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32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~  作者: ひろボ


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ヴァルターが背負うもの

 翌朝の空気は澄んでいた。

 瓦屋根の向こう側で太陽がゆっくり昇り、街の輪郭を金色に縁取っていく。ヴァルター家の客間には柔らかな光が入り込み、静かな寝息を包むように漂っていた。ナオキとリヴは、昨日の宴の余韻がまだ薄く残る部屋を後にし、廊下に並んで出た。


 廊下の空気はひんやりとしていて、まだ朝の始まりを自覚していないような静けさが広がっていた。大きな商会の屋敷であるにも関わらず、足音ひとつ響かない。影が床に長く伸びており、誰かが歩いた痕跡も薄い。


「……すごく静かだね」


 リヴが袖をつまんだまま、そっと声を落とした。

 耳がぴんと動き、空気の流れを探るように周囲を見渡している。


「まだ朝早いから……かな。いつもより静かかもしれない」


 やわらかく返したが、胸の奥では言いようのないざわつきがくすぶった。廊下の静けさは、ただの“早朝”だけでは片付けられない重さを帯びているように感じられた。


 昨日の夜、ヴァルターはあれほど豪快に笑って家族と食卓を囲んだ。酒も甘味も喜んでくれた。セラもラナも、笑顔の花が開いたような表情を見せてくれた。

 その雰囲気が、今は跡形もなく消えている。


(呼ばれた理由……挨拶だけではない)


 ナオキは心の中で静かに呟いた。

 ヴァルターの声の調子、視線、少しだけ硬かった眉筋。何かを決意した者の空気が、昨日の夜の終盤には漂っていた。


 廊下の先に応接室がある。扉は重く閉ざされていた。

 その扉は、誰かの気配を漏らさないようにひっそりと沈んでいる。


 リヴが小さく袖を引いた。


「ナオキ……」


「大丈夫。きっと、ただ話がしたいだけだよ」


 そう言いながらも、胸の奥の重さは消えない。

 リヴの指先の震えが、その重さに寄り添うように伝わってくる。


 扉の前に立った時、部屋の内側から声がした。


「……入れ」


 昨夜の華やぎとはまったく違う、静かな呼び声。

 強く響かないのに、拒めない重さを持っている声だった。


 二人は扉を押し開けた。


 応接室は、朝の光が薄く射し込むだけの静寂に包まれていた。

 昨夜の賑わいがまるで幻だったかのように、空気は落ち着き、どこか張り詰めている。


 ヴァルターは窓際に立ち、瓶を手にしていた。

 昨日の酒だ。琥珀の光を閉じ込めた瓶が、朝の光を受けて揺れ、薄い金の色を床に落としている。


「座れ。話がある」


 穏やかだが、内容を選ぶ声だった。


 ナオキはリヴと並んで座り、リヴは不安そうに彼の袖を握った。

 ヴァルターは瓶をテーブルに置き、しばらく沈黙を置いてから言葉を落とした。


「昨日の酒宴のことを言いたいんじゃない」


 いきなり核心に触れないその言葉に、ナオキは小さく息を飲んだ。


(……昨日ではない?)


