小さな暮らしと大きな秘密
窓から差し込む朝の光は、まだ薄い。けれど、昨夜の宴の余韻を残したこの客室には、その柔らかさがちょうどよく思えた。
ヴァルターはしばらく机の前で腕を組み、深く深く息を吐いた。喉の奥からこぼれたその吐息は、商人としての感情と、一人の父親としての戸惑いが混じり合っているようだった。
そして、視線をそっと机の上へ落とす。
砂糖の袋、角砂糖の瓶、塩、香辛料。昨夜の宴で使った酒類も並んでいる。
整然としたこの並びは、彼の心をほんの少しだけ落ち着かせた。
「……まずはこっちからだ。いつもの品なら……まだ商人としての勘が働く」
掠れた声だった。けれど、その奥には「ここなら理解できる」という安心があった。
ナオキは、静かに頷いた。
「向こうの世界から持ってきた品です。品質は安定してます」
ヴァルターは砂糖袋をそっと持ち上げ、封を開けた。
その瞬間、光を受けた白い粒が、かすかな輝きを返す。
この世界では、白砂糖はとにかく扱いが難しく、そのほとんどが茶か灰色がかっている。
それが、この白さだった。
「……ほんとうに反則だな。何度見ても、ため息しか出ん」
砂糖を指先で少しすくう。粒の細かさと均一さに驚嘆して、手が止まる。
「蜂蜜より扱いが難しいはずなのに……これだけ白いものは、王宮の厨房でも見たことがない」
「向こうでは……普通に売ってるんです」
「その“普通”が問題なんだよ……」
ヴァルターは袋を丁寧に閉じた。扱い慣れているはずの砂糖なのに、どこか宝物のように触っていた。
次に角砂糖の瓶を開けると、四角い結晶が光を透かして透き通るように見える。
ヴァルターは片手でつまみ上げ、指で感触を確かめてから、思わず声を漏らす。
「これは……庶民向けではないな。貴族や王侯の茶会でこそ価値を発揮する。形が揃っていて、美しい……」
「そうですね。向こうの世界では、飲み物にひとつ入れるだけで味が安定するように作られています」
「その“安定する”という発想が、もう……羨ましいわ」
ヴァルターは角砂糖をそっと瓶に戻した。
続いて塩。
袋の口を開けた瞬間、ヴァルターの表情が変わる。
「……この細かさ。いや、これは……鉱山ギルドでも作れん」
袋から少量を指先に載せる。指に吸い付くようにしっとりした質感。
「扱い自体は問題ない。むしろ高級品として歓迎されるだろう。商会の名を出せば、王都の税務院も不審がらんはずだ」
「よかったです」
「よかった、じゃない。よすぎるんだ……」
ヴァルターは苦笑して、塩をそっと置いた。
香辛料の瓶を開けると、途端に部屋の空気が変わった。
鮮烈で清らかな香りがふわりと広がり、昨夜の宴の料理の香りまで思い出させる。
「……これは……香りそのものが価値だな。料理人たちが泣くぞ、本当に」
ナオキは笑いながら言う。
「いい香りですよね。俺も好きです」
「好き、で済む品じゃない。市場に出したら、食堂が争うレベルだ。いや、文字通り争うかもしれん」
「だ、大変ですね……」
「大変にもなるわ!」
声の調子が少し上がり、リヴがくすりと笑う。
その光景に、ヴァルターも頬を緩ませた。
「……まあいい。次だ」
最後にウイスキー。
ヴァルターが瓶を手に取った瞬間、昨夜の“あの一杯”が脳裏に蘇ったのだろう。
目の奥に、しばし複雑な光が宿る。
光に透かした琥珀色の液体は、深さと静けさを同時に宿していた。
「……この酒だけは、本当に言うぞ。大陸では作れん。絶対にだ」
言い切る声に迷いがない。
「麦の処理も、蒸留の精度も、樽の管理も……どれだけ工房を育てても追いつかん。雑菌の管理も違うのだろう」
「向こうでは……普通の酒なんですが」
「普通……。またその言葉だ……」
ヴァルターは額を押さえ、しばらく動かない。
「王宮でも飲めん酒が……普通。お前の世界はどれだけ豊かなんだ……?」
「俺の世界では、これが一般的なんです」
「その“一般的”が脳に悪い……。はぁ……」
