中編
自尊心を制御できない若者がここにもいた。虚栄と誇りの区別がつかず、狂騒するプライドを宥めるために、ひたすら怒りを吐き出し続けた。
「網田。今度こそ伊勢上の女をここに連れて来るんだ。いいな、今度こそ間違えるなよ。分かってるだろうな」
「わ、分かってるよ」
「何か変だと思ったんだ、この間の女は。何を言っても何を聞いても、ピント外れな反応ばかりしやがる。初めは、びびってるだけかと思ったが、案の定、別人じゃねえか。おかげで余計な手を汚した。だが計画通り、伊勢上に濡れ衣を着せるんだ。本当は自分の女が殺されて愕然とする顔を見てからにしたかったが仕方がない。そっちの方は大丈夫だろうな」
「うん、警察には一報しておいた」
「よし。それと校章は見つけて来たのか」
網田は脂汗を浮かべて口ごもった。不明瞭な返答の中で、まだ、というひとことだけが聞き取れた。
無理もない、と本城は思った。現場はとっくに洗われて、いまも立入禁止だ。しかしそれを承知で本城は網田の頬を張った。
「分かってるのか。あの女の制服のボタンには、お前の指紋がべたべた、くっついているんだ。そのためにお前に女の衣服を直させたんだからな。万が一、警察の手が伸びたときは、お前が一人で責任を取るんだ」
「そんな、ひどいよ、本城くん」
「お前は、どのみち、もう逃げることはできないんだ。あの女をここまで連れてきたのはお前なんだ。この件に関わったは紛れもない事実なんだからな」
「そんな…、ひどいよ、そんな…」
贅肉を小刻みに震わせて、むせ返る網田敬一を一瞥したあと、本城義彦はぐるりと部室を見回した。歴代空手部員たちの汗を吸い続けて乾く間もない床や、木棚や椅子など備品の数々が、十月の夜だというのに染みついた汗を気化させて、蒸したいきれを充満させていた。
この中にいると、いやでもあのときのことを思い出す。
記憶の染みが気化すると、怒りが立ちこめ、憎しみを蒸し返した。
本城は小学校低学年のとき、近所の道場で空手を習い始めた。父親が若い頃、いっとき道着を纏ったことから、同じ道を子供にも勧めたというだけの動機だったが、これが思いの外、性に合った。もともと人の感情を思いやることのない少年だった。気持ちの優しい同年代の子供たちを容赦なく叩き、見る見るうちに帯を上げた。素質より気質が上達を早め、小学生の部では敵なしになった。
ところが中学に上がると大人と合同の稽古になり、歴然たる体格差・体力差の壁に突き当たった。大人の黒帯にはまったく歯が立たず、全力の蹴りも突きも簡単にかわされ、抗う術なく打ち込まれた。
思い通りにならないと、すぐいやになる性分が頭をもたげ、稽古から足が遠のき始めた頃、師範代からそこを諭され、その際一冊の本を借りた。すでに世にない武道家の伝記で、壮烈を極めた修行時代から孤高の晩年までを、著者の大胆な包丁さばきと細心のさじ加減とで、読み応えたっぷりに仕上げられた絶版本だった。
武道家の言説や往行とは、どこか胡散なことが少なくないが、興味のない人なら鼻で嗤って放り出すこの手の書物は、波長が合ってしまうと読み手の魂を突き動かさずにはいないものだ。
少年本城は、その内容を純真に鵜呑みにし、若年特有の一種危険な感化を受けた。この武道家を師と仰ぎ、関連の書籍を読みあさった。武道精神や人格の陶冶といった観念に憑かれ、ひたすら『正しいこと』に魅せられる変貌ぶりを見せたは良いが、その発露はバランスを欠いていた。
事を丸くおさめるために本音と違った言辞を弄したり、いつも陰口をきいている相手に面と向かうと調子を合わせたり、といった些細な不実や偽りに神経を尖らせるようになり、その場に居合わせると即座にその『不心得者』を難詰し、制裁を加えた。それがつねに他者の細瑾を標的とするところに彼の性格が表れていた。生半可な理念などでは変えようもない、性格というものが。
いかに崇高な理念であっても、それを生かす舞台は俗世しかない。己の理想と性格が、俗習と無理のない一致を見てこそ人格は完成される。それには時を待たねばならない。
少年本城は理念を頭に入れただけで高潔な人格を得たつもりになっていた。だが教本通りの材料を鍋に入れても、入れただけでは料理にならない。できあがったのは、煮ても焼いても食えない少年だった。
一方、『忍耐』という美学を得たことで空手の技量は磨かれていった。折りから成長期にあったため、技術は身体の成長と競うように向上し、中学の三年間で帯を二段、身長を20センチ伸ばした。中学生の県大会で破竹の一本勝ちを続け、新聞にも取り上げられた。いまや大学生も一目置く、有力な道場生の一人になっていた。
『師』の教えに従い勉強も良くし、地元で一番の進学校である池浪高校に入学した。そして強豪の声価を引っ提げて空手部に入部した。彼は得意の絶頂だった。同じ空手部で伊勢上聡に出会うまでは。ほどなく彼の誇りは齟齬をきたし、やがて軋みを上げていった。
本城と聡とは流派も違い、互いに面識もなかったが、少年時代から空手を習い、それぞれの道場で同年代をリードする少壮武道家であるという点で経歴を一にしていた。入部の時点ですでに段位を持っているのは、この二人だけだった。
顧問の教師は、「今年の新入部員は豊作だ。この二人が互いに研鑽し、我が部を盛り立ててくれると良い」と期待したが、どのような教育の場でも、事はそう単純に教師の思惑通りには運ばないものである。
本城は自分が聡と同等に扱われることに痛く誇りを傷つけられていた。顧問も先輩も同輩も、彼ら二人を一年生の両エースと見なし、双璧と謳い、二枚看板とはやした。その一つ一つが本城の不快を募らせた。周囲の『誤解』の理由を本城は、こう分析した。
池浪高校の空手部は、本城のいた実戦偏重の道場よりは、聡の属していた、型に重きを置く流派に近い。組み手は寸止めで、威力よりも打ち込むタイミングや姿勢の正確さで得点を競う。
伊勢上は確かに巧い。だが型なんか体操と同じで、いくらやっても強くはならない。組手になれば、こいつの蹴りや突きなんか、当たったところで効きはしない。寸止めだから見た目は相打ちでも、実戦ならば、俺の打撃が奴の身を打ち砕いている。この連中には、それが分からないのだ。
そう考えて本城は我慢した。不快を拭えはしなかったが、『耐える』という概念は彼には魅力的だった。『耐えている』自分に酔った。
一方、聡は気負わず衒わず、周囲の特別視を柔らかにかわし、クラブ活動を楽しんだ。他の一年生と変わらず稽古に励み、いわんや本城を意識するような真似は一切しなかった。いじめられっ子だったという過去の記憶が無意識に過信を戒め、低い目で状況を見つめさせていた。本城の技量は十分に認めていたが、それは前歴のなさしむところであり、自分はもとより本城も何も特別な能力を持っているわけではない。一日の長があるだけで、同じ高校一年同志、本質的な差などあるはずがない。
それは謙遜と言うより卑下に近かった。だから決して得意になれず、また本城にも殊更な敬意を払ったりはせず、他の新入部員たちとまったく同等に接していた。
そのこともまた本城の気に障った。
なぜこいつは、ほかのへぼたちと一緒におとなしく振る舞っているのだ。なぜ俺の存在をもっと気にしようとしないのだ、と。そして『耐えた』。
本城は聡の挑発を求めていた。そうすれば力の差をはっきりさせることができる。だがその機会の訪れまでは、まだ当分に待つことになった。
やがて彼らも二年になって、後輩の部員を迎えることになった。本城は積極的に新入部員の指導にあたり、その『人格』を全面に押し出したが、後輩たちは聡を慕った。
聡の言動には生来の臆病から、彼自身も気づかぬうちに謙虚な優しさが宿っていた。惚れ惚れするような力量と、それに似合わぬ恭倹な人柄は後輩たちの尊敬の的となった。
伊勢上先輩に教えてもらった。伊勢上先輩から褒めてもらった。それを彼らは秘かに誇った。
聡は決して人格者ではない。格別な信条を抱いて生きているわけではなく、家庭で徳育を受けたわけでもない。
それでも空手というアイデンティティの背骨がまっすぐ伸びていくにつれ、健全な価値観が肉づけされ、意志が力強い血流となって全身を巡るようになった。培った能力と生来の気弱さとが両極から歩み寄って中庸を得た人となりだった。聡は自然と衆望を得ていった。誰もが次期主将は聡だと思った。ひとり本城を除いては。
根性、努力、鍛錬、忍耐、気合、信念、真理、求道、云々といったお題目を絮説する本城は煙たがられた。その個々はきらびやかな音色を持った概念に違いないが、本城という指揮者のもとでは時代錯誤の精神論にしか響かなかった。
本城は、周囲が自分の若さに似合わぬ人格を讃えないのが不満だった。ストレスからか、組み手になると本城は気負った。喧嘩さながらにムキになって、先輩たちから注意を受けた。「組み手はあくまで目慣らしだ。怪我をしない、させないことが肝心だ」。そう諫められた。
怪我をさせない格闘技だと!相手の身を思いやる実戦がどこにある。
そう言い返したかったが、ぐっとこらえた。長幼の序も揺るがせにできない『師』の教えだった。目上の人に逆らってはいけない。本城は3年生がいなくなるまで待つことにした。そうして、ますますストレスをためた。
そんなとき、ある情報を耳にして、聡に対する敵意はひとつのピークを迎えた。
聡に彼女がいる!