 ヴァルターは続ける。


「初めて商会に来た日のことだ。瓶詰めを見せたとき、お前は言った」


 彼はゆっくり視線を向けた。


「“この世界の瓶は厚みが均一ではありません”と」


 リヴがびくりと肩を揺らし、ナオキの腕をぎゅっと掴んだ。


「俺はあの言い回しが、耳に妙に残っていてな。昨日の品々を見て……ようやく合点がいった」


 ヴァルターの声は淡々としているが、その奥には“理解してしまった者の重さ”が静かに宿っていた。


「ナオキ。お前は……自分で思っている以上に危ない言い方をしたんだ」


 その一言で、応接室の空気がさらに沈んだように感じられた。


 ナオキは思わずまばたきし、低く問い返した。


「危ない……ですか」


「危ない」


 ヴァルターは即答した。

 怒りではなく、状況を真っ直ぐに見つめる者の声だった。


「もしあの言葉が他の耳に入っていれば……昨夜お前がいたのは家族団欒の席ではなかったかもしれん」


 リヴが小さく息を呑む。


「でも……ナオキは瓶の説明をしただけで……」


「余計なのは、“この世界”という言い方だ」


 ヴァルターは言葉を区切って言った。


「旅の職人も、北の人間も南の人間も、そんな言い方はしない。“この国は”“この街は”。せいぜいそこまでだ。“この世界”なんて言葉を、俺は聞いたことがない」


 ナオキは静かに息を吸い、リヴは不安げに視線を揺らした。


 ヴァルターは続ける。


「昨日、お前が持ち込んだ品を見て確信に近づいた。酒瓶の透明度、刃物の質、缶詰の保存状態……どれもこの国の技術から遠すぎる」


 ナオキは喉が細く鳴る音を自覚した。

 リヴは寄り添うように腕に頬を寄せ、小さく呟いた。


「じゃあ……ナオキを疑ってるってことじゃ……」


「疑ってはいない」


 ヴァルターはその言葉だけは強く否定した。


「むしろ逆だ。お前らを守るために、この話をしている」


 リヴの表情に少し光が戻る。

 ナオキも胸の奥がじわりと温かくなる。


 だがその温度は、すぐに別の重さに変わった。


「いいかナオキ。“未知”は、権力者にとって脅威だ。お前が善良であろうと関係ない。既存の技術から外れるだけで、“どこかの密偵かもしれない”と疑われる」


 ナオキは思わず目を伏せた。


「僕は……誰かを困らせたいわけじゃなくて。ただ喜んでもらえたら、くらいで……」


「分かってる。だが、あいつらは違う」


 ヴァルターは静かに言葉を重ねた。


「遠征の兵は缶詰を欲しがるだろう。刃物は腕利きの鍛冶師の脅威となる。硝子は調薬師をざわつかせる。砂糖の扱いを王族が知れば、必ず詮索が始まる」


 リヴが顔を固くし、袖を握った手がまた震えた。


「じゃあ……ナオキは、この街で……」


「だからこそ、後ろ盾が必要だ」


 その言葉に、ナオキは顔を上げた。


「後ろ盾……?」


「そうだ。庇護だ。お前がどこの誰であろうと、口を出させないほどの力がな」


 ナオキは息を飲む。


「それは……誰が」


「俺だ」


 ヴァルターは、迷いの影すら見せなかった。


 リヴの唇が震え、ナオキの腕にぎゅっと寄り添った。

 ナオキは一瞬目を見開き、そして自然と背筋を正した。


 ヴァルターの声は、父のようにまっすぐで、揺るがなかった。


「ナオキ。お前は俺にとって、ただの取引相手じゃない。昨日の家族の笑顔、お前の誠実さ……あれを見て決めたんだ。お前は守るべきだと」


 朝の光が、静かに床を照らしている。

 その光の中で、ヴァルターの影は大きく、頼もしく映った。


(……守る、べき……)


 胸の奥に、言葉がゆっくり沈んでいった。


 ヴァルターは椅子の背にもたれず、身体をほんの少しだけ前へ傾けた。その姿勢は、相手を威圧するためではなく、“正面から話す”という意思を静かに示していた。


「お前が何を持ち込もうと、どこの技術を扱おうと……もし害する者がいれば、この俺が前に立つ」


 その一言は、重さよりも温かさが勝っていた。


 リヴのまつげが揺れ、胸元で両手をぎゅっと握りしめる。彼女の瞳には、驚きと安堵が同時に浮かんでいた。


「……ヴァルターさん……」


「安心しろ、リヴ。ナオキを守るということは、お前も守るということだ」


 その言葉に、リヴの肩から力が抜けた。

 ナオキの指先が自分の袖をつまむ気配に気づき、そっと彼女の手を握ると、リヴはかすかに震えながらも安心したようにしがみついた。


(守る……こんなにもはっきりと言われるなんて)


 状況の重さよりも、胸の奥で何かが溶けていく感覚のほうが強かった。


 ヴァルターは続けた。


「だからこそだ。貴族や王族の耳に届きそうな時は、“ヴァルター・ライナスが後ろにいる”と言え。それだけで余計な詮索は止まる」


「僕なんかに……そんな大きな後ろ盾、使っていいんですか」


「使え。遠慮をするな。街で生きていくには、必要な時が必ず来る」


 淡々と告げられるが、その裏には“経験から来る確信”があった。


 リヴがそっと顔を上げ、控えめに口を開く。


「……ヴァルターさん……どうして、ここまで……」


「お前らは、昨日見ただろう。家族の顔を」


 ヴァルターの表情が少しだけ緩んだ。

 昨夜の笑い声を思い出すような、穏やかで深い目だった。


「俺はこの街で長く商売をやってきた。多くの人間を見てきたし、いろんな取引をしてきた。だが……昨日ほど家族が喜んだ夜は、そう多くない。あれを見て思ったんだ。お前と出会ったのは、商売の縁じゃなく……もっと大事な縁だとな」


