017 この契約書には不備がある
「あぁ……すまない。距離を詰めすぎたな」
「性急な男は嫌われますよ。ほら立って、席に戻る。書類を確認してもらうんでしょう?」
ほら動く動く、とイアソンは手を叩いてリベリオスを促す。
メルルの間近で長い紫紺が翻り、その動きで起きた微風に乗って届くムスクにメルルは固まったままぼうっとしてしまう。
(い、いい香り……私より断然いい香り……待って!? 私、臭いんじゃ!?)
『朝お風呂入ったからだいじょぶだよ! メルル石鹸の香り!』
(ならいいか! 今日は朝から汗めっちゃかいた気するけど!)
『それは否定できない……』
(ファリーダさん??)
突然不安になることを言われて心の中で真顔で返すメルルに、ファリーダは冗談だよ、と肩に乗って笑う。ようやくメルルがいつも通りの調子を取り戻したので嬉しいらしい。
リベリオスに対してドキドキしているメルルは可愛いのだが、心の中が彼一色になりファリーダのことが意識から外れるのが少しだけ寂しかったようだ。
それでも、長年メルルが誰を想ってきたかを知っているファリーダは邪魔をする気はない。
「……メルル嬢、大丈夫だろうか?」
「なんの問題もございませんっ!」
はっとしてソファにきちんと坐りなおしたメルルは、自分の頬を軽く叩いて姿勢を正す。
横からイアソンが盆にのせた書類を複数差し出してきた。ご確認ください、とのことだ。
その際、イアソンは苦笑したまま声を潜めた。
「すみませんね、令嬢。うちの若様、こういうの不慣れで」
「いえ、あの、……ん? これで不慣れ……?」
メルルの表情が怪訝なものになる。これで不慣れと言われると、では一体どこで覚えたのかと逆に疑わしい。あれか、生まれた時に備わっているのか攻略対象は、と心の中で折り合いを付けようとするが、そこは詳しく教えてくれないようだ。
ただ、とイアソンは言葉を続ける。
「若様は女遊びはしたことないですよ、なんせ……」
「イアソン」
「失礼しました。書類のご確認をお願いします」
「……?」
自分も書類に目を通しているリベリオスの声で、イアソンは話を切り上げて再度主人の後ろに控えた。
困惑しながらも、今は書類の確認が先だとメルルも目を通し始める。
(……ボウウェイン公爵家で、婚約に係るすべての資金は用意してくれるって。結納金もちゃんと用意してくれて……支度金には私の服やアクセサリーの代金も入ってる、と。かなりの金額だな……体面を整えるためだし、これも経費だと思っておこう)
『ご飯はー?』
(うーん、ご飯が出てこないとかまずないから書いてないね。大丈夫、ちゃんと出てくるよ~)
『ならいいよー! サインしちゃお!』
(最後まで一応読ませてね)
ファリーダはメルルの膝で手元の書類を一緒に見ていたが、飽きたのか、はたまたご飯が保証されたからか、膝から降りてソファの空いた席でごろごろし出した。
メルルは迷いなく書類を読み進めていく。前世のアプリの利用規約よりは字も大きくて読みやすいし、内容も自分に関わることだからするする頭に入ってきた。
(うーん……これじゃ契約結婚の書類としてダメかも。期限もないし、契約の詳細な内容、特に仕事の内容と報酬について書かれたものがない)
『えっ、メルルタダ働き?』
(これだけお金を出してもらってるからお金はいいんだけどね。ただ、命の危険もあるわけで……しかも偽装婚約だから……一応その辺を聞いてみるよ、ダメでも婚約資金を返せって言う話ではないようだし)
ファリーダと話して内容についてどう聞こうか、まずはどこから確認しようかを頭の中でまとめたメルルは、最後まで読み終わった書類を手に持ったままリベリオスに向かって控えめに声をかけた。
彼はまだ書類に目を落としているが、この書類を用意させたのはリベリオスなので問題ないだろう。
「あの、リベリオス様。……あ、ええーと、その……」
口を開いてから気付いた。イアソンがこの書類を用意したのだとしたら『偽装婚約』や『仕事』についてここで訊ねるのはまずいかもしれない。
声をかけてからもごもごと言葉に詰まってイアソンの方をちらりと見たメルルに、リベリオスは、あぁ、と察してくれた。
「イアソンは全て承知だ。ここでは、なんでも言ってくれて構わない」
「あ、そうなんですね。では遠慮なく……」
早速やらかしたかと少々焦ったが、ほっとして言葉を続ける。
「この書類ですと、部下としての契約には不適切です。業務内容やその報酬についての契約書……せめて契約の期間については明記した方が良いのではないでしょうか?」
「ぶっ」
なぜか横を向いて噴き出したイアソンに小さな疑問を持ちつつ、真剣な目でメルルはリベリオスを見つめた。
