香りの宴、はじまる夜(前編)
階段を上がる途中から、もう夕餉の匂いがしていた。
焼いた肉の香ばしさ、煮込みの湯気、香草の刺激。
その全部が混ざって流れてくるだけで、歩き疲れた脚の奥までほどけていくようだった。
ナオキは思わず足を止め、小さく息を吸った。
町の香りとはまた違う、家の中だけにある安心の温度が胸に落ちた。
「……今日、いい日だね。こういう“人の家の匂い”って落ち着く」
隣でリヴが、胸の前で指をそろえながらそっと笑った。
その声にナオキも自然と頬がゆるむ。
扉を開けると、台所の奥からセラとラナが忙しく動く音がした。
ヴァルターの大声がすかさず飛んできた。
「おう来たか! 遠慮すんな、さっさと入れ! ラナ、客人用の椅子を持ってこい!」
「はーい!」
ラナが軽い足音を連れて椅子を運んでくる。
顔がほんのり赤く、嬉しさが隠せていない。
「ナオキさん! 本当に戻ってきたんだね!」
「ただいま。ラナも元気そうだね」
「うん! あの……すっごくおいしいやつ、また持ってきた?」
言葉に期待が丸ごと乗っていた。
リヴは優しく目を細める。
「持ってきたよ。前より多いよ」
「本当に!? お母さん、ねぇ聞いた!?」
台所の奥からセラの柔らかい笑い声が返る。
「ええ、聞いたわ。……あの味は、忘れられませんもの」
セラがリヴの顔に目を向け、ふと表情がやわらぐ。
「リヴさん、今日は湯に入ったのね。……とてもいい匂いがするわ」
「うん。ここのお風呂、すごく気持ちよかったよ」
リヴが髪を指先で整えると、花のような香りがふわりと揺れた。
その瞬間、ラナが思わずリヴのほうへ寄る。
「お母さんも匂いたいんでしょ?」
「ちょ、ちょっと……ラナ!」
そんな他愛もないやり取りだけで部屋が明るくなる。
ナオキはその光景を見ながら、胸の奥がじんわりとほどけていくのを感じた。
テーブルには、セラが次々と料理を運んでくる。
香草をまとったロースト鳥肉、大皿の煮込み、揚げた薄いパン、蜂蜜酒の香りをふくむ焼き菓子。
商家ならではの豊かな匂いが、夕暮れの空気にふんわり広がった。
ヴァルターが豪快に両手を叩く。
「よし、座れ座れ! お前らの席もちゃんと用意してるぞ!」
その勢いのまま、ナオキの足元の包みに気づいた。
「おい、それ……酒だろ? ほれ、ここ置け!」
促され、ナオキは包みを開いた。
夕陽の色を宿した琥珀の瓶。
深い黒のラベル。
ひと目で香りの強さが伝わる、落ち着いた琥珀色。
リヴが少し得意そうに微笑む。
前に比べて量も種類もはるかに多い。
「おお……瓶の色だけで旨そうだな……」
ヴァルターがごくりと喉を鳴らす。
だが視線が酒よりも先に“瓶”そのものに吸い寄せられていた。
「……おい待て。これ……硝子の厚みが均一だぞ?