溜め息は深かったが、そこに冗談めいた苦味も混じっていた。
しばらくの沈黙のあと、ヴァルターは体勢を正し、椅子に座り直した。
商人として判断を下す顔へと戻っていく。
「ここまでは理解した。砂糖、塩、香辛料、酒類は、これまでどおり扱おう。問題は――」
視線が、机の端の“生活用品の山”へと移る。
石鹸、クリーム、油紙袋、布製品、薬箱。
これらは、食材や酒以上に、この世界の生活を変えてしまう可能性があった。
「――こっちだ。魔法とアイテムボックスを見たあとで、正気のうちに判断しておく必要がある」
ナオキとリヴが姿勢を正す。
ヴァルターは腕を組み、じっと生活用品を見つめた。
そして、小さく呟く。
「……これは、俺だけで判断するよりも……」
扉の方へ向き直り、声を張った。
「セラ。ラナ。少し来てくれないか」
静かな台所から、器が触れ合う音が止まり、水を絞る布の音が聞こえた。
「はーい、今行きますよ」
落ち着いた母の声。続いて、軽く弾む足音。
部屋の扉がゆっくり開き、
セラが料理中の姿のまま現れ、その後ろにラナが小さく手を振りながら入ってきた。
扉が開くと、ふわりと台所の香りが流れ込んできた。朝の支度の途中なのだろう。温かさと生活の気配が混ざった空気だった。
最初に姿を見せたのはセラだった。
肩までの髪をひとつに結び、腰に巻いた前掛けは少し湿っている。手の甲には水滴が残り、布巾で拭いたばかりなのが分かった。
「あなた、こんな朝から珍しいわね……誰か来ているの?」
声は穏やかで、とても自然な疑問に満ちていた。
セラにとっては、机いっぱいに広げられた品々を見るより、まず夫の姿のほうが気になったのだろう。
その後ろから、軽く弾む足音が追いつく。
「リヴ、おはよう! 昨日は本当にありがとうね」
ラナが明るく微笑みながら手を振る。
昨日の宴のときよりも、少し打ち解けた柔らかさがあった。
「う、うん……おはよう、ラナ」
リヴは胸の前で両手を重ね、少し照れながら返事をした。
その様子が、ラナの緊張までほぐしていた。
しかし――二人の視線はすぐに机へ吸い寄せられた。
砂糖、角砂糖、香辛料、塩。
そして、香りの良い瓶たち。
光を受けて、まるで小さな宝石店のように見えていたのかもしれない。
「……まあ! なんてきれいな瓶……あなた、これどうしたの?」
「昨日の宴の道具とは違うわね。もっと……そう、もっと上品で……不思議な感じがする」
セラは戸口のところで足を止め、思わず見入ってしまっていた。
ラナも後ろから覗き込み、瞳を丸くする。
「全部違う……昨日の甘い香りのものとも違う……。これ、本当に旅で手に入るの?」
ナオキは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「旅の途中で……運がよかったんです。暮らしの足しになるかな、と思って」
“旅”という言葉を静かに置くと、セラは深く追求しない。
商会に関わる夫を手伝う身として、そのあたりの距離感には慣れているのだろう。
「そう……縁があるものね。珍しい品が手に入るのも、商家ならではよね」
ヴァルターが短く頷き、目線だけで「ありがとう」と返す。
彼の妻として、必要以上に踏み込まない姿勢は、確かに頼もしかった。
ラナは興奮気味に机へ近づき、ひとつの小瓶を手に取る。
「わあ……いい匂い……。リヴ、これ……ナオキにもらったの?」
リヴは小さく頷いて答えた。
「うん……。乾燥しないよって……ナオキが」
ラナは唇にそっとリップを乗せ、驚きで目を見開いた。
「しっとりしてる……。これ、街で売ってたら絶対すぐ無くなるよ。ほんとに!」
その声は、まるで年頃の少女が“憧れの品”を見つけたときのようだった。
同時に、生活に詳しい女性ならではの正直な感想も混じっていた。
セラはすでに別の瓶を見つめていた。
保護クリームを少し手に取り、指先に塗り込む。料理場で酷使した手に、その柔らかさが染み渡っていく。