本城は仰天した。
男は己を鍛え上げ心身を極めるまでは、横道に逸れたりしてはいけない。それが彼の持論だった。いわんや女と交際するなど、もってのほかだ。心身錬磨するよりも女を優先する男など、例外なく堕落した軟弱者に違いなかった。
寝ても醒めても頭を離れないほど自分にその存在を意識させる男が、鍛錬と女とを両天秤にかけていた。そんなことは到底許すことなどできはしない。
本城は怒りに震えた。そして、その怒りの正体が嫉妬であることに気づき、驚愕した。
自分が嫉妬している。
この衝撃は無類だった。
そんなばかな。鍛錬に余念のない、この俺があろうことか嫉妬だなんて。そんなことは断じて認められない。
しかし心の動きは正直だった。ひとたび蜂起した異性への欲求は、抑えようとすればするほど強くそれに反発し、本城を苦悩に陥れた。
本城は嫉妬する自分に狂おしいほど腹を立てた。そして腹立ちを聡への憎しみにすり替えることで懊悩を決着させた。
この転換は見事だった。自己欺瞞でも構いやしない。もともと伊勢上に与えられた怒りなのだ。そっくりそのまま返してやる。
そして誓った。この屈辱を雪ぐには伊勢上に勝つ以外にない。それしか傷ついた誇りを癒す方法はない。
敵意はここに完成した。
復讐の機会はやがて訪れた。秋の高校全国大会がそれだ。
池波高校では、例年この大会を最後に引退する3年生から二人を組み手の代表として県予選に送っていたが、この年は2年生に聡と本城という二人の強豪がいたことから、2年生に出場枠をひとつ譲ることになった。自ずとその枠を二人で競うことになる。
聡と雌雄を決する、待ちに待った機会の訪れに本城は狂喜した。どちらの実力が上なのか、いまこそみんなに思い知らせてやる。
ところが聡は初め、型の部への出場を希望した。これには本城も肩すかしを食った。逃げるつもりか。そう罵る寸前だったが踏みとどまって、顧問の教師を説得にかかった。
自分は大会に出ても勝つ自信はあるが、学校の代表である以上、勝ち進める可能性の高い選手が出るべきだ。伊勢上がもし自分より上なら、彼の出場を自分も望む。一度、彼と組み手の腕を競わせてほしい。そう訴えた。
これは本城としては異例の行動だった。怒り狂って闇討ちでもしかねないところを、目的を果たすために効果の高い方法を選び、冷静に根回しをして事を運んだのだ。われ知らずのうちに取った行動だが、やみくもに主義に縛られず、状況に応じて柔軟に対処することが良い結果を生むことに、このとき気づいていれば、彼のその後も変わっていたかも知れない。
ともあれ、本音は聡を選びたい顧問の教師は、この申し出を諒とした。
この決定は本城一人のみならず、部員全員を興奮させた。聡と本城。この両雄、はたしてどちらが強いのか。
表だって話題にすることは憚られていたが、これは長らく部員たちに共通の関心事だった。待ち望まれた身近な黄金カードの実現に彼らは色めき立った。
顧問から説明を受けた聡は、いささか思いがけない心持ちがしたが、すぐに気持ちを切り替え、申し入れを承諾した。
一方、本城は勝負を挑んだ当人であるから、端から戦意は十分で、武者震いが出るほどに気合いが漲っていた。本城にとって全国大会など、もはやどうでもよい問題だった。彼の目的はあくまでこの一戦。予選の予選、前哨戦がすべてであった。本城は彼の本来の志が聡の出現によって大きく歪められていたことをあらためて知った。
客寄せの興行ではないから、対決は即日行われた。
普段の稽古では体験できない緊張が張りつめる中、聡と本城は道場の中央へ歩み出た。互いに一礼し、構えを取り、始めの合図を聞いた瞬間、本城の体は闘気に包まれた。床板を踏み抜かんばかりの勢いで突進し、一気に間合いを詰めると、牽制も瀬踏みもせず、全力の突きや蹴りを休みなく放った。聡はそれを膝で受け、肘で捌いたが、寸止めとは言え、その一撃一撃に込められた気迫に圧倒された。
それは殺気に近かった。本城の拳や脛が聡の体に当たる寸前で止められるとき、急停車の摩擦でレールに火花が散るように、殺気が炸裂するのが感じられた。
見守る部員たちも息を飲んだ。初めて見る本城の凄まじい組み手に、みな声を失い、身を竦ませた。道場には本城の咆哮と床を踏み鳴らす音だけが響いた。
聡は困惑した。本城が自分を敵視しているのには気づいていた。理由もおおよその見当はつく。しかし敵意の度合いがこれほどまでとは思わなかった。常に人から一歩引き、衝突を避けて暮らしてきた自分が、こんなにも人から憎まれていた。その事実をいま文字通り肌で感じ、聡は少なからず動揺した。
組み手の概念の違いにも、いまさらながら驚いた。本城の打撃は速く重く、防御の上から骨を断つ破壊力を感じさせた。もし寸止めでなかったら、手数の分だけ自分は負けていただろう。本城の方が自分より強い。それは自明のことだった。
強ければよい。勝てばよい。それが本城の組み手だ。同じ男として、その考えは理解できる。だがそれは聡とはまったく異質の空手観だった。
聡にとって空手とはルールにもとづいた競技であって、組み手もあくまでその延長に過ぎない。したがってルールの中での勝ちを目指せばそれでよく、実戦へのこだわりはあまりなかった。
この、武道家としてはある意味で甘いスポーツマンシップがこの場合奏効し、本城の猛攻の中、聡に冷静さを取り戻させた。
本城の攻撃は苛烈ではあったが荒削りで、荒くはあっても一定のリズムに乗っていた。いったん攻撃の呼吸を読むと、それはフォルテシモ一辺倒のままアレグロで歌いきる、芸のない演奏のように思えてきた。聡は優れた伴奏者のように、先走るソリストに巧みに合わせた。
本城は脅威のスタミナで打ち続けていた。これが実戦なら、とうに自分が勝っているという、もっともな確信が血走った目に満足の色を落としていた。その余裕は欲に変じた。逃げ切られたに等しい優勢勝ちでは気に染まず、決定打を打ち込んで一本の声を聞きたいと欲した。
渾身の一打を放つため、本城がほんの一呼吸おいた瞬間だった。蹴り足を上げる刹那、何かが懐に滑り込み、みぞおちの手前で止まったことを、本城はその瞬間見落としていた。それが聡の右拳であると気づいたとき、本城は一本の声を聞いた。それは教則本の写真に載せたくなるような見事な正拳突きだった。文句なしの一本が聡に宣せられた。
道場は本城のかけ声と足音を失って、凍ったように静まり返った。その静けさに、ぱらぱらと起きた拍手がひびを入れるや、続く喝采が一気にそれを押し割った。皆、興奮のやり場を求めるように激しく手の平を打ち合わせていた。それまで激しく鼓動しながら、戦慄のため堰き止められていた血液が、奔流となって体を巡り始めたかのようだった。
それには鮮やかな逆転を決めた聡への賞賛ばかりでなく、凄烈極まる本城の組み手への掛け値ない畏敬が込められていた。が、本城はそれを遠い嘲笑のように聞いた。
本城の自失は大抵でなかった。火照りきった体から滴る汗が冷水のように体を震えさせた。衆目のただ中にありながら、その場から消えてなくなったかのような、実体の喪失感を味わっていた。主体を失い、第三者でさえない、いわば第四者にでもなって虚ろに状況を目に映している気分だった。事実の受け入れを拒む心だけが唯一『自分』と感じられた。
油断を悔いるとか、実戦なら自分が勝っていたとか、そんな分析も言い訳も生まれてこない。敗北という認識は予期せぬ亡命機のように、本城という管制塔から着陸指令を得られないまま上空を旋回し続けていた。管制塔は不測の事態に徒な混乱を続け、その機能を停止させた。
だが時間の経過は残酷だった。機械的に礼を交し、締めの稽古に参加して、部室に更衣に向かったころには、一種のパニックに陥っていた本城の頭も次第に冷静さを取り戻し、病理検査で染色された標本のように、事実をくっきりと抽出していた。『敗北』というラベルを貼って。
完勝でなければ満足できない遊びのない心は、ある意味で潔く真正面から敗北の認識を受け止めた。そして全霊を傾けて失意に浸った。
本城は東西を失う思いだった。『生涯無敗』の偉大なる『師』の伝記には、負けたときの心の持ち様など記されていなかった。
本城の憔悴ぶりを見て、聡は心を痛めた。
一方、顧問の教師は教育者として、その場を収める責任に駆られ、短時間で頭を巡らせた結果、陳腐な励ましを口にした。本城よ、人は負けて強くなるものだ。それを謙虚に試練と捉えることが大切だ、と。
そこへ上級生の一人がいささか皮肉混じりにことばを継いだ。そうだよ、本城は人格者なんだから。
自分のセリフに自信のなかった顧問の教師は、この恰好の合いの手に感謝した。
この俺に人格論を説くとは業腹な。
怒りが沸いて、すぐ消えた。消尽した本城には怒りを焚きつけるエネルギーさえ残っていなかった。頭の中では唾棄しながらも、気持ちの弱っていた本城は、この慰めに縋りそうになった。聡の次のことばがなかったら。
「いや、俺はそうは思わない。そんな考え方は本城には似合いませんよ」
ひたすら強さを追い求める本城に対し、人格を持ち出す見え透いた慰めは欺瞞に過ぎないと聡は思った。そんな逃げを打たせるのは本城の信念を愚弄することだと不快に感じた。まして皮肉と分かったからこそ、聡としては珍しく他者の意見にその場で反駁した。それが力を尽くして戦った相手に対する礼だと信じた。だから言った。人格なんかを気にするのは本城らしくない、と。ここに聡の誤解があった。
人格者なんだから。この皮肉の方がこのときの本城には心地よかったのだ。それを見抜けなかったばかりか、人格の陶冶こそ彼の信条であり、すでにそれを満足のいく域まで達成しているという自負までをばっさりと切り捨ててしまったのだ。
聡のひとことは本城にとって、不覚をとった正拳突きに数段勝る痛打となった。すべての誇りを微塵にし、存在を全否定するに等しいとどめの一撃だった。
以来、本城は『師』を捨てた。張りぼての人格は崩れるのも早かった。お気に入りの服を纏うようなファッション感覚の信念、それも替えの利かない一張羅を脱ぎ捨てた本城は、生来の暴慢な気質を露わにした。世の中は気に入らないことばかりになった。見るもの聞くもの、すべてが神経を逆撫でた。
受け売りの理念は経験で磨き、何度も噛み砕いて、ときには試練を経て、ようやく自分のものとなる。人間本城はこの試練にも負けた。世の中は不快と技癢と無理解の海だ。それは知恵と寛容と忍耐の櫂で渡らなくてはならない。
だが組み手で負けても、人格を否定されても、かつて抱いたプライドだけは宿痾のように本城に染みついて離れなかった。だから自恃するだけの尊重を周囲に示されないと、すぐに頭に血が上った。
同級生の談笑に自分の名を聞いた気がしただけで、鼻血が出るほど掌底を浴びせた。町で見知らぬにやけ顔と、すれ違いざまに目が合っただけで、腹にしたたか膝蹴りを入れた。
プライドは戦って守れ。テレビドラマもそう教えた。誇りとは根拠ある自信に涵養されるはずのものなのに、本城のプライドは実体を失ってなお、地縛霊のように他者を呪い続けた。
こいつを許すな、こいつを黙らせろ。
霊は囁いた。それを聞くたび、本城は取り憑かれたように拳を振るった。腕に覚えがあるだけに、本城はきわめて危険な『キレる若者』になっていた。
だが本城は自分のプライドがもはや張り子の虎に過ぎないことを十分に知っていた。そして、それを認めてしまいそうになる自分の弱気に苛立った。それを認めたら、あとは自分に何が残る?そう考えると言いようのない不安を覚えた。その不安を掻き消すために、すぐに力にものを言わせた。
しかし、いくら暴挙を繰り返したところで、この不安がなくなりはしないことにも本城はとうに気づいていた。伊勢上がそばにいる限り、自分に魂の平和は訪れない。骨抜きにされたプライドを甦らせることはできやしない。それは先刻承知だが、しかし…、