 ナオキは一度まばたきをし、胸の奥が温かくなりすぎて言葉が出てこなかった。


 ヴァルターは照れを隠すように視線をそらし、机に置いた羊皮紙へ手を伸ばした。


「お前のために、取引手形を作る」


「取引……手形?」


 リヴが不思議そうに繰り返す。


「簡単に言えば、お前の扱う品の出どころを俺が保証する証だ。お前が何を売ろうと、誰が“怪しい”と口を挟もうと……俺が前に出て止める」


 ナオキは驚きに固まった。

 それはただの商人の厚意ではなく、この街で生きる者の“鎧”だった。


「でも……そんな大事なものを、僕なんかのために……」


「お前なんか、じゃない」


 ヴァルターの言葉は静かだが、ちゃんとナオキを見据えていた。


「お前は……俺の家族を笑わせた。あの価値は、商売の利益じゃ計れん」


 リヴが胸に手を当て、やわらかく微笑んだ。

 その表情には、昨夜の温かな光景の全部が映っている気がした。


「それに……お前たちは危険の縁に立っていることを、自覚していない」


「危険……ですか」


 ナオキの声は小さく、揺れていた。


「缶詰だけでも軍が欲しがる。砂糖が動けば王族が騒ぐ。硝子の透明度は調薬の価値を変える。俺が動かなければ、そのうち“どこから来た技術だ”と詮索が始まる」


 リヴが怯えたようにナオキの袖をぎゅっと掴む。


「ナオキ……嫌だよ。捕まったり……どこかに連れていかれたり……」


 彼女の声は震えていて、胸の奥まで響いた。

 ナオキはその手を優しく包み、静かに首を振る。


「大丈夫。リヴが不安になるようなことは……絶対にしないよ」


 そのやり取りを見て、ヴァルターは深く息を吐いた。


「だから俺が盾になると言っている。お前らは前を歩け。その後ろで、俺が道をならす」


 その言葉は、この街で商会を率いてきた者の“覚悟”そのものだった。


 ヴァルターは指先で羊皮紙を軽く叩いた。


「ただし、条件が二つある」


 ナオキは姿勢を正し、リヴも息をのむ。


「ひとつ。技術の説明はしない。“商売の秘密です”で押し通せ」


「……はい。気をつけます」


「もうひとつ。お前の品は必ず俺を通せ。他の商会に流せば、どこかで足がつく。それはお前たちの身に返る」


 リヴがしゅんと肩を下げ、呟いた。


「やっぱり……危ないんだね……」


「危ない。だが、俺が噛めば半分以下に減る」


 ヴァルターは静かに続けた。


「この街は見た目より複雑だ。香油の流れ、薬草、金属、食糧。そのどれもが貴族の取り分を揺るがせば揉める。俺はそこに割り込めるだけの力がある。お前の品は……その“安全な流れ”に組み込むのが一番いい」