「……これ……沁みないのね。こんなに荒れた指なのに……」
声が震えていた。
痛みがないことを疑って、もう一度触れるように指を動かす。
「優しい触り心地……こんなの、見たことがないわ……」
ナオキは少し照れながら笑った。
「よかったです……。乾燥しやすい地域の……えっと、旅の品で……役に立てばと思って」
どこまでも柔らかい答え方だった。
セラは深く頷き、またクリームを丁寧に塗り広げた。
しばらくすると、セラの目は石鹸へ向いた。
透明感のある表面を指でなぞった瞬間、その場の空気が変わる。
「……信じられない……滑らか。香りも優しい。どこの職人が作ったの?」
「たまたま立ち寄った街で……偶然、です。俺も詳しくはなくて……」
ヴァルターがここで会話を拾った。
「旅商人から譲り受けたらしい。数も多いわけじゃない。扱いには気をつけるつもりだ」
セラは「なるほどね」とだけ言い、それ以上は聞かなかった。
するとラナが、突然リヴの方へ身を乗り出した。
「ねえリヴ、昨日の髪……本当にきれいだったの! あれは何を使ったの?」
「わたしも気になってたのよ」
セラも遠慮なく言う。
リヴは驚いて、細い肩をすくめた。
「えっと……ナオキが持ってる……髪を洗う道具で……」
「髪を洗う道具……?」
ラナが息をのみ、セラも口元に手を当てた。
「だって……光を吸ってるみたいだったもの。つやつやで……あれはそう簡単に出ないわ」
「う、うん……泡が細かくて……すぐ流れて……髪が軽くなる感じ……」
セラとラナの視線が、完全に油紙袋から髪へ移ってしまった。
女性が本当に求めるものは、いつだって生活の中の小さな“嬉しい”だ。
ヴァルターは肩をすくめて苦笑した。
「紙より髪か……。まあ、分からんでもないがな」
「女性はそういうものですよ」
ナオキが静かに答えると、ヴァルターは「ああ、そうだろうな」とため息をついた。
油紙袋を手に取り、指先で縁を撫でながらヴァルターは言う。
「工房では真似できん品質だ。だが少量なら扱える。貴族や裕福な家向けの品にできるな」
その言葉は、商人としての判断の速さが戻ってきている証だった。
セラとラナは相変わらず髪や香りについて話し合っており、
部屋の空気は明るく柔らかく満ちていく。
その明るさの中で――
ヴァルターだけは、静かに表情を引き締めていった。
家族を包む柔らかい光と、商人の鋭さ。
その境界を滑らかに切り替えていく姿を、ナオキとリヴは近くで感じ取っていた。
「……よし」
ヴァルターは短く息を吐き、机の中央へ視線を戻した。
「二人の反応でよく分かった。これは珍しい品というだけじゃない。暮らしが変わる」
「そうね、使ったら戻れないわ」
セラが手を休めずに言う。
ラナはリヴの腕を軽く握る。
「これ全部ナオキが持ってきたの?」
リヴは照れて俯き、小声で答えた。
「う、うん……でも、わたしは……」
「いや、リヴも十分すごいぞ」
ヴァルターが真顔で言う。
「えっ……わ、私……?」
「昨日のアレといい、今日の髪といい……十分すぎる」
「ナオキのほうが……っ」
リヴの声が小さく揺れる。
「やめて……僕まで恥ずかしくなります……」
ナオキが苦笑したことで、場の空気はさらに柔らいだ。
「ふふ……ほんとうにいい子たちね」
セラはくすくすと笑い、肩の力が抜けたようだった。
その優しい空気を、ヴァルターが軽く咳払いして整える。
「さて。髪と香りは一度置こう。本題は、これからだ」
ナオキとリヴが自然と背筋を伸ばした。
ヴァルターの目は、もう完全に商会を率いる男のものだった。
「ナオキ。続きを見せてくれ。工房向けの素材……あれが本題だ」
ヴァルターの声が落ち着いた低さで響いた瞬間、
机の上の空気が、ゆっくりと重心を変えた。
髪の話で盛り上がっていたラナも、クリームを指に広げていたセラも、
その気配に気づいたのか静かに動きを止める。
リヴは胸の前で指を重ね、ナオキにそっと目を向けた。
(ナオキ……どうする?)