一度敗れたという事実は、本城の胸に拭いがたい苦手意識を植えつけていた。この意識が頭をもたげると、どんな怒りも悔しさも、いまいましいほど萎縮して尻込みしてしまう。
こんなとき、霊は狙い澄ましたように語りかける。私をこんな姿に変えたのは、あの男だ。お前はあの男を許しておくつもりなのか。恨みを晴らせ。お前があの男をこのままにしておくのなら、私は決して鎮まることはない。生涯、お前に取り憑いて離れはしない。
恨みを晴らせ、恨みを晴らせ、恨みを晴らせ。
呪いが耳にこだまし、本城の頭を締めつけた。どこかに逃げ場を求めたが、自分の内より聞こえる声から逃れる場所などあるはずもない。追い詰められた精神は短絡し、恨みが本城の操縦桿を握った。
本城は再び聡に照準を定めた。意識が示した一瞬の躊躇を恨みは容易に飲み込んだ。
伊勢上だけは許さない。
本城はわれ知らずのうちに呪詛を口にしていた。内なる声が歯の隙間からもれ出てきたようだった。
折りから見かけた同年代のカップルに、聡とまだ見ぬ聡の彼女の姿が重なると、本城は体が痺れるほどの怒りに駆られた。
男が日常のひとこまを話して聞かせているらしい、大袈裟で目障りな身振りと、抑揚の大きな耳障りな口調とは、およそ聡のイメージとかけ離れていたが、そんなことは問題ではなかった。いったん癇に障ったものは、すべてが敵であり、すなわち聡なのだ。怒りが躍動した。久しぶりの生きた怒りだった。
本城はこの二人を何時間もつけ回して、人目につかない場所に出ると、心ゆくまで殴りつけた。全身に漲る怒りは快感でさえあった。聡への劣等感という胸のつかえを外した、余すところのない怒りの開放に本城は酔った。本城という足周りの優れた車台に大排気量のエンジンが据えられたのだ。
網田敬一とは、このころ出会った。正確には、もっと前から互いの存在を知ってはいたが、網田は本城を剣呑と避け、本城は網田など眼中にないまま、それまで互いに過ごしていた。
網田は、どこにでもいるパソコンマニアで、脂肪太りの体に背負ったリュックから所構わずノートパソコンを取り出しては、一人でぶつぶつ喋りながら、太い指先で細かいキーを器用に操った。人と話すより、パソコンに向かっている時間の方がはるかに長く、ディスプレイの放つ光で、もともと白い不健康な顔が青白く照らされる様は薄気味悪くさえあり、もちろん友達はいなかった。
この網田が過去のある時期、数学と世界史の点数を不自然に上げたことから、担当教師のパソコンに侵入して、テスト問題をハッキングしているのではないかという憶測が流れたことがある。
噂を聞きつけた、それぞれの教師がテスト問題を別のパソコンで作成してみたところ、今度は同じ生徒とは思えないほど点数が下がったことから、効果のあからさまなことに呆れながらも、噂が事実であることは裏付けられることになった。
もっとも当の本人は周囲の白眼視など意に介さない体で悠然とキーを叩き続け、他人の部屋に秘かにつながるトンネルを掘り続けた。他人の部屋の合い鍵を見つけたときの満足は格別だった。彼は14インチの窓の向こうに広がる自分の宇宙に魅せられ、そこに輝く星々との交信に心を奪われた。それは他人に自慢するためでもなければ、将来の成功を夢見てのことでもない。つまりは、それがマニアなのだ。
本城は網田がハッカーであると耳にしたとき、頭にひらめくものを感じた。聡を陥れるのに利用できるかも知れない。
そう直感して初めて網田の存在を認識し、その瞬間に嫌悪した。それは聡に対して抱くものとは全く異質の、汚物を目にしたときのような純然たる嫌悪感だった。本城は網田に近づいたら、初めから殴るつもりで放課後を待った。
ところが網田は授業が終わると、もうこの場所に用はないとばかり、真っ先に教室を後にしていた。それはいつものことだったが、網田の私行になど注意を払ったことのない本城は虚を突かれた思いで、腹を立てるのも忘れて慌てて後を追った。
廊下を曲がっても校門から左右を見回しても、網田の姿は見当たらなかった。本城は狐に摘まれた思いがした。高を括って油断したとは言え、目を離していたのは、ほんの一、二分のことだ。そんな短時間で視界の外にまで遠ざかれるはずがない。ふと目を離した隙に姿を消した網田という人物のつかみどころのなさに、本城は自分の理解の規格に合わない、一種ただ者ならぬ底気味悪さを感じた。
ふと振り返ったところで、歯がみしていた顎がかくんと下がった。とうに姿を消したどころか、網田はいまごろ昇降口に姿を現し、下駄箱から白いズックの運動靴をのそのそと取り出していた。
野郎、糞でもしていやがったのか。
本城は拍子抜けすると同時に、滑稽な一人芝居をさせられた忌々しさと気恥ずかしさから舌打ちをした。
重い体をもてあますようにゆっくりと歩いてくる網田を鋭く見据え、本城は容易に尾行体制に入った。いつの間にか人の後をつけるのがうまくなった。網田の鈍重な歩調に合わせるのは苦痛だったが、目的のためとは言え、他人に合わせる忍耐を身につけていたのは皮肉なことだった。この間に遅れていた怒りも追いついてきた。
網田は駅近くの本屋に入ると、パソコン雑誌のコーナーで立ち読みを始めた。本城も立ち読みのふりをして、ほどよい距離から網田の様子を眺めていた。
ずらりと並んだパソコン関連の書籍は、不案内な本城には個々の違いが分からなかったが、網田は平積みされた雑誌を次から次へと手にとってはページをめくり、興味を引かれた記事があると、鼻息を鳴らして読み耽った。パソコンに向かいすぎて視力を落としたのか、紙面に目を近づけて舐めるように読んでいる姿は、餌をむさぼる豚そのものだった。傍らを通り過ぎた客に肩をぶつけられ、非難めいた視線をその背に向けたが、肥満体が狭い通路を塞いでいるのだから、どちらが人の迷惑なのかは明らかだった。
張り込みも30分を超え、いい加減しびれを切らし始めた頃、網田は穴が開くほど読んだ一冊を平積みされた元の位置に戻し、その下から同じ雑誌を数冊抜き取ると、傷や汚れがないかを入念に点検し、うち一冊を大事に抱え、残りの数冊を放って戻して、レジの方へと歩き出した。店の商品を雑に読み散らかしていたくせに、買う段になると他人の手垢に汚れていない品物を選んだのだろう。その浅ましい料簡に本城は唾を吐きたい気分になったが、やっと買うものを決めて店を出る気配を見せたのは、何にせよ、ありがたかった。
ところが網田はレジには向かわず、並びの書棚にもぐり込むと、そこを通り過ぎる間に本を持つ手を入れ替えて、書棚から姿を現したときには本を巧みにバッグの陰に隠し、堂々とレジの横を抜け、外に出てしまった。
店員は何も気づいていない様子だったが、一部始終を見守っていた本城は呆気にとられた。あまりのことに、網田のあとを追ってきた目的も忘れて、暫し立ち竦んだ。が、我に返って思い直すと、これは有無を言わさず網田を連れ出す好機だった。
本城は遅れて店を出ると、速やかに網田との距離を詰め、追い抜きざまに声をかけた。思わぬ場所で呼び止められたことと、相手がそれまで口を利いたこともない本城だったことから、網田は二重の驚きを示したが、万引きの直後であるにもかかわらず、その顔に緊張も警戒も見て取れないのは、厚顔なのか、鈍いのか、それとも分厚い肉で表情が潰されているからなのか、本城には判別できなかった。
「良いところで会ったな、網田。お前に教えてもらいたいことがあるんだ。悪いが、ちょっとつき合ってくれないか」
「本城くん、どうしたの、こんなところで?」
「こんなところって、ここは駅前じゃねえか。俺がいたら、おかしいのか。お前こそ、こんなところで何をしていた?」
「本城くん、お互いに質問し合っても埒が明かないよ。教えてほしいことって何なの?」
本城は噛み合わない会話に怒りの歯車さえ狂わされ、くしゃみを止められたような不快感を覚えた。ことばを詰まらせていると、過換気気味に細かい呼吸を繰り返す網田の鼻息が手の甲に吹きかかり、不潔なおぞましさで鳥肌が立った。とにかく、さっさと用件を切り出そうと自分を急かした。
「ちょっと、こっちに来てくれるか」
「こっちって、どこ?」
「こっちと言ったら、こっちだよ!」
思わず語気を荒立てると、網田もさすがにびくりとして、黙って後について歩き出した。
比較的最近になって小綺麗なアーケードに整理された商店街も、ひとつ筋を隔てると、昔ながらのうらぶれた飲食店が軒を連ねる狭い一画に出る。場末の空気がただよう上に多くは飲み屋であるために、昼間のこの時間には極端に人の姿が少ない。人目につかない場所に連れて行かれる意図を感じ取る様子もなく、不得要領な顔をしてついてくる網田を見て、やはりこいつはただの鈍物だ、と本城は確信した。スーパーの裏壁に突き当たる袋小路に追い込むと、本城は鋭い視線を網田に向けた。
「お前、さっきの本屋で何をしていた」
「何をって、パソコン雑誌を見ていただけだよ」
「ほう、俺は見ていたんだぞ」
「見てたんなら、なんで聞くの?」
思う方向に進まない会話に業を煮やした本城は、網田のバッグを奪い取ると、中から件の雑誌を乱暴に抜き取って、網田の頬に叩きつけた。
「お前がこれをかっぱらうところを見ていたと言ってるんだよ!」
ここに至って網田はようやく顔を強張らせた。ここまで言わなくては分からない愚物ぶりに嫌気がさしながら、本城はなおも嬲るように畳みかけた。
「別にお前を脅すつもりなんかないんだ。ちょっと、やってもらいたいことがあるだけなんだよ」
「な、なに?」
「お前、他人のパソコンに侵入することができるんだってな。それなら携帯のメールでも同じことができるか?」
「メールを盗み見するってこと?」
「ようやく、すんなり話が通ったな。盗むことにかけては頭の巡りが違うってわけだ。できるか?」
「やったことはないけど、できると思う。サーバーに侵入しさえすれば」
自分の得意分野だけに、初めはおずおずしていた網田の口調が次第に熱を帯びてきた。それが万引き現場を見られた負い目をいつの間にか忘れさせた。
「そうか、それが交換条件ってわけだね」
そう言って、にやりとすると、二本指を突き立てながら、
「でもメールの盗み見といったら誰にでもできることじゃないからね、ただってわけにはいかないよ」
と優越感に浸った顔で本城に向き直った。
二本の意味が二千円なのか二万円なのか、そんなことは考える気にもならなかった。本城は理解に苦しんだ。五分の条件だとでも勘違いしているのか、単に虚勢を張っているのか、それとも危険に鈍いのか。いずれにしても、この男の思考回路は本城の手に余った。
ただ、こんな愚劣な輩に対等に思われるのは何より腹に据えかねた。どんなに頭の鈍い奴にも、痛みだけはすぐに伝わる。苦痛と恐怖に屈しない人間はいない。英語よりも、音楽よりも、スポーツよりも、暴力こそは万国共通語なのだ。
本城は電光石火の手刀を網田の二本の指の間に打ち込んだ。指の股が1センチほど裂けたのを見て、網田の下卑た笑いがひきつった。悲鳴を上げそうになったので、続けざまに裏拳を一発腹に入れると、厚い脂肪に波動が伝わる感触があった。網田は意気を挫かせ、白目を剥いて、その場にくずおれた。
弱者の墜ち行く運命は、このとき決まった。網田は、自分中心の天動説を採る本城の矮小な宇宙における貧弱な一惑星となった。
命令は手早く実行に移された。
携帯電話のメールに重要機密のやりとりなどはない。厳重なガードもないエリアの基地局にはたやすく侵入することができた。
網田の操るパソコンのディスプレイには無数の記号や英数字が読み取る間もなく流れていった。初めは本城も興味を持って、網田の打ち込むコマンドの意味や作業の進捗を頻りに尋ねていたが、やがて飽きて無関心になった。尽きるともなく流れる意味不明な文字の羅列は、本城には異星の前衛詩にしか見えなかった。