 ナオキは胸に重さと安心の両方を抱え込むように息を吸った。


「……俺は……守られる価値なんて……」


「ある」


 ヴァルターは迷いなく断言した。


「昨日の家族の笑顔。それから……お前の誠実さ。あれを見れば分かる。お前は守られるべき男だ」


 言葉は飾っていないのに、胸の奥まで染みる。

 リヴの目に涙が浮かび、頬に光が揺れた。


「ナオキ……よかった……」


「リヴ……ありがとう。君が隣にいてくれたから、ちゃんと聞けてる」


 リヴは胸に手を当て、ホッとしたように笑う。


 ヴァルターはそんな二人を見て、ふっと口元を緩めた。


「それでいい。お前たちはそうやって支え合っていけ。俺が後ろから支える」


 彼は羊皮紙を押し出し、ゆっくり言った。


「――受け取れ。今日からお前は、ヴァルター商会の仲間だ」


 ナオキは深く息を吸い、紙に指を触れた。

 指先に伝わった微かなざらつきに、ただの紙以上の重みを感じる。


「……はい。本当に……ありがとうございます」


 ヴァルターは満足げに頷き、大きな手を差し伸べた。


「よろしく頼むぞ、ナオキ」


「はい……よろしくお願いします」


 二人の手がしっかりと結ばれた瞬間、商会の窓の外で市場の準備を始める音が響いた。

 新しい朝が、確かに動き始めていた。


 握手がほどけると同時に、ヴァルターはゆっくりと椅子へ腰を下ろした。

 だがその動きには、緊張が解けたというより、“ようやく本題を続けられる”とでも言いたげな余裕があった。


「さて。堅い話はここまでだ。ここからは商談だ」


 空気がほんの少し軽くなる。

 けれど軽くなりすぎることなく、朝の静けさがまだ部屋全体にうっすら残っていた。


「商談……ですか」


「そうだ。ただし心配するな。お前を縛りつけるための話じゃない。守るために把握したいだけだ」


 ヴァルターは大きな指で酒瓶を軽く叩き、その琥珀色の揺れを眺めた。


「まずは……缶詰の話から聞こう。どの程度の種類がある?」


 ナオキは姿勢を正した。

 リヴも隣でそっと膝を揃え、真剣な表情を浮かべている。


「えっと……話せる範囲だと、肉と魚、それから果物が多いです。長く保存ができて……味も、あんまり落ちないものが多いです」


「昨日の甘味を見れば、その凄まじさは十分分かる」


 ヴァルターは鼻を鳴らしながらも、どこか楽しげだった。


「特に果物の缶は……あれはこの街の価値観をひっくり返すぞ。あんなに甘い果物が、季節に関係なく食えるなんて……王族が腰を抜かす」


 リヴが苦笑し、ナオキの袖をそっと引く。


「ヴァルターさんの言い方……ちょっと怖いけど、たぶん本気だよね」


「本気だ」


 ヴァルターは即答した。


「果物の保存は、この街では贅沢だ。蜂蜜漬けすら高級品だしな。それが缶で手軽に味わえるとなれば……確実に“欲しがる連中”が出てくる」


「……やっぱり、危ないんですね」


「だが、逆に言えば……価値は計り知れないということだ」


 ヴァルターは椅子に背を預け、酒瓶の口に軽く指を添えながら続けた。


「だが安心しろ。俺が流れを押さえる。流通を絞れば、誰も勝手に手を伸ばせない」


 その言い方は威圧的ではなく、ただただ経験から来る“揺るぎない自信”に満ちていた。


「他には?」


「他には……話せる範囲でですけど、菓子類ですね。クッキー、バタークッキー、チョコレート……あとはジャムとか」


「甘味か。昨日の家族の顔を見れば、価値は十分分かる」


 ヴァルターは苦笑した。


「ラナは……まあ、予想してはいたが、あそこまで素直に反応するとは思わなかったな」


「すごく喜んでましたね」


「喜んでいたどころじゃない。あれは……なんだ……魂を持っていかれていたぞ」


 リヴが小さく吹き出した。


「でも、わかるよ。甘いものって……胸がふわっとして、忘れたくない気持ちになるもん」


「そうだ。あの感覚こそ、商機にもなるし……“幸せを運ぶ品”とも言える」


 ヴァルターは真剣な表情のまま、静かに頷いた。


「ナオキ。お前が扱う品は、単に便利なだけじゃない。人を笑わせる力がある。そこが……一番の価値だ」


 ナオキは言葉を失った。

 自分でも気づいていなかった“価値”を、目の前の男がこんなにもはっきり言うとは思っていなかった。


 リヴはそっとナオキの肩に触れ、やわらかく笑った。


「ね。ナオキの持ってくるものって……どれもすごいよ」


「いや……そんな、大したことじゃ……」


「大したことだ」


 ヴァルターが割り込むように断言する。


「昨日の酒だってそうだ。香りが強いのに、嫌味がない。喉に落とした瞬間に広がる熱……あれは鍛冶職人の酒でも、王族用の酒でも作れん」


 ヴァルターは酒瓶を机に置き、指で軽く回した。


「この瓶そのものもそうだ。硝子の透明度、厚みの均一さ……調薬師や魔術師が見たら欲しがる」


 リヴが目をぱちぱちさせた。


「瓶……も、価値があるの?」


「ある。どころじゃない。これだけ澄んでれば、中身の状態を魔術で読み取るのにも便利だ。毒見の手間が減る」


 ナオキは思わず息を呑んだ。


(そんな使い道まであるなんて……考えもしなかった)