そんな問いが薄い光のように滲んでいた。
ナオキは短く息を整え、机の中央へ手を伸ばした。
今回の本当の核心――工房向けの素材が入った小さな布袋を取り出す。
「これが……商会向けに相談しようと思っていたものです」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
興奮ではなく、慎重さの濃い反応だった。
「見せてもらおう」
ナオキは袋の口を静かに開き、掌にひと握りの灰色の粉を落とす。
光を浴びても特別に輝くわけではない。
香りもなく、見た目は地味で、地面の土にさえ似ている。
だが――
この世界には存在しない“機能”を持つ粉だった。
「……これは?」
ヴァルターは粉を指先でつまみ、慎重に手触りを確かめる。
粒子が極めて細かく、吸い付くように皮膚にまとわりつく。
「感触が……変だな。粘りも油っぽさもないのに……滑る。これは……ただの粉じゃないな?」
セラとラナもそっと覗き込む。
「お父さん、それ……なんの粉?」
「……商人としての勘が、静かに騒いでるところだ」
ヴァルターは粉を掌で転がしながら、目を細めた。
「ナオキ。これは何をするものだ? 料理用ではないな」
「はい。工房で使う素材として……役に立つものです。
熱と水に強くて……色を混ぜて使うと、塗装や防水に近いことができます」
「防水だと……?」
ヴァルターの目がゆっくりと見開かれる。
「木材、布、革……どれに使っても、湿気を防いだり、表面を守ったりできます。
量は多くありませんけど……少しだけなら扱えると思います」
ヴァルターは黙ったまま粉を見つめた。
長い呼吸のあと、低く呟く。
「……油紙袋よりも、紙そのものよりも……これは……危ない」
セラが驚いたように夫を見る。
「危ないって……どうして?」
「考えてみろ。防水が簡単にできるなら、馬車工房も、皮具工房も、船大工も……みんな欲しがる。
いや……喉から手が出るほど欲しがる」
ラナが思わず声を漏らす。
「そんなに……?」
「そんなに、だ」
ヴァルターは粉袋をそっと机に置き、深く息を吐いた。
「これは……国家が押さえに来てもおかしくない。
もし敵国が手に入れれば、軽い船が作れる。
雨でも湿気でも強い馬車が走る。
布も革も丈夫になる」
その説明を聞いて、リヴがそっとナオキの袖をつまんだ。
(そんなに……危ないの?)という目だった。
ナオキは静かに頷き返す。
「ヴァルターさんが言う通りだと思います。
だから……できるだけ目立たずに扱ってほしいんです」
「……ふむ」
ヴァルターは腕を組み、目を細めて考え込んだ。
その横で、セラが粉を眺めながら小さく呟いた。
「でも……もし布に塗って湿気に強くできるなら……冬の服や外套が丈夫になるわね。
子どもを持つ身としては、ありがたい品よ」
「お母さん、家の馬車の幌も長持ちしそう」
ラナが明るい声を添える。
ヴァルターは妻と娘の言葉に反応し、ゆっくりと息を吐いた。
「……確かに、使い方によっては暮らしが楽になる。
だが、ナオキの言う通り……慎重に扱うべきだ」
ここでナオキは、机の端へ視線を移した。
「実は……これだけじゃなくて。もうひとつあるんです」
リヴの目がまた丸くなる。
「まだ……あるの?」
「うん……これは、前に少し説明したかもしれません」
ナオキはポーチから細い筒状の道具を取り出した。
ヴァルターが思わず身を乗り出す。