だが突如そこにメールと思しき日本語の文面が現れると一種の感動を覚え、身を乗り出した。網田が聡のメールアドレスを打ち込んだ。そこだけは本城にも理解ができた。同窓である聡のメールアドレスは容易につきとめることができていた。
satoshi-yoko,since2001forever@docomo.ne.jp
yokoとは彼女の名だろう。いい気になって羞恥を忘れた、恥ずべきセンスが鼻についた。幸福を誇示した惰弱な精神に唾を吐きたい思いがした。
獲物はすぐに網にかかった。やりとりの特に頻繁なアドレスにyokoの文字を見出すと、送受信された内容を改めて、これが聡の彼女であると断定した。甘ったるいことばの往還は本城の怒りを煽り、無理強いされているはずの網田の覗き趣味を満足させた。yokoが桜庭陽子という名であることもここで分かった。
問題の日、聡と陽子が5時に待ち合わせる約束だと知ると、本城は何としてでも陽子を一人で自分の所へ連れてくるよう、網田に厳命した。
厳命されたが知恵も手だても示されず、現場に赴いた網田は途方に暮れた。見知らぬ人と口を利くのは苦手だった。まして相手が女の子となると緊張も手伝って、何をどう切り出して良いものか分からなくなる。しどろもどろになって、嗤われたり、身を退かれたり、面と向かって罵られたりした経験は強烈なトラウマとなっていた。日常会話よりコンピューター言語を多く使う生活は、もともと人を避ける性格を、人から避けられる性格に変えていた。待ち合わせ場所に先回りして聡たちを待つ間にも、待ちぼうけを食わされて、いらいらした様子で辺りを見回す聡から身を隠している間にも、下校途中の女子高生から遠慮のない視線を投げられ続け、網田は生きた心地がしなかった。
ところがやがて、制服姿の一人の女子高生が聡に歩み寄るのを認め、とたんに気持ちが引き締まった。刃のような本城の脅迫を思いだして、思わず身を震わせると、意識にたかる蠅どもは、ぱっとどこかに散っていった。
聡に近づくおずおずとした足取りを網田は遅刻の引け目によるものと解釈し、ほどなく笑顔が交わされるのを見て、これが目当ての人物であると確信した。男女関係の機微はおろか、何事にも鈍感な網田には、二人の笑顔のぎこちなさになど気づく由もなかった。ゆかりの悲劇は、こうして滑り出した。
網田は本屋から喫茶店へと、通報されなかったのが不思議なほどの怪しい挙動で二人の後をつけ回り、7時過ぎにゆかりが席を立ったことで、ようやく本城の命令を実行に移す機会を得た。
北村山駅で電車に飛び乗った聡をゆかりは向かいのホームから見送っていた。頭を下げて、うつむいたままの思い詰めた表情にも、待ち合わせた駅でそのまま分かれた奇妙な行動にも、本城の恐ろしさで頭がいっぱいだった網田はまるで頓着しなかった。だしぬけに声をかけた。
「さ、桜庭陽子さんですか」
ゆかりは肩をびくりとさせて、声の方へと振り向いた。それは無理もない反応だった。
「あ、あの、桜庭さんですよね」
そう重ねて問われると、驚いて見開いたゆかりの目に何かが宿ったように見えた。
ゆかりがなぜそう答えたか、網田はいまでも不思議でならない。ゆかりは確かに、はい、と答えた。
「ぼぼ、ぼく、伊勢上くんと同じ学校の網田といいます。偶然、そこの喫茶店で伊勢上くんと一緒のところを見たから、この人が桜庭さんなのかなって思ったんです。桜庭さんのことは、伊勢上くんからいつも聞いていたものだから」
そう言うとゆかりは、はにかんで笑った。網田は一瞬、使命を忘れて有頂天になった。女性と接する術を知らない網田は、同年代のゆかりに対して終始敬語を用いて話したが、女の子と会話が成り立った喜びは彼をいつになく饒舌にさせた。
「この間の土曜日は、ふたりでディズニーランドへ行ったんですってね。桜庭さんは、あそこのパレードが好きなんだって、伊勢上くんから聞きました」
盗み見したメールから知ったことを口にすると、ゆかりは、ええ、と明朗に答えた。
「知っているでしょうけど、伊勢上くんは空手も強いんですよ。うちの学校の空手部では上級生も含めて一番強いらしいですよ」
そう言って網田は、はっとした。本城が聡に敗れた一戦は校内でも話題のできごとだった。それを踏まえて言ったことだが、言ったあとから鳥肌が立った。もしもこれが本城のいる前であったなら、どれほど本城の神経を逆なでたか知れない。
網田は、ここにいるはずのない本城の影に怯えた。自分は桜庭陽子を何としてでも、本城の待つ空手部部室まで連れて行かねばならないのだった。網田は、ここに本城がいなかったことに胸をなで下ろすとともに、彼の本来の使命を思い出した。
ところが、ゆかりは聡の空手家としての側面に興味をそそられたと見えて、聡の強さや稽古ぶりをしきりに尋ねて、そもそも聡の空手部での活動を知らないうえに、この話題を避けたい網田を大いに困らせた。
なるほど自分の彼氏とは言え、他校のクラブ活動をじかに見る機会など、そうざらにあるはずもない。制服の違いに阻まれて普段知ることのない聡の姿に関心を寄せたとしても自然なことだ。彼女という存在のいる境遇をうらやみながら、網田はそう納得した。
「そうか。伊勢上くんが稽古しているところは見たことがないんですね」
一度もない。どんな場所で稽古をしているのかも知らない。そう、ゆかりは答えた。
「道場はただの道場ですよ。見たから、どうってこともない」
網田は身も蓋もないことを言った。何か心を残したような、ゆかりの様子を不思議そうに眺めて、こう続けた。
「見たいんですか。この時間じゃ、中に入るのは無理だけど、見るぐらいなら大丈夫ですよ。窓から覗けば」
このことばにゆかりがどれほど狂おしく心を躍らせたか、網田には知る由もなかった。目を爛々と輝かせ、いいんですか、と詰め寄る姿に網田はただ圧倒された。
道場なんか見て、何が嬉しいんだろう。
そう思い、半ば呆れたところで、これが渡りに船であることにようやく気がついた。どうやって連れ出そうかと、ない知恵を巡らせていたところに、ゆかりの方から行く気を示してくれたのだ。思いもかけない展開に成功の手応えを感じると、網田は俄然興奮した。
「よ、よ、よかったら案内しましょうか」
うわずった声でそう言うと、ゆかりは手を打ち合わせて、はい、と答えた。
そこから池波高校まで、ゆかりを連れていくのは造作もないことだった。なにしろ当人の意志なのだから、網田としてはそれ以上、話を取り繕う必要もなく、ただ道案内に徹していれば、それでよかった。
怪しまれている様子もなかった。初対面の男と夜間に行動を共にする思い切りと軽薄さに網田の方が戸惑いながらも、女の子とは案外こんなものなのかも知れない、勇気ひとつで自分にも彼女ができるかも知れない、と変なところで自信をつけた。
池波高校に着いたときには午後8時を回っていた。すでに生徒の姿はなく、普段なら教員もほとんど帰宅している時刻だった。
校門の脇にあるくぐり戸から身を忍ばせ、二人はまっすぐに空手部の道場へ向かった。グラウンドや校舎を興味深そうに眺めて歩むゆかりは、緊張して足早に進む網田から自ずと遅れがちになり、その都度小声で急き立てられた。
「こ、ここが道場です」
網田は目的地である部室に行く前に、義理堅く道場に立ち寄った。ゆかりはガラス窓の外側にはめられた格子の木枠を両手で掴み、つま先立ちになって中を覗き込んだ。月明かりと防犯灯が射し込む板の間は、闇の中で濡れたように照らされ、そこに格子の影をくっきりと刻んでいた。
ゆかりは、そこに聡の勇姿を思い描いているのか、窓を通して無人の道場を食い入るように眺め続けた。それは交際相手の、自分の知らないもうひとつの舞台に思いを寄せているにしても、やや常軌を逸しており、魅入られたような表情は何か祈りを込めているようでさえあった。
飽かずに見つめる横顔を網田は気味の悪い思いで見守った。だが、この場を誰かに見咎められはしないかと気が気でなかった彼は、ゆかりの様子にそれ以上の注意を払わず言った。
「そ、そんなに関心があるのなら、部室の方も見せましょうか」
このことばが、ゆかりの意識に届くのに数拍の間を要した。え?と短く問い返して振り向いたゆかりの目には、一心の祈りを妨げられた非難の色さえ窺われた。この豹変に網田は怯んだ。詰めを急ぎすぎたかと指し手の甘さを悔いたとき、遅れて届いた網田のことばにゆかりはようやく反応した。部室ですか?ええ、行きます。
「来てくれますか?ああ、よかった!どうも、すみません」
網田は支離滅裂なことばを吐いて、つまづきそうになりながら、ゆかりを先導した。ここにきて網田の精神は一気に消耗した。早く本城にバトンを引き渡そうと、気持ちばかりが先走って、つい足取りが荒くなり、靴音を校舎に響かせて、余計に焦りを募らせた。
運動部の部室は、二棟ある校舎の裏手、グラウンドとの境に建てられた棟割り長屋のような細長い建物で、そこを六畳間ほどの小部屋に仕切り、各部にひとつずつが割り当てられている。空手部の部室は、その一番端、網田の行く手の一番奥に位置していた。
わずか10数メートルの距離が、まだこんなにも遠いのかと思えるほど負担に感じられた。網田は任務もあと少しだと自分を励ましながら、並んだいくつもの扉の前を通過して、ようやく空手部部室に辿り着いた。
網田は緊張と普段の運動不足から息を切らし、ごくりとつばを飲み込んでから、ゆかりに言った。
「お待たせしました。ここが空手部の部室です」
部室棟は静かだった。中に待つ本城の呼吸に合わせて、じっと息をひそめているかのように。音は立てずとも、目だけは見開き、獲物の動静を窺っている、そんな蜘蛛の巣のような不気味な静寂に、これから起こることを知っている網田は身が竦む思いがした。
「い、いいですか?開けますよ」
いかにも中に何かがあることを意識している言い方だった。もっとも網田は、これを中にいる本城への合図のつもりで言ったのだが。
扉のノブに手をかけると、建て付けの悪い扉は蝶番の金具をきしませながら、徐々に暗い室内を覗かせていった。慣れない者には鼻を突く饐えた汗の匂いと入れ替えに、開け放たれた扉から防犯灯の明かりが流れ込み、電気を消された室内の様子を茫漠と浮かび上がらせた。
ロッカー代わりの木製の棚、パイプ椅子の背にかけられたままの道着、無造作に重ねて置かれたキックミット。緊張した網田の目に映ったのは、それらが所在なく置き去られている姿だけだった。その無機質なたたずまいを乱すものはなかった。つまり、そこは無人だった。
それは、ゆかりにとっては何の不思議もないことだったが、網田にとっては目を疑う意外な光景だった。入り口に半身を差し入れ、「誰もいませんかぁ」と間抜けな声をかけながら室内を見回した。傍目にはおどけたしぐさだったが、網田としては壁の陰に隠れているであろう本城への真剣な呼びかけだった。だが無論、返答はない。部室は正真正銘の無人だった。
網田は成すべきことを見失い、困惑の体で振り返ると、ゆかりに向かって薄笑いを浮かべた。入ってみませんか、という取って付けたような誘いに、ゆかりはさすがに気後れを示した。
やむなく網田は扉をくぐり、入り口の脇を手探りし、電気のスイッチをオンにした。間を持たせるだけが目的の行為だったが、それが事態を好転させた。
蛍光灯が明滅し、室内を明るく照らすと、ゆかりは真向かいから自分を見つめる自身の姿に出くわした。ちょうど顔の高さにはめ込まれた換気用の小窓に自分が映っただけのことだったが、ガラスの向こうの闇は鏡の反射剤のように手前の光をどん欲に吸い取って、ゆかりの像を鮮やかに映し出していた。
ゆかりは軽い驚きを感じた。そして、その見開いた目に再び恍惚の色が浮かんだ。ゆかりは網田の脇をすり抜けて、吸い寄せられるように室内に歩を進めた。見守る網田は呆気にとられるだけだった。
そのとき隣の野球部の扉が、がちゃりと大きな音を立て、網田の心臓を射た。網田は、ひいっと小さな悲鳴を上げて、体を強張らせた。中から出てきた男は網田を無視して空手部部室に踏み入ると、ゆかりを映した黒い小窓に自分の姿を重ねて言った。