 ヴァルターは真剣な顔をして言った。


「だからこそ……お前たちが動く前に、俺が先に道を整える」


 その声は、商人のものではなく、守る者のそれだった。


 リヴが不思議そうに首を傾げる。


「ねぇ……ヴァルターさん。どうして、そこまで……?」


「言っただろう。あの夜だ」


 ヴァルターはふっと笑った。


「セラもラナも、あれだけ笑ったのは久しぶりだ。お前らが持ち込んだ酒も甘味も……あの子らには宝だった」


 ナオキの胸がじんわりと温かくなる。


「だから……守る価値がある」


 その言葉を言うときのヴァルターは、父親のように穏やかだった。


 ナオキが何か言おうとした時、ヴァルターが急にため息をついた。


「……それにしても、ナオキ」


「はい?」


「お前、自分で気づいてるか?」


「え……?」


「昨夜の酒の席で……俺よりリヴに囲まれていたぞ」


「えっ!? なんでそうなるんですか!」


 リヴがぴくっと反応し、


「えっ……そう、かな……? ちょっと……近かっただけ、だよ……?」


 頬を赤くしながらも小声で言い訳をした。


「ちょっと、じゃなかったぞ。ほとんど……腕にくっついてた」


 ナオキは耳まで真っ赤になった。


「そ、それは……安心してもらいたくて……!」


「ふむ。まあ、それならそれでいい」


 ヴァルターは腕を組み、満足そうに頷いた。


「仲がいいのはいいことだ。商会としても安心する」


「なにその理由……」


 ナオキの小さなぼやきに、リヴがくすっと笑い、袖を引いた。


「ナオキ、恥ずかしがってるの可愛い……」


「リヴ、それも恥ずかしいから……!」


 応接室の空気が、ふっと柔らかくなった。


 柔らかな空気が戻った応接室で、ナオキは深く息をついた。

 張り詰めていた肩がようやく落ちて、胸の底まで空気が届くような感覚があった。


 リヴは隣でそっと息を整え、小さく肩を寄せてくる。

 その仕草は緊張が抜けた合図のようで、ナオキは自然と微笑んだ。


「さて」


 ヴァルターが手を叩き、場を締め直した。


「これからは“本当に大事な話”に入るぞ」


「さっきのより……もっと大事なんですか?」


「さっきのは“守るため”の話だ。これからは“進むため”の話だ」


 言い回しはあくまで落ち着いているのに、言葉の奥には確かな熱があった。


「まず……お前が扱える物の範囲を教えてくれ。多くなくていい。方向性だけ知れれば十分だ」


「方向性……そうですね。食べ物が中心です。日常の物……生活を少し楽にする物も、ありますけど」


「食べ物だけでも十分だ。昨日の甘味で、もう“市場が動く”と確信した」


 ヴァルターは少し身を乗り出し、低い声で続ける。


「いいか、ナオキ。“食”は街の命だ。武器より、薬より、人の舌と腹に届く物のほうが強い」


「そんなに……ですか」


「そんなに、だ。昨日、家族がどうしてあれほど喜んだか……思い出せ」


 ナオキは少しだけ視線を落とし、昨夜の笑顔を思い浮かべた。

 スプーンを握ったラナの手の震え、セラの涙、ヴァルターの驚いた顔──

 甘い香りが部屋いっぱいに広がったあの夜の熱が、胸の奥に静かに蘇る。


「甘味は……人の心を明るくする」


 ヴァルターの声がゆっくりとした響きを持つ。


「貴族でも平民でも、子どもでも老人でもだ。人種が違っても変わらない。甘いものは……誰もが欲しがる」


 リヴがそっとナオキの袖をつまんだ。


「ね、ナオキの持ってくるものって……こういうところがすごいんだよ」


「……大げさだよ」


「大げさじゃない」


 ヴァルターが即答した。


「お前の技術は人を笑わせる。人を救う。そんな品は、この街にはそう多くない」


 そう言ってから、ヴァルターは深く椅子にもたれかかった。


「……だからこそ、守りたいと思ったんだ」


 その言い方は、家族を守る男のそれだった。


 ナオキは小さく息を呑む。

 リヴの指先が優しく手を握ってくれる。


「ヴァルターさん……」


「勘違いするな。恩を売りたいわけじゃない。お前に何かを要求する気もない」