「その形……前にちらりと見せていたやつか?」
「はい。携帯用の浄水器です」
セラとラナは「浄水器」という言葉の意味がすぐには分からなかったようだ。
互いに顔を見合わせてから、ナオキに視線を戻した。
「なにそれ……?」
ラナが首を傾げる。
「水を……きれいにする道具です。
川の水や、少し汚れている水でも……これで通すと安全になります」
「安全って……どういうこと?」
セラが息を飲む。
「そのまま飲んでも大丈夫、ということです。
旅でも……街でも……水が怪しい時に使えます」
予想外の言葉に、ヴァルターはしばらく言葉を失った。
「……飲める水にする……だと……?」
「はい。中に細かい……膜のようなものがあって。
それを通ると……不純物が抜けていきます」
ヴァルターの口元がわずかに震えた。
「それは……薬師ギルドと教会が同時に動くぞ……。
衛生の問題だ……村でも街でも……大量に欲しがる」
「量は……本当に少しだけです」
ナオキはすぐに言葉を添えた。
「たくさんはありません。だから……一家にひとつ、旅で使う程度なら……」
ヴァルターは額を押さえながら、深いため息をついた。
「……これほどの品を……どうしてこうも簡単に出してくる……」
「簡単じゃないですよ……」
ナオキはやんわり微笑んだ。
「俺だって……慎重に考えて持ってきました。
ヴァルターさんだから……出せるものです」
ヴァルターはゆっくりと顔を上げた。
その目には、商人としての鋭さだけでなく――
信頼を受け取った人間の誇りが滲んでいた。
「……ありがたい。
お前のその言葉が何より重い」
セラは胸に手を当て、少しほっとしたように笑った。
「あなた……良かったわね。
信じてもらえるって……商家にとって何より大事よ」
ラナもリヴの横で小さく頷いた。
「ナオキ……すごいね……」
リヴが囁くように言う。
「すごくないよ……ただ……信じてほしいだけだから」
その答えに、リヴの頬がふわっと赤く染まった。
ヴァルターは姿勢を正し、机の上の品々を見渡した。
「……ナオキ。この粉と浄水器は……慎重に扱う。
商機も、危険も、両方ある。
だが――お前の願いを最優先する。
絶対に……勝手な使い方はしない」
その宣言は、重くて静かな約束だった。
ナオキは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ヴァルターは大きく息を吸い、家族に向き直る。
机の上の浄水器や粉袋から離れ、ゆっくりとリヴへ向けられる。
「……ところでだな。昨日の宴のときの話だ」
「えっ……?」
リヴがきょとんと首をかしげた。
ナオキも続きが読めずに瞬きをする。
ヴァルターは、妙に真剣な顔で言った。
「リヴ。お前の髪……どうしてあんなに光ってた?」
「へっ……?」
リヴの耳がぴくりと跳ねる。
頬が一瞬で赤くなる。
「だって……火のそばでも、揺れるたびに光ってた。
あれは油を塗ったわけじゃないよな?」
「ぬ、塗ってない……! 変なこと言わないで……!」
「じゃあなんなんだ?
昨日の客全員が見てたぞ。お前だけ、髪が別物だった」
リヴは小さく震え、「ナオキ……」と助けを求める目を向けた。
ナオキは少しだけ照れたように笑い、静かに言った。
「……僕の国で使ってた、髪を洗う道具を、昨日使ったんです」
ヴァルターが勢いよく椅子から半分起き上がる。
「それだ!!」
「わっ……!」
「やっぱりそうか……!