「よく来たな」
自分の世界に唐突に押し入った男に驚いて、ゆかりは振り返った。蛍光灯の真下に立つ本城の顔には、暗い窓に映った姿からは窺えない凶暴な陰影が刻まれていた。
「桜庭陽子さんだろ。伊勢上の彼女の」
ゆかりの怯えた顔が酔ったように上気した。ゆかりはぎこちなく首を縦に振った。ゆかりは、ここでも人定に頷いたのだ。
「今日は、せっかくのデートの後ですまなかったな。どうしても、あんたに会ってみたくて、ここまで来てもらったんだ」
ゆかりは肩をすぼめ、唇を結んで本城を凝視した。この男が一体誰で、自分に何の用があるのか見当もつかず、事の成り行きにただ怯えていた。その様子を本城は楽しんだ。
「俺は本城義彦。伊勢上から何か聞いていないか」
聞いているはずはない。ゆかりは無言で首を横に振った。本城はわずかに頬を引きつらせて、ことばを続けた。
「そうか。じゃあ、教えてくれ。伊勢上はいつもどんな話を聞かせるんだ。あんたと会っているときの伊勢上は、どんな様子だ。幸せそうにしているのか?」
ゆかりは困惑した。いつも自分と一緒にいるとき、聡の様子はどうだったか。思い出そうとしても浮かんでこない。思案の末にこう答えた。ふつう…。
「ふつうだ?ふつうってのは何なんだ。伊勢上とは普段どんな話をしている。遊びに行く相談か、それとも趣味か何かの話か」
これにはすぐに答えがでた。勉強のこと…。ゆかりは小声でそう答えた。
「勉強?何だ、そりゃ。家庭教師じゃあるまいし、それだけってわけじゃないだろう。ほかにはどんな話をする」
ゆかりは視線を泳がせた。聡は普段どんな様子で、どんな話をしていただろう。
だが、どんなに記憶を浚ってみても、とうに情報が底をついている。苦し紛れに思いつきを口にした。…あと、部活のこととか…。
本城の目が光った。
「どんなことだ」
とたんにゆかりは答えに窮した。どんな話を聞いただろう。稽古のこと?知らない。試合のこと?思い出せない。部員の人たちのこと?分からない。
「空手部のことで、どんな話を聞かせていたんだ。そうびびるなよ。落ち着いて思い出してみろ」
本城は口調を甘くして、ゆかりに返答を促した。
「いっしょに稽古している連中の話ぐらい聞いたことがあるだろう。部員にはどんな奴がいるって聞いた?」
ゆかりは無言で首を振った。分からない…。
「誰か強い奴がいるって言ってたことはなかったか?」
分からない…。
「もう一度聞くぞ。俺の名前は本城義彦。この名前に聞き覚えはないか」
分からない、分からない、分からない…。
本城は要領を得ないやりとりに舌打ちした。こんな女とつき合っている聡の気が知れなかった。ただ聡が自分のことを陽子に話してもいなかった、そのことだけは理解ができた。それは聡が陽子と一緒にいるとき、本城の存在を意識に上らせることもなかった、少なくとも話して聞かせる意味を認めなかったということだ。つまり聡にとっては本城よりも、この鈍い女の方が大きい存在なのだ。
自虐的な怒りがこみ上げ、本城を酔わせた。女をこのまま帰すつもりなど元からなかったが、燃え上がる憎悪は本城の気持ちに残るわずかな逡巡をも焼き切った。
「そうか。お前らは余計な人間のことなんか話題にする暇もなかったということだな。無駄なことをしゃべる時間も惜しんで、やりまくっていたということだな」
業を煮やした本城は埒の明かない問答を切り上げ、ゆかりを卑猥に詰り始めた。淫らなことばを口にした途端、本城はそれまで感じたことのない気持ちの高ぶりを覚えた。解き放たれた欲望にたちどころに飲み込まれたことを知った。
「どんなことをして楽しんでいたんだ。俺にも少し教えてくれよ、ええっ」
本城の目が残忍な光を放ち、唇が満足げに吊り上がった。足を踏み出し一気に詰め寄ると、緊張で立ち竦むゆかりに荒々しく組みついた。
「伊勢上はな、俺をコケにしやがったんだ。それをあの野郎に思い知らせてやる」
そう言って、ゆかりの足を払って床に組み伏すと、右手でスカートをたくし上げて、股間を鷲掴みにした。瞬間、ゆかりは硬直した。抵抗して逃れることもできず、あっと開いた口からは声も出なかった。
「いいか、桜庭さんよ。これは伊勢上のせいなんだ。お前は伊勢上の咎を負うんだ。伊勢上のせいでこうなるんだ」
本城は憑かれたように、そう繰り返した。
網田はゆかりに劣らず緊張して、その場を見守っていた。心臓は気道を圧迫するほど激しく打ち鳴らされていた。本城の肩越しに、恐怖で引きつるゆかりの顔が見えた。その表情には不可解な陶酔が浮かんでいた。低俗な雑誌で読んだ女性のレイプ願望は本当だったのか。そう思った。
突然、本城が振り返り、鋭い視線を網田に向けた。
「てめえ、誰かにあとをつけられたりはしてないだろうな」
「た、たぶん」
「たぶんじゃねえ。誰か近づいて来やしないか、外で見張っていろ」
言われて網田は外に出た。緊張から解き放たれた安堵感と、希有な場面を見届けたかったという心残りが半々にあった。
部室の中からは、想像をかき立てる物音がひっきりなしに漏れてくる。だが部室の外は静かだった。学校の広い敷地の周りはもともと人家のまばらな場所で、商店のシャッターが閉まる音や車の排気音が耳に届く以外は、町中であることを忘れてしまうような静けさだった。通りがかる人々の話し声や靴音がときおり遠くにこだまするが、それらから身を隠すのは造作もないことだった。
平穏な時間が流れていることが網田には不思議に思えた。傍らの小部屋では、今まさに一つの人生が悲劇に見舞われていると言うのに。暗い夜空は小さな悲劇に、見て見ぬ振りをしているようだ。
網田は部室棟の陰に隠れて辺りを見回しながら、そんな第三者のような感慨を抱いた。
20分ほど経ったところで部室の中から声がかかった。それで網田は、自分がこの一件の当事者に他ならないことを思い出した。
そっと扉を開くと、ブラウスの前をはだけ、スカートが腰までまくれて下半身を露わにした、半裸のゆかりの姿が目に飛び込んできだ。衝撃のあまり、目が釘づけになって立ち竦んでいると、「ばかやろう、さっさと入れ」と怒声を浴び、慌てて中に入って扉を閉めた。
本城は荒い息を吐きながら、ズボンのベルトを締めているところだった。興奮して手が震えているのか、ベルトの金具が神経質にぶつかり合う音がしている。
網田は再び、ゆかりに目を戻した。心身ともに打ちのめされたのだろう。白目を剥いて舌を出し、身じろぎせずに床に横たわっている。まくれ上がって帯のように腰に残った紺のスカートを境に、上と下の白い裸身を交互にまじまじと見つめた。女性の裸をじかに見るのは初めてのことだった。網田は顔を火照らせ、生唾を飲み込みながら、ゆかりの無惨な裸体を食い入るように見た。
「このあとがまた一仕事だな。体が固くなっちまわないうちに移動させないと」
初め、網田はそのことばの意味を理解できなかった。ただ、飽かずに眺めているうち、ゆかりの様子がおかしいことに、ずいぶん遅れて気がついた。瞬きひとつせず、まるで固まったように動かない。固まったように。
本城のことばが遅れて頭に閃いた。ゆかりを凝視していた目を本城に向け、震えた声で網田は訊いた。
「え、もしかして…、え、え、まさか…」
「仕方ないだろう。このまま帰すわけにはいかねえからな」
網田は血の気が引くのを感じた。あらためて恐々とゆかりに視線を戻した。初めて見る女性の裸体は、初めて見る死体でもあったのだ。網田は罪深さに身が竦んだ。まさか殺すとは思ってもみなかったとは言え、疑いなく自分が死への手引きをしたのだ。
そして恐怖が網田を襲った。網田は本城に、そして彼の支配を受ける自分の運命に無条件の恐怖を抱いた。
「まだ一時間ぐらいは大丈夫なはずだ。もう少し待って、人通りが止んだら、外に運び出す」
そう言って本城はパイプ椅子に座ろうとした。瞬間、膝が笑って腰が滑り落ちそうになった。平静を装ってはいるが、目が血走って声もうわずっている。本城も気が動転しているのだ。
しばらくの間、両者とも無言のまま呆然と時を過ごした。網田は死体とともにいる恐ろしさと、本城の恐ろしさ、そのどちらにも集中できず、したがってどちらにも縋れない中で、精神が引き裂かれて気が変になりそうだった。いまにも饐えた匂いがしそうで、自ずと嗅覚に意識が行った。
そんなとき、落ち着きを取り戻し始めた本城が言った。
「そうだ、このままの恰好にしておくわけにはいかないな。おい、いまのうちに服を元通りに着せておけ」
網田は耳を疑った。青ざめた顔から、さらに血の気が退いていった。
「おい、聞こえなかったのか。裸のまま、ほっぽりだすわけにはいかないだろう。服を着せてやれと言っているんだ」
網田はとうとう腰を抜かした。尻餅をついたまま見苦しく後ずさり、いやいやと首を振りながら、ことばにならない哀願を示した。その醜態は本城の蘇生を助けることになった。つまり怒りを買ったのだ。
本城は徐に腰を上げると、目にも留まらぬ蹴りを網田の尻にめり込ませた。網田は何が起きたのか視認できないうちに、重い衝撃を臀部に受けて横転していた。
「てめえ、俺をなめていやがるのか」
ただならぬ状況から、その声にはいつもに増した迫力が込められていた。
「この女と同じようになりたいのか」
右足を上げて、もう一度蹴りを入れる仕草で威嚇すると、網田は頭を抱え、団子虫のように体を丸めた。
「往生際が悪いぞ、網田。覚悟を決めろ。もう、お前は逃げられないんだ」
逃げられない。頭を抱えた腕の隙間から聞いたこのことばは、網田の胸に絶望という重低音を響かせた。網田はそれを聞きながら、本城という目の前の銃口に追い立てられて、胸の重しを引きずるようにして、ゆかりの屍に這い寄った。
あらためて間近で見るゆかりの遺骸に網田は息を飲んだ。死んでいると聞かされる前、目を爛々と輝かせて、それを見ていた自分がおぞましくさえ感じられた。
蛍光灯の光は真下に横たわる、ゆかりの肌を蝋のように白く照らしていた。それは網田のほんの少し前の記憶をも煌々と照らし出した。もともと色白だったように思う。ほんの少し前に見たときには。ほんの少し前に。
そう、ほんの少し前、この娘は確かに生きていたのだ。
急に吐き気が込み上げた。何とかそれをこらえると、口の中に酸味が広がり、視界が涙の底に沈んだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。一時間前、いや、ほんの30分前でいい、そのときの自分に帰してほしい。
網田には、これが現実のできごとだとは、どうしても信じることができなかった。彼の心の器には、直面する事実を受け入れるだけの型も容積もなかった。それでも恐ろしさだけは肌を包むように実感された。
「何をしていやがる。人が来たらどうするつもりだ。さっさとやれ」
怒号の鞭が呻った。慌てて遺体にいざり寄ると、本城に蹴られたばかりの尻に力が入らず、上半身が前屈みに崩れて、遺体に覆い被さるかたちで四つん這いに手をつく羽目になった。
体を預けこそしなかったが、遺体に最接近した戦慄は、恐怖の目盛りを一気に振り切らせた。網田は文字にできない悲鳴を上げて、身を起こそうと必死にもがいたが、如何せん、体の支点に力の入らない状態では、まるで未開の土着信仰の礼拝のように同じ姿勢に立ち返るばかりだった。
人類の言語を捨て、よだれをまき散らしながら何度も前につんのめる、断末魔の豚のようなその滑稽で見苦しく、苛立たしい姿は、本城をして、ついに網田の使役を断念させた。
