないけど、怖いなら側にいてあげるわ。迷惑?」
薫は答えない。ただ震えて、何かに怯えている。優は薫の髪を撫でながら少し考え、膝裏と背に手を差し込んで薫を抱えて立ち上がってみる。よいしょという掛け声付きで。
「あんたでかいから重いわね?このデブ!」
「で、デブじゃないもん!た、多分…」
「あんたは勉強出来るけどおバカさんなんだから、ごちゃごちゃ考えるのはやめなさい。放り投げるわよ?」
「ユウ、力持ち…」
「まぁね。あんたぐらいアタシが抱えられるから、縋り付いてなさい。」
「は、はい…」
すっかり真っ赤になって怯えが消えた薫を立たせ、優は林に向き直る。
「この子の事は任せてもらって良いですか?何かが怖いみたいなので。」
「え?あ、あぁ……でも困ったらいつでも相談してくれ。力になれるよう、頑張るから。」
「ありがとうございます。ご心配お掛けしてすみません。…ほら薫も!」
「せ、先生…ごめんなさい……」
すっかり女の子の顔をしている薫に戸惑ってはいるが、林は頷き、微笑んだ。
「他の先生にも、無理矢理とか酷い事はしないようにお願いしておくから、安心しなさい。」
林に頭を下げ、優と薫は進路指導室を後にする。
薫のスイッチはオフのまま。放課後で良かったなと優は考え、薫の手を引いて歩く。
学校側は、二人の性別と見た目の不一致を知っている。だが生徒達は知らない。もし薫が女の子に戻りたいと思った時にどうなるのか、想像してみて優はそっと、溜息を吐き出した。
優は耐えられる。薫はきっと、耐えられない。それなら自分は彼女を守ろうと、優は心の中で、決意していた。