期間がなければメルルはいつまでだって居座ってしまう。それではリベリオスが本当に婚約する時に、自分が邪魔ものとして追い出されてしまう。そんなのは嫌だ。予め、心の準備をしておきたい。
「………………そうだな。報酬、うん、そうだな。……いくらほど用意しようか?」
リベリオスは長い沈黙ののちに目元を片手で覆い、自分を納得させるように言葉を口の中で転がした。それからメルルの方を見たのだが、その顔は酷く疲れている。
契約書類を確認するのは疲れるものね、とメルルは早く話を終わらせようと、すぐに希望を伝えた。
「えぇと……私の望みは、昨日お伝えした通り『結婚すること』なんです。ですので、この契約が完了した際、私の働きが良ければ新しい婚約者となってくださる男性をご紹介いただきたく思います」
「ぶはっ!」
「イアソン」
昨日もこんな流れだったな、といよいよ後ろを向いてくつくつと笑いだすイアソンに視線を一度送り、疲れ切った声で笑うのを窘めたリベリオスへと視線を戻す。
ファリーダは何も言わないが、なぜかメルルもリベリオスも視界に入れないように窓の外を眺めて雲を数えていた。
「……何かおかしなことを言ってしまったでしょうか? だとしたらすみません……」
(いや、おかしなことではあるんだよね、婚約の書類を交わす時に次の婚約者の話をしてるわけだし……でもさぁ、大事なことじゃんかぁ!)
『あの雲アップルパイみたいで美味しそー』
(ファルちゃんなんか冷たくない?)
『気のせいだよメルル』
再度の長い沈黙の後、リベリオスは長い溜息を吐いた。余程疲れがたまっているのだろう、意気消沈といった様子で肩を落として俯いている。長い髪が顔にかかり作り出す陰影の美しさにメルルはじっと顔を見つめてしまった。日常的にこんな素晴らしい『景色』が見られるのか。
録画の魔導具が欲しい、と切に願うが、彼女の手元に今それはないので瞬きもせず瞼に焼きつけようとしていた。
「いや…………よく分かった。その内容の契約書は今日中に用意させよう。ただし、契約期間は暫定でも定めるのが難しい。なくても構わないだろうか?」
「はい。事が事ですので、それでかまいません」
ホッとしながらメルルが頷くと、リベリオスは厳しい顔で未だマナーモード中の震えるイアソンに視線を向けた。非常に厳しい視線だ。視線が物理に干渉できるのならば、イアソンの背中に深々と刺さっていたことだろう。
「いいだろう。イアソン、用意しろ」
「かっ、かしこ、まりました……っ」
表情だけは取り繕ったイアソンが振り向いて応じるが、目を伏せて口元を手でかくしている。余程ツボだったらしい。
『リベリオス、不憫~……』
ファリーダがメルルにも聞こえないような小さな声でぼそりと呟く。
言葉の粒は拾えなかったが、声を聞いてファリーダの事を彼に告げるんだった、と思い出したメルルが、さてどう切り出そうかと視線をさまよわせる。
「それと……えぇと、うーん……コール卿も、いてもらった方がいいかもしれないですね……」
今度はメルルが口の中で言葉を転がして吟味していると、笑っていたイアソンもそれを窘めていたリベリオスもメルルの方へ顔を向けた。
メルルが自分のことを紹介しようとしていると悟り、ファリーダはメルルの膝へ乗り上げる。
(ファルちゃん、いいかな?)
『どーせリベリオスが喋るだろうからいーよ!』
(ありがとう! ファルちゃんのこと、大好きな人に紹介できるの嬉しいな)
『ファルもメルルがそう言ってくれて嬉しーい!』
自分の太腿を見て黙ってしまったメルルに、リベリオスとイアソンは顔を見合わせる。
そういえばこの令嬢は今日からこの家で暮らすのに置いてけぼりにしてしまった、とはたと気づき、リベリオスは流れを変えるように咳払いを一つ落とす。
「なんだろうか。秘密の話であれば私だけが聞くが……ただ、イアソンも口は堅いし、何かと動いてくれるから、できれば同席させたい」
「はい。リベリオス様の側近でいらっしゃいますから、コール卿も知っていて欲しいです。……えぇと、驚かないでくださいね」
身を乗り出して声を潜めたメルルに、思わずリベリオスとイアソンもつられて身を乗り出す。
「ファルちゃん、出てきて」
メルルの声と同時、応接用テーブルの上にしゅるんと銀の流れが生じた。そこからくるりと円を描いた銀の流れは、ウサギとキツネのあいのこのような獣の姿を取る。
ふかふかの銀毛に愛らしい顔つき、つぶらな瞳でリベリオスを見上げ、その額には緑の宝玉が輝く。
『ファリーダだよ! 二人ともよろしくねー!』
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