本城は網田の髪を掴んで、仰向けになぎ倒すと、ゆかりの上半身を抱き起こした。首ががくんと後に傾げたが体温はまだ残っていた。肩までまくり上げたブラジャーを再び胸に被せると、背中に手を回してホックを留めようとした。うまく留まらない。苛々しながら何とか留めると、今度はブラウスをもと通りに着せ始めた。白いブラウスには網田のよだれが染みを作っていた。スカートを履かせたままだと裾をまとめにくいことに気づき、もろ差しの体勢で立ち上がらせて、スカートの留め金を外し、ジッパーを下ろした。スカートは、すとんと落ちた。むき出しの下半身に白いブラウスを纏った恰好は、生きていたなら、さぞかし艶めかしい姿態であったろうが、動かない肉体のささやく倒錯した官能には本城はまだ無縁だった。
本城はゆかりを肩に担いで中腰になると、鼓を打つように、ゆかりの尻についた砂や埃をはたき、床に落ちて丸まった下着を広げ、持ち主の足に通した。続けて、脱がせたばかりのスカートに足をくぐらせ、ブラウスの裾をしまうと、腰の留め金を横目で確認しながら器用に留めて、ゆかりの体を傍らのパイプ椅子に腰掛けさせた。
ゆかりは居眠りでもしているように、首をうなだれ片手を垂らして、じっと動かず座っている。なかなか見事な手際に本城は満足した。無論、フィギュアの着せ替えを楽しむ趣味などはない。だが本城にとって、今のゆかりは、まさにフィギュアに過ぎなかった。もとは人間だったというだけのことだ。しかし、これは手早く処理しなければ破滅につながる厄介な玩具だ。本城は再び作業に戻った。
本城は、脱げて転がったゆかりの靴を拾い上げ、片膝を立ててしゃがみ込むと、小さい子供にしてやるように、足を持って靴を履かせた。
次に襟のリボンに目を向けた。結び目は崩れ、不格好に襟からはみ出して、首の周りで輪になっている。リボンの形など事前に注意を払わなかったので、もとがどうだったか思い出そうにも記憶そのものが見当たらない。しかたなく、当て推量であちこち摘んでいると、ある一ヶ所を引っ張ったときに、するすると輪が縮まり、リボンをぴたりと襟に収めた。結び目の形は、もはや戻しようがない。適当にバランスを整えて、それでよしとした。
異様な光景を網田は喘ぎながら見つめていた。本城の崇高とも言える冷徹な手さばきに半ば感銘し、半ばおののいて、当事者でありながら蚊帳の外から事態の推移を見守っていた。
網田が身動きできずに見つめる中で、本城は作業の最終段階に入っていた。ゆかりの上着を拾い上げ、めくれ返った袖をもとに戻し、埃を払って、力の抜けたゆかりの腕を片方ずつ袖に通した。そこで、あるひらめきから、呼吸が戻ってきた網田に視線を向けた。本城の視線を無防備に受け止め、網田の肩はびくりと跳ねた。
だが本城の口調は穏やかだった。かつて聞かぬ親しげな声音で網田に語りかけた。
「なあ、網田。悪いが少し手伝ってくれないか。俺がこいつの体を支えているから、上着のボタンを留めてくれ。それだけで構わないから」
手のかかる着衣をここまで一人でこなしてきた本城が、たかだか上着のボタン掛けを手伝ってくれとは甚だ不可解な要求だったが、口調を変えて言われたことは、網田に未体験の緊張を与え、拒否を示すタイミングを奪った。
本城はこちらを見据えたまま、じっと網田が動くのを待っている。無言の圧力に、とうとう網田は腹を括った。ボタンを掛けるぐらいなら、やれないこともないだろう。体に直接触れずに済むし、上手にやれば、ものの数秒で足りる作業だ。
そう思うと多少は気が楽になり、網田は巨体を引きずって、ゆかりの載せられた椅子に近づいていった。
ゆかりの前まで進み出ると、網田は玉座に跪くような形で、恐る恐る前を仰ぎ見た。頬に垂れた横髪が顔を覆っていたのは幸いだった。
ゆかりは棚に置かれた操り人形のように、ぐったりと椅子に身を委ねている。手足に結ばれた見えない糸が突然ぴんと張って躍りかかってきたら、どうしよう。両手を大きく振り上げて、夜叉の形相で組み付いて来たら、どうしよう。
網田はそんな幼稚で真剣な不安を胸に、熱いものにでも触るように、こわごわとボタンに手を伸ばした。
そのとき、ゆかりの上半身がわずかに前にせり出した。網田は驚倒した。恐怖で凍りつきそうになった体を本城の声が解凍した。
「驚かせたか、すまん」
網田は本城が両手でゆかりの肩を掴んでいるのを見た。身頃のボタンを留めやすいように、ゆかりの体を支え直したのだと知った。全身から汗が噴くのを感じた。
網田は一刻も早くこの苛酷な作業を終わらせようと、鼓動の伝わる指先でゆかりの制服の三つのボタンを大急ぎで留めた。息をするのも忘れていたため、留め終わると大きく息を吸い込んだ。
「よぉし、よくやった」
本城の満悦した声が上から聞こえた。その声に思わず顔を上げたのが失敗だった。本城のほかに、もうひとつの視線が自分に向けられているのを感じ、反射的にそちらに目を向けてしまった。
網田は死者と視線を重ねた。最初は真下にうなだれていたゆかりの頭部は、本城に肩を支えられた際、横向きに傾きを変えていたのだ。
死者の双眸が網田を映していた。網田は毛が逆立つのを感じた。
我を忘れて飛び退いた拍子に、浅く腰掛けていたゆかりの尻がパイプ椅子から床にずり落ち、遺体は後頭部を座板に打ちつけて、顔を仰向けた。
酸鼻な死に顔が露わになった。落ちた振動で、ゆかりの顎がもの言うように上下した。それが自分に対する呪詛の呟きに思え、網田の恐怖は絶頂に達した。悲鳴を上げようとしたが、壊れた笛のような音が喉を抜けていくだけだった。呼吸さえも不自由になり、網田はばたりと倒れ、泡を吹いて痙攣した。
殺虫剤に苦しむ醜悪な虫のようなその姿を本城は冷ややかに見下ろしていた。もはや怒りは沸かなかった。網田は立派に務めを果たしたのだ。ゆかりの衣服に指紋を残すという務めを。
実効を得るために、もの言いを工夫する程度の芸当は難なくできるようになっていた。蹉跌を通じて、気づかぬうちに身についた器量だった。
本城は椅子の横から、ゆかりの脇に手を回して、崩れた体を引き上げた。瞬間、顔色を一変させた。
関節が強張り始めている。時間を食いすぎたようだ。
冷や汗が背中を伝った。もはや猶予はならない。これ以上の時間の浪費は命取りになる。
本城は網田の髪を掴み、喝を入れる目的で頬を張った。痛みは網田を異界の恐怖から現実の恐怖へと引き戻した。目に焦点が戻ってきたのを見て取ると、本城は網田に退去を促した。このまま網田とともにいても、いかなる助力も期待できないばかりか、かえって足手まといになる。ただ、次のひとことを網田の記憶に刻むことは忘れなかった。
「いいか。言うまでもないだろうが、このことは誰にも言うな。誰かに何かを聞かれても一切しらを切るんだ。どんなに疑われることがあっても、とにかく口を閉ざせ。それだけは忘れるな。もし、ひとことでも漏らしたら、俺は必ずお前を殺す」
網田の濁った瞳に、殺す、というひとことが反応した。
「分かったら、行け」
本城は扉を薄く開け、辺りに誰もいないのを確かめると、網田の襟首を掴んで立ち上がらせた。行け、と再度促した。
網田には突然の解放の意味が理解できなかった。彼の精神状態は、恐怖のごった煮同然だった。それでも表の景色が目に入ると、この場を逃れたい一心から、網田は一目散に駆け出していった。
網田の姿が校舎の陰に消えるまで、本城は扉の隙間から、じっとその様子を見守っていた。一人で帰すのは不安だったが、これ以上、網田の世話にかまけているわけにはいかなかった。
本城は時を移さず、次の作業に取りかかった。自殺の擬装。むしろ、ここからが本番だとも言えた。その難事に一人で当たらなくてはならない。
本城は床を一通り見回して、女の長い髪の毛が落ちていないかを確かめると、ゆかりを背中に背負い、電灯を消した。途端に闇と静寂に覆われた。その中で死体と身を接している。それでも恐怖は感じなかった。肩にだらりと垂れた腕に突如膂力が迸り、自分の首に爪を立てることなどありえない。
この女は自分が殺したのだ。その実感が今頃になって訪れた。だがそれは畏れでも後悔でもなく、甘心と充実感だった。
自分はこの女を犯しながら首を絞めた。半分は死体を抱いていたのだ。生まれた命を抱き上げるように、自分はその死を抱き上げた。命を与えた者と死を与えた者は同格であるべきなのだ。
そう考えると愛着が沸き、このままゆかりを手許に置いておきたい気さえした。しかし、それができない相談であることも、冷めた頭は良く承知していた。
本城はあらためて扉を開いた。辺りを窺い、入り口から身を滑り出すと、部室棟を素早く離れ、樹木の陰に隠れながら防犯灯の届かぬ闇を縫って進んだ。あらかじめ決めておいた進路だった。
十分に低く見積もっていたとは言え、一応念頭に置いていた網田の介助が得られなくなったことは予定外だったが、本城は動揺を最小限に抑え、速やかに計画を微調整して、一人で冷静に事に当たった。この若き凶漢は、不測の事態に臨んで過たないだけの胆力は備えていたのである。だが、それを試し、鍛えるまたとない状況となった今、そのような観念に彼はすでに興味を失っていた。
一方、強健な肉体への自信には一毫の疑いも抱いていなかったが、こちらの信頼は裏切られることになった。人ひとりを背負い、中腰で駆けるという力業に、しばらく稽古を遠ざかっていた肉体は正直に音を上げた。
本城は、ものの数分で息を切らし、身を隠せる物陰に辛うじて辿り着いたときには目の前が朦朧としていた。沈勇に行動したとは言え、緊張は避けられるはずもなく、体の各所に強いた無理な力は筋の痛みを後日に残した。
ふと見上げると、花壇の縁に沿って植えられたヒバの木の向こうに焼却炉の煙突があった。
あの炉の中に投げ込んで焼き捨ててしまおうか。
どこからか、そんな誘惑が乗り移った。それは、この重労働を放棄したいからではなく、女の亡骸が炎に巻かれて焼け朽ちてゆく姿に猟奇な魅力を感じたからだった。しかしそんな、すぐに足のつくような処理ができるはずもなかった。
本城は腰を屈め、膝に手をついて、呼吸が整うのを待った。頬に、ひやりとした感触が伝わった。肩の上で首をうなだれていたゆかりの顔に触れたのだった。体温の落ちた肌の感触は火照った顔に心地よく、本城は何度も死体と頬をこすり合わせた。
本城は気を取り直して、移動を再開した。今の自分の体力と、体にかかる負荷の見当を誤っていたことを謙虚に認め、その前よりも速度を落とし、堅実な移動を続けた。
突如、光が視界をよぎった。本城は身を固くして立ち止まった。地面を照らす円錐形の光のうしろに、一瞬遅れて黒い人影が浮かび上がった。定時の見回りに来た警備員だった。
本城が足を止めた位置は、運悪く校舎の角から身を出したばかりで身を隠す何物もない場所だった。次に身を潜めるつもりでいたケヤキの太い幹までは、まだ数メートルの距離がある。進むも退くもままならない状態だった。ここで動くのは危険すぎる。かと言って、このまま見つからずに済む保証もない。どうするか。
本城は必死に頭を巡らせた。最悪の場合、この警備員の口を塞ぐことも考えたが、さすがにそれは避けたかった。
停年後、警備会社に再就職した風情の壮年の警備員は、犬の散歩でもするような緊張のない様子で懐中電灯の光を左右に揺らせていた。この様子なら、このまま動かず、じっとしているだけで、うまくやり過ごせるかも知れない。そう本城は思った。
しかし光の番犬は不審者の匂いを嗅ぎつけたかのように、次第に本城との距離を縮めてきていた。荒い息づかいが聞こえてくるような気さえした。
本城はまったく意図せず、警備員の背後の建物に目をやった。学生生協のプレハブ小屋だった。それを認めた途端、頭に閃光が走った。
本城は、ゆかりを背から落とさないよう注意しながら、右手を内ポケットに差し入れると、携帯電話を取り出して通話記録を呼び出した。
確か記録があったはずだ。道着を注文した際に問い合わせの電話をしたことがある。
秒単位の勝負が始まった。懐中電灯の光はもう目の前に迫ってきている。本城はもどかしく、いらだたしく親指を繰った。液晶に呼び出される数多くの無益な番号を呪った。
あった!