 ヴァルターは苦笑しながら片手を上げた。


「ただ、俺は見てしまったんだ。あの酒の香りで幸せそうに笑う家族の顔も、甘味を食って泣きそうになる娘も、初めてあんな柔らかい表情を見せたセラも」


「……昨日の夜ですね」


「そうだ。あれを見て、決めた」


 ヴァルターはゆっくりと言葉を重ねた。


「守りたいものができたら……動くべきだとな」


 リヴが胸に手を当ててうつむき、目元をそっと拭った。


「……ナオキ、わたし嬉しい……」


「うん……僕も、すごく」


 ヴァルターはそんな二人を見て、ほんの少し照れたように視線をそらした。


「で、だ」


 一拍の間を置き、声を戻す。


「お前たちはこれから商会の“仲間”だ。俺の庇護の下に入る。その代わり、お前たちは自分の技術を無理に増やす必要はない。できる範囲でいい。安全第一だ」


「……ありがとうございます。本当に」


「礼はいい。守ると決めたから守る。それだけだ」


 ヴァルターは羊皮紙をナオキの前に押し出した。

 そこには、まだ何も書かれていない。


「ここに俺の名を記し、“取引手形”として扱う。お前がどこへ行こうと持ち歩け。何か言われたら……この紙を見せればいい」


 リヴが驚いて目を開く。


「そんなもの……持ってていいの?」


「持っていなきゃ困る。お前たちを守るための紙だ。街で商うなら、後ろ盾が必要だ」


「ありがとう……」


 リヴの声は震えていた。


「礼はいいと言ってるだろう」


 ヴァルターは照れ隠しのように鼻を鳴らした。


「それに……」


「それに?」


「昨日ラナがな……寝る前に言ったんだ」


 ヴァルターは少しだけ照れたように笑った。


「“ねぇお父さん、あの二人、また来てくれるよね”ってな」


 ナオキは胸がふっと熱くなった。


「……もちろん、来ますよ」


「そのためにも……守らねぇとな。二人のことを」


 リヴは袖を口元に当てて、小さく笑った。


「ラナ、かわいいね……」


「かわいいだろう。俺の自慢の娘だ」


 ヴァルターは急に真顔に戻り、軽く指をトントンと机へ当てた。


「さて。話は以上だ。あとは……実務の確認だけだ」


「実務……」


「缶詰は……持ち込む量を調整しろ。少なすぎても怪しまれるが、多すぎても目立つ。そして“どうやって作ったか”は絶対言うな」


「わかりました」


「甘味は分量を絞って扱う。昨日の量を毎回出していたら、街中がひっくり返る」


「そんなに……?」


「そんなにだ。娘の顔を見ただろう。あれが街中で起こるんだぞ」


 ナオキは肩をすくめて笑った。

 リヴは「確かに……」と小声で呟いた。


「酒は……扱いを俺がする。強い酒は“贈答品”として流したほうが安全だ。お前たちが直接売る必要はない」


「はい」


「硝子瓶も……供給は調整する。あの透明度は魔術師が騒ぐ。気をつけろ」


「気をつけます」


 ヴァルターは深く頷き、ゆるりと立ち上がった。


「よし。ひとまずはこれでいい。これから忙しくなるぞ。お前たちにも、俺にも」


 リヴが小さく首をかしげる。


「忙しくなるって……?」


「俺の商会の規模が一段階跳ね上がる。お前たちのおかげでな。だからこそ……守る覚悟がいる」


 ナオキはふっと息を飲んだ。

 リヴはそっと手を握り返す。


「……ヴァルターさん。本当に……ありがとうございます」


「何度も言わせるな。必要だからやるだけだ」


 ヴァルターは背中を軽く叩き、言葉を締めた。


「これからよろしく頼むぞ。ナオキ。リヴ」


「よろしくお願いします」


「よろしく……お願いします」


 その瞬間、外の市場のざわめきが、窓の向こうからゆっくりと広がった。

 新しい朝が、ほんとうに始まったのだとわかる音だった。


 ナオキとリヴは互いを見つめ、小さく笑った。

 その笑みの奥には、昨夜よりも深く確かな決意が宿っていた。


 こうして──

 ナオキの未来とヴァルターの覚悟は結ばれ、

 街の流れは静かに、しかし確かに変わり始めた。

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