セラもラナも朝からずっと言ってたんだ。
『リヴちゃんの髪、どうなってるの?』ってな……!」
そのタイミングで、扉の向こうから気配が近づいてきた。
さっき退室した二人の声が小さく重なる。
「あなた、声が大きいわよ……」
「お父さん、絶対それ聞いてた……」
申し訳なさそうに戸を開け、セラとラナが再び顔をのぞかせた。
ヴァルターが振り返り、慌てたように言う。
「すまん、つい……!」
ラナはすぐにリヴのもとへ小走りに寄り、両手で彼女の髪先をそっとつまんだ。
「リヴ……やっぱりすごい……!
朝の光で見ても、つやつやだよ……!」
「わ、わたし……そんなつもりじゃ……!」
リヴは耳まで真っ赤になり、ナオキの袖にしがみつく。
その姿があまりに初々しく、セラが柔らかく笑った。
「リヴちゃん、本当に綺麗よ。
料理場で火を使うと髪が傷むのに……昨日は全然だったわ」
「う、うぅ……そんなに言わないで……!」
ラナは自分の髪を指で触りながら、真剣な顔になる。
「ねぇナオキ。あの道具、もう一回見てもいい?」
「え、えっと……量はあまり無いですが……」
「ちょっとでいいから!
あれ、街で売ったら……大変だよ。
冒険者の小屋なんて、髪のきしみで喧嘩が起きるのに……!」
ヴァルターがすかさず口を挟む。
「売らん!!
少なくとも、この街には出さん!!」
「えー、お父さんだけズルい!」
「ズルくない!! あんなもん、扱い間違えたら貴族が喧嘩を始める!!」
机を挟んで一家がわいわいと盛り上がり、
ナオキは少し離れたところで苦笑した。
(こんなふうに笑ってくれるなら……出した甲斐があったな)
リヴはナオキの袖をつまんだまま、そっと顔を上げる。
「……ナオキ。わたし、そんなに変だった……?」
「いや。すごく綺麗だったよ。
灯りの下だと、ちょっと眩しいくらいに」
「……っ……!!」
リヴはさらに真っ赤になり、ナオキの背中に隠れようとする。
ラナがすかさず追撃する。
「ほらー! ナオキが言うと余計に照れるんだよね!」
「や、やめて……!」
そんな賑やかな声の中で、セラは優しい目をして言った。
「でもね、リヴちゃん。ああいう輝きは心にも出るのよ。
昨夜、あなた……本当に嬉しそうだったもの」
「……うん。
……ナオキと、ヴァルターさんたちと……いっしょで……
とても……よかったから……」
その小さな声に、部屋全体がふっと静かになり――
次の瞬間、ラナが満面の笑みでリヴに抱きついた。
「うん! わたしも嬉しい!!」
「わっ……!」
ヴァルターが頭をかきながら言った。
「まったく……お前たちは……
いい、もう今日は商売の話は終わりだ。
こんなの見せられたら仕事にならん」
セラが苦笑し、ナオキも笑った。
粉袋も浄水器も、机の端で静かに影を落としている。
だが今この部屋に広がっているのは、
それらの重さを軽々と越えていく、あたたかい気配だった。
「よし。昼には少し良い茶を淹れる。
今日くらいは、ゆっくりしていけ」
ヴァルターのその言葉で、空気が完全に緩む。
ラナとリヴは並んで笑い、セラは穏やかに肩をすくめた。
ナオキはそっと息をつきながら思う。
(……この家で良かった。本当に)
光が差し込む窓のそばで、リヴの髪がまたふわりと揺れた。
昨日と同じように、柔らかい光を受けてきらきらと輝く。
それは、秘密の重さを抱えながらも、
小さな暮らしを続けていこうとする二人にとって――
とても心強い光だった。