本城は思わず声を上げそうになった。ディスプレイに求める番号が表示されると、時を移さず通話ボタンを押した。その指が震えていた。
鳴れ、鳴れ。
祈りにも似た気持ちでそう念じた。
次の瞬間、生協の建物の中で呼び出しのベルが鳴った。だが思わず拳を握ったのも束の間、それは思いのほか小さい音で、耳に神経を集中していた本城には聞き取れたものの、初老の警備員は気づいた様子もなく、歩みを止める素振りも見せなかった。
じじい、耳が遠いのか。
本城は歯がみした。番犬は今まさに本城に吠えかかろうとしていた。
光の輪が本城の足許を舐めた。だめか、と腹を括った瞬間、警備員がベルに気づいた。
「おや」
そう口に出し、ゆっくりと首を回した。本城は、その機を逃さなかった。躊躇なく地面を蹴ってケヤキの陰に身を隠すと、気配を消して警備員の動静を窺った。通話ボタンは押したままだった。
警備員は鳴りやまぬベルを訝った面持ちで窓の内側を覗いていたが、やがて関心の失せた体で規定の進路に立ち返った。
目の前を通過していく警備員の移動に合わせ、本城はケヤキの陰の位置を保つよう慎重に体をずらしながら、警備員の立ち去るのを待った。心臓は激しく打ち鳴らされていた。鼓動を聞きつけられそうなほどに。だが本城の靴が砂を咬む音にも気づかぬほど聴力の衰えたこの男に対し、それは杞憂に過ぎなかった。
警備員は不審者の侵入など端から予期していない安気な足取りで、やがて校舎の角から姿を消していった。
本城は腹に深く息を落とした。心臓は未だ鳴りやまなかった。背負ったゆかりの心臓が、ちょうど重なる位置にあった。自分の心臓の高鳴りが、ゆかりの止まった心臓を呼び覚ましたとしたら。
この発想は本城の興をそそった。
おもしろい。もしそうなったとしたら、この女はどうするだろう。俺に仕返ししようとするだろうか。それとも、鼓動が俺の瞋恚を伝え、俺の代わりに伊勢上を陥れてくれるだろうか。第二の命を吹き込んだ俺の忠実な分身となって。
だが、馬鹿げた興はすぐに冷めた。この逆恨みの暴走者は、一方でいたって怜悧な思考の持ち主でもあった。
息を吹き返したら、もう一度殺す。それだけのことだ。本城は眉を結び、本来の行動に立ち戻った。
とっさの機転で難局を逃れたのち、本城には自信にも似たゆとりが生まれた。一つしくじれば確実に人生をねじ曲げる、この逃走劇を楽しむ気持ちさえ生まれてきた。心なしか足取りが軽くなった感じがした。
本城はそれを注意信号だと自覚した。余裕と油断をはき違えてはならない。赤になるのを見落とすと、危険に身をさらすことになる。本城は逸る気持ちを抑えながら、予定していた脱出口へと足早に進んだ。
生徒しか知らない『秘密の抜け穴』。フェンスとフェンスをつなぎ合わせるビスが一番上の左右ひとつずつを残して、下がすべて外れているため、スイング式の扉のように、下端を持ち上げて身をくぐらせることができる。ゆっくりもとに戻しておけば、見た目には壊れているとは分からない。
本城は辺りに人のいないことを注意深く確かめたのち、抜け穴をくぐり、少し離れた場所にあらかじめ停めておいた400㏄のバイクに近寄った。後部座席にゆかりを座らせ、用意してきたフルフェイスのヘルメットを頭に被せた。落とさないよう肩を支えながら自分もシートに跨ると、部室から持ち出したタオルを使い、二人乗りに見せかけるよう胴に抱きつかせる恰好で、ゆかりの両手首を自分のへその前で縛った。
いよいよ外へ足を踏み出す。目的の雑木林までは約4㎞。人通りの少ない道ばかりを選んではあるが、ある程度人目に触れるのは避けられない。武者震いが出た。本城は自分もフルエェイスのヘルメットを被り、喉元でしっかりとベルトを締めた。
つま先立ちで地面を蹴って、学校の敷地から少し離れたところでキーを捻った。空冷の甲高いエンジン音が心臓を圧迫した。慎重にスロットルを開けると、バイクはゆっくり滑り出した。
走り出して程なく、ゆかりの尻がシートの後方にずれ、本城の背中から徐々に崩れ始めた。いったん停車しようと減速し、ほんのわずかに幅寄せしただけで、シートの左側へずり落ちそうになり、慌てて左手で抱きとめた。振動と風圧は予想以上に御しづらかった。
帯を持ってきて、腰と腰も縛りつけておくのだった。そう思うと自分の予想の甘さに腹が立ったが、急いで頭を振って、その考えを振り払った。いま一番大切なのは、何より冷静に行動することだ。ないものをねだっても始まらない。現状において最善を尽くす以外にないのだ。
そう思い直すと、ゆかりの手首のタオルを外し、より深く自分に抱きつかせる形で右手首を左肘に縛りつけた。左の前腕が逆関節をきめられたように本城の眼下に伸びていた。
この小さな工夫は思いのほか具合が良く、このあとの走りを事情に似合わぬ快適なものにした。ふとメーターに目をやると、フルフェイスの狭い窓から、ゆかりの白い左手が揺れるのが見えた。本城は聞き分けの良い子供を慈しむように、ときおりその手を握ってやった。
走行は終始、法定速度の範囲でなされた。車間距離は十分に取り、信号ではゆとりを持って減速した。どんな小さな事故も違反も犯すわけにはいかなかった。
信号で停止するたび、本城はゆかりの体を引き上げて、スカートの裾を整えてやった。自分の左腕をゆかりの伸ばした前腕に重ね、折り畳むようにして胸に抱き寄せた。もしも誰かがそれを見たなら、さぞ愛情に満ちたしぐさと思っただろうが、本当のところは、左手を伸ばした奇異な有様と両手を縛り合わせたタオルを隠していたのである。
このあとバイクは、分譲されて間もない新興住宅地を縫って走った。洒落た造りの家並みが続いている。家族をあらかた迎え終えた静かな街並みの団欒と平穏が、窓から漏れる光に溶けだしている。家族で、一人で、くつろぐそばを他殺体が駆け抜けているとは、よもや夢にも思うまい。
バイク便がすれ違った。預かり物の荷物を積んだ青年が本城に羨望と嫉妬の目を向けた。本城は心のうちでそれに応えた。君の荷物はいったい何だい?何なら俺のと交換しようか。
心持ち緊張が緩んだ。それを再び引き締めるできごとがこのあと起こった。
片側一車線の寂しい市道に戻り、赤信号で停止したときだ。交差する車も対向車もない四つ角で信号が変わるのを待っていると、後方からむやみに大きい時代物のアメ車が車体を左右に揺らせながら減速してきた。本城は迂闊にも間近に迫るまで、それに気づかずにいた。
車は本城の右側を通過する刹那、ハンドルを左に切って幅寄せしてきた。大型の車両が突如眼前に迫り、本城は押し潰されそうな恐怖に身を固くした。一瞬で体温が退いた。背中のゆかりと同じぐらいに。
車はフロントを左に寄せて、本城の行く手を塞ぐ形で急停止した。車体がつんのめりそうに前傾し、タイヤが悲鳴を上げた。車内からカーステレオの聞こえよがしのリズムとともに嬌声が上がった。族車だった。左ハンドルの運転席から、顎髭を生やし、長い白はちまきを巻いた面長の男が顔を出した。
「兄ちゃん、デートかい。いいねえ」
口許をにやつかせ、斜めから視線を絡ませてきた。
「いけないねえ、彼女。こんな遅い時間まで男と遊んでちゃ。お父さんとお母さんが心配するよ。へへへ」
よしなよ、からかうのは。
車内から囃し立てる女の声が聞こえ、次いで絡みつくような笑い声が上がった。
本城は唇を噛んだ。失敗だった。もう少し早く気がつけば、信号を無視してでも先まで走り、こんな幅広の車が進入できない細道に入って、やり過ごすことができたのに。しかし、もう遅い。こうなった以上、何とかこの苦境から逃れる手を考えるしかない。
信号はとっくに青に変わっていた。が、族車の発進する気配はない。後方から迫る車もなかった。助けを呼べる状況ではないし、助けを求めるわけにもいかない。本城はゆかりの左腕をしっかりと抱きながら、この場を逃れる策を探った。ゆかりは幸い歩道の側に顔を向けていた。異相を見られる懸念はない。
「彼女ぉ、そう怖がるなよ。俺たちとも仲良くしてよぉ」
嬌笑が再び上がった。本城はそれを無視して、車内の顔ぶれを確認した。運転席とそのうしろに男が一人ずつ。いずれも二十歳前後だろう。それぞれの右側に女が一人ずつ席を占め、車内の奥から面白がって、こちらの様子を眺めている。二人が二人、頭の悪そうな顔をした女だった。総勢四人。全員が男だとしても一分で片づける自信はあった。しかし、それはあくまで最後の選択肢だ。
「おらぁ、てめえ、何シカトしてんだよ。なめてんじゃねえぞ、このやろう」
思わず失笑しそうになった。これで凄んでいるつもりなのだろうか。だが本城はそれをこらえた。いま心がけねばならないことは、この連中を刺激しないこと、そして自分たちの存在を印象に残さないことだ。その意味で彼らを威嚇することは論外だった。生半可な威嚇では、この安っぽい導火線どもに火をつけるだけだし、仮に効き目があったとしても、自分を記憶に焼きつけさせてしまう。
かと言って、下手に出るのも考えものだ。効果が期待できるなら、この際いくらでも媚びも売ろうが、この手の輩に弱みを見せると、嵩に懸かってくるのは目に見えている。
が、思案のさなか事態は俄に切迫した。後部座席にいた男が窓越しにゆかりの腿をさすり、ほとんど股間に届かんばかりにスカートの中へ手を差し入れたのだ。
「ひゃー、冷たぁい」
男は茶化して手の平を振った。下卑た笑いが車内を満たした。
本城は屹度緊張を高めた。これ以上のことをされてはまずい。決断は速やかに下った。運転席の男の髪を掴み、頭を窓枠に叩きつけると、すぐさま後部座席の男の顔面に横蹴りを食らわせる。二秒もあれば足りる仕事だ。よし、決行!
そのとき彼方からサイレンの音が響いた。車内の男たちもそれに気づいた。再び、ゆかりの足に伸ばした手がぴたりと止まった。やがて後方遙かの闇に赤色灯が浮かび上がり、続いて、ヘッドライトに目を射られた。
「やばい、警察だ」
男たちが顔色を変え、目を見合わせた。が、それ以上に色を失ったのはヘルメットに顔を包まれた本城の方だった。ところが…。
このあと本城の取った行動は、まさに逆転の発想によるものだった。本城は、見る見る近づくサイレンに向かい大きく手を振り、こう叫んだ。
「お巡りさーん、助けて下さーい」
「ばかやろう!」
運転席の男は血相を変えてハンドルを右に切り、急発進を試みた。間髪おかず、後部座席の男がそれを制した。
「いや待て、ちがう。パトカーじゃねえ」
今度は急ブレーキが踏まれた。中の四人が藻草のように一斉に前屈みに倒れた。だが車がわずかでも旋回したことで、本城の前方には突破口が開けた。
本城の目が鋭く光った。同時にスロットルが全開になった。男たちが顔を上げたときには本城はもう遥か前方へ駆け抜けていた。
後方から拡声器の声が響いた。
「緊急車両が通過します。道を空けて下さい。緊急車両、反対車線を通過します」
言うなり、男たちの右側を日赤の血液搬送車が走り抜け、すぐさま走行車線に戻った。緊急車両は図らずも男たちの追走を阻む形になった。一杯食わされたことに気づいたときには、すべては後の祭りだった。
数百メートルの距離を猛進したところで本城はアクセルを緩め、予定外の細い脇道に入った。何度か下見にこの道を走った本城には、近辺の地理が頭に入っていた。それが初めは冷や汗をかいた、あの赤色灯の正体を推知させた。この少し先には雑木林を大伐採して建てられた救急指定病院があるのだ。それで、とっさに方針を切り替えた。彼にとっては十分に勝算のある賭けだった。
本城は、ほっと息をつくと冷笑した。馬鹿め、お前が喜んで触ったものが何なのか教えてやろうか。
それでも危ないところだった。自分とゆかりの制服を見られたことも気がかりだった。しかし本城は車の横を走り過ぎた際、ナンバープレートの確認を忘れなかった。この辺りの車ではなかった。おおかた、女のどちらかを送りに来たところなのだろう。制服の見分けがつくことはなかろうし、分かったとしても警察に情報を寄せるとは思えない。
本城は雑念を捨てた。このあとの仕上げに集中するには、いったん切り抜けたトラブルに、いつまでもかかずらってはいられなかった。
景色は次第に寂しくなって、家屋も車も歩行者も間引きされてゆくように辺りから姿を消していった。代わりにブナやナラの木が五本、十本と数を乗じて隙間を満たし、本城の周りから光を奪っていった。目的の場所が近づくにつれ、本城の胸には覚悟が重く堆積していった。
街灯さえもまばらになって、散見された人家もついに視界から消えると、バイクは、車が一台通れる幅を切り開いただけの、舗装も十分になされていない林道に入った。
そこは地元で『樹海』と呼ばれる、手つかずの雑木林が広大に残る一画だった。幕に覆われたように明かりが途絶えた。突然の暗闇に目が着いて行けず、本城は路面状態の悪い道にタイヤを取られそうになった。ひやりとする瞬間が何度かあって、本城はついにヘッドライトだけが頼りの、おぼつかない走行を諦めた。転倒でもして遺体に余計な損傷を加えたくなかったし、バイクが壊れたりしたら、このあとの逃走にも障る。
数十メートル先に、おあつらえ向きのバラック小屋が目に入った。何の目的で建てられた物だか分からないが、現在使われていないことは明らかだった。周りには家電製品が打ち捨てられており、それ自体が投棄された廃棄物のような建物だった。
本城は慎重に裏手へ回り、道の反対側になる建物の陰にバイクを止めた。ここから先へは徒歩で進むことにしよう。そう決めて、本城は、ゆかりの手を縛り合わせたタオルをほどいた。ゆかりを地面に落とさないよう注意しながら、自分が先にバイクを降り、遺体を左の肩に担いだ。
異臭がした。腐敗し出したわけではない。糞尿が漏れていたのだ。本城は顔をしかめた。運転中はまったく気づかなかった。衣服にシミがつくかも知れない。バイクのシートも汚れているだろう。
だが、その程度のことで動揺する本城ではなかった。汚れたものは洗えばよいのだ。
闇にも徐々に目が慣れてきた。月の光が鬱蒼と繁る枝葉に濾されて、木々の間に淡く立ちこめていた。
本城はトランクケースからビニールロープを取り出すと、ゆっくり一歩を踏み出した。足跡を残さないよう、落ち葉や雑草の上を選んで注意深く奥へと進んだ。
百メートルほど入ったところで、枝振りの良い手頃な木を見つけ、本城は足を止めた。高さ3メートルほどのところに伸びた頑丈そうな枝にロープを投げて懸けると、ゆかりを肩にのせたまま、ロープの端を根元にしっかり結びつけた。根元から伸びたロープは枝に懸かって折れ曲がり、その先には、あらかじめ作っておいた輪が一条の月明かりを受けて揺れていた。
本城はゆかりを抱え直し、首を輪に通すため、真下から高く掲げた。臀部を押し上げた際、手の平に柔らかいものを潰した感触があった。アンモニア臭のする液体が袖口から腕を伝った。それでも本城の見開いた両目は、頭上の輪から逸れることがなかった。
この姿を見咎められたら終わりだ。どんな釈明も通用しない。焦らず速やかに事を運ぶのだ。そう自分に命ずるうちに、本城は自分を極めて高度な集中状態に持っていった。
針に糸を通すような作業だった。いらいらして手元を狂わせると、輪をいたずらに揺れさせて余計に的が遠ざかった。
ただ、硬直し始めた肉体は、この際かえって扱いやすかった。息を殺し、丁寧に試みを繰り返した結果、ついに頭の半分ほどを輪にくぐらせることに成功した。本城は心にガッツポーズを作った。
ところが片耳がロープの縁にひっかかり、頭部全体を輪の向こう側に出すことがなかなかできなかった。上げたり下げたり捻ったりと微妙な操作を続けているうち、次第に重みで腕が震え始めた。
正念場だった。ここで落としてしまったら、萎えた腕ですぐには同じ作業に耐えられそうにない。再開するには疲労の回復を待たねばならないが、そんな悠長な真似ができるはずもない。
本城は必死にこらえた。目を剥いて、歯を食いしばり、震える腕を気合いで支えた。それでも遺体は頭を輪にくぐらせようとしなかった。
腕がもげて落ちそうになった。食いしばった歯の隙間から呻き声がもれた。息が喘ぎ、歯もがちがちと震え始めた。
も、もうだめだ…。
遺体の尻を持ち上げていた右腕から力が抜けた。脇腹を支えていた左手も空を泳ぎ、本城はその場に崩れ落ちた。息も絶え絶えにしゃがみ込むと、いきなり何かに横面を蹴られた。目から火花が散った。軽い脳震盪を起こし、本城はそのまま大の字に倒れた。
しばらくは立ち上がることができなかった。ようやく薄く瞼を開いたとき、本城は目に映ったものをすぐには認識できなかった。
俺は一体どこを見ているのだ。どうやら倒れているらしい。真上にあるのは木々の梢か。空がわずかに覗いている。空と木の枝と、そこに何かがぶら下がっている。何か大きなものが。
本城は倉卒に立ち上がった。そして信じられないという面持ちで、そこに吊られているものを見た。
遺体は足を宙に揺らせていた。重みに耐えきれずに手を離してしまったはずみで、皮肉にも頭部を輪の中に滑り込ませたのだろう。その直後、吊り下げられた反動で振り子のように戻ってきた足が本城の横顔に命中したのだ。
しかし意識の靄が晴れていない本城には、それがほかでもない自分の作為で、ここにあるものとは思えなかった。前からそこにあるものに、こうしていま偶然出くわしたかのような錯覚を覚えた。まるで自らこの地に赴き、その身をこの木に委ねたような霊妙な調和が、そこには感じられた。
月明かり漂う中、周囲の木々と同化したその様は、さながら夢幻世界のもののようで、本城は半ば見惚れる思いで呆然と立ちつくした。白い頬が濡れたように冷たく、つややかに闇に浮かんでいた。『死の母』の胎内から生まれ出た嬰児のような丸めた手足だけが、ここまで運ばれた痕跡をとどめていた。それも時間が経てば自らの重みで自然な形に戻るだろう。そこまで見届けられないのが残念だった。
本城はゆかりに蹴られた頬に手を当てた。そして心の内で、こう問いかけた。
これはお前の復讐だったのか?いいだろう、このぐらいの復讐は受けてやろう。
…復讐。
再び先刻の着想が甦った。もし、この女の肉体に再び魂を吹き込んでいたとしたら。
今度は、おのずと声に出していた。
「これがもし復讐ならば相手が別だ。恨むのなら伊勢上を恨め。あいつに最も残酷な復讐をしてやるんだ」
夜も更けた時刻だ。林の奥の冷えた空気は、本城のことばを白い息に変えた。それは、まるで言霊が姿を成したようにゆかりの遺体を漂い、消えた。
いまや本城の顔に茫たるものは一点もなかった。本城は仕上げたオブジェを一瞥すると、目を離すより早く踵を返し、毅然とした足取りでその木をあとにした。
強姦の事実を隠す気はない。自殺に見せかければ、それで良いのだ。よしんば他殺を見破られても、それはそれで構いやしない。この程度の擬装で警察を欺けると本気で期待はしていない。自分の仕業と発覚しなければ、それでよいのだ。
しかし校章をどこかに紛失してしまったことは痛恨の失態だった。本城はそれを翌日、筋肉の痛みとともに知ることになった。
本城は部室の中で、あの日のことを思い出していた。網田はあのときと同じ醜態を今も目の前に晒している。
この部屋で伊勢上に恥辱を受けた。だから、この部屋で伊勢上の女を犯して殺した。それは本城の自己法典において当為の報いだった。
しかし、あれは伊勢上の女ではなかったのだ。あの鏤骨はまったくの徒労に過ぎなかった。本城の胸に無念がこみ上げ、憎悪がいやました。
「網田、今度こそ本物の桜庭陽子を連れてくるんだ。今度は本当に自殺に見せかけなくてはならない。幸い、友達を自分の彼氏に殺されたと知れば、自殺の動機としてはまずまずだ」
頬をわななかせて自分を見つめる網田に構わず、本城は憎しみを吐き続けた。
「警察の檻の中で自分の女の自殺を知る。さぞかし胸を掻きむしる思いだろう。その姿を想像するのも、また一興か」
「本城くん、お願いだよ、もう許して。ぼ、ぼく、うぐっ…」
泣き声混じりの哀訴を最後まで聞かず、本城は網田の腹に下突きを放った。網田は大袈裟にもんどり打って床に倒れた。空手の上級者である本城は、相手の反抗心を潰えさせる力加減を心得ていた。
網田に対しては怒りをそのまま表現できる。しかし聡のことを考えると、怒りが体の奥へ奥へと引っ込んで、手が届かなくなる。そのもどかしさに余計に腹が立った。憎しみは本城の心に根を張りめぐらせた。
「俺は、とにかく、とにかく、とにかく!伊勢上の野郎だけは絶対に許せねえんだ。分かったら、さっさと行け。うまく誘い出せたら、すぐに連絡をよこすんだ」
(後編へ続く)