どうやったら、こんなに滑らかな……」
掌にころりと乗せ、角度を変える。
「細工を施したわけでもないのに……
中の酒が光で揺れるのがそのまま透けて見える……
硝子って、こんなに澄むのか……?」
セラもそっと瓶を手に取る。
「……すごい……。
まるで冷たい水をそのまま固めたみたい……」
ラナは瓶を抱えるように覗き込む。
「宝石みたい……。これ、本当に飲み物が入ってるの……?」
夕陽が瓶に当たり、光がテーブルに反射する。
琥珀色が揺れ、まるで踊る小さな灯りのようだった。
その明かりに照らされ、セラが息を呑む。
「香りだけで……もう食事が進みそう……」
「こりゃ……飲む前から酔いそうだな」
ヴァルターがそっと栓を抜く。
木製の栓がコトリと音を立てた瞬間──
香りが空気をまるく震わせた。
樽の甘さ、木の深い香り、薪の温もり。
それらが入り混じり、喉の奥へやわらかい熱が流れ込むようだった。
「……なんだこれは……。
酒って、こんな香りを持つものなのか……?」
ヴァルターは驚いたように目を見開く。
「嫌な匂いじゃない……ふんわり甘い……」
セラがそっと言った。
ラナは香りを吸い込むだけで頬が赤くなる。
「お菓子みたい……いい匂い……」
リヴは酒の瓶を見つめていたが、ナオキが小さく首を振ると、すぐに視線をそらした。
「……飲まないよ。ちゃんと……約束してるし。ナオキが止めるなら、飲まないもん」
それを聞いたセラが、ふっと優しく笑う。
「あなた……ずいぶんしっかりしているのね」
「うん。飲めるようになるまで……あと五年くらいかな」
「五年後……ラナと同じくらいかしらね」
「そしたら……いっしょに飲むよ」
ラナは目を輝かせ、胸の前で両手をぎゅっと握る。
「飲む飲む! リヴと飲む!」
「だめだぞラナ、飲むのはもっと先だ!」
ヴァルターのツッコミに、テーブルが明るく揺れた。
そして──
ヴァルターが酒をひと口飲んだ瞬間、表情が変わった。
「……っ……これは……なんなんだ……
酒なのに……喉が痛くない……。
熱が灯るみたいなのに……優しい……」
セラが小さく味を確かめ、胸元に手を当てる。
「これ……料理と合わせたら……どうなるのかしら……」
「ねぇ、お酒ってこんなにいい匂いなの?」
「ラナは飲まんでよい!!」
家族の笑い声が重なり、室内の空気が一段と温まった。
テーブルが明るい笑いと香りで満たされた頃──
ナオキはそっと袋から缶詰を取り出した。
「……開けていい!?」
ラナがスプーンを握りしめ、期待が溢れている。
「もちろん。今日の主役だからね」
ナオキが頷いた瞬間、ラナは慎重に缶切りを回し、蓋を外した。
甘さが、空気を押すように広がった。
缶詰の蓋が外れた瞬間だった。
甘い香りが──
まるで空気を押し広げるように、部屋じゅうへ広がった。
果物そのものよりも濃く、
煮詰めた蜜のような深い甘さ。
なのに胸にしつこく残らない、軽い香り。
ラナはスプーンを握ったまま固まった。
「……香りだけで……甘い……。
なんか……胸がふわってなる……」
スプーンを恐る恐るすくい、一口。
その瞬間、娘の肩が小さく震えた。
「っ……なにこれ……。
生の果物より甘い……なのに軽い……。
やだ……これ……止まらない……」
セラもひと口食べると、胸元に手を当てた。
「……こんな味……知らなかった……。
果物って……こんなに優しい甘さになるのね……」
「食べ物で……心が溶けるって……こういうことなのね……」
スプーンを持つ指先が、少し震えていた。
ヴァルターは大げさに鼻を鳴らしたくせに、
口に運んだ瞬間、動きが止まった。
「……う……わ……
これは……ズルい……。
果物を酒に漬けても出ねぇ……
こんな香りも……こんな甘さも……
なんだこれ……陽の光そのものか……?」
大きな男の目が、本当にうるんで見えた。
リヴはそれを見て、くすっと笑う。
「最初に食べた時、わたしも似たようなこと思ったよ」
「お前さん、最初にこれ食った時どうだったんだ?」
「……うれしくて、ちょっと泣いた」
「おい……反則だろそのエピソード……」
ヴァルターはナオキを見る。
「ナオキ。お前……こんなの毎回持ってきたら……
家族全員、甘味の虜になるぞ」
「うん。まあ、お土産だからね。喜んでもらえたらそれで」
「言ったな!? 本気で喜ぶぞ!? うちの家族全員!」
ヴァルターの声が妙に張りがあり、奥さんに肘で軽くつつかれる。
「あなた、声が大きいわ。
でも……わかるわ。これは……本当に衝撃の味よ」
「だろ!? だろう!? セラもわかるか!」
「わかるに決まってるでしょ」
夫婦のやり取りに、ラナがスプーンを掲げて割り込む。
「ナオキさん、これ……全部食べていいの!?
明日も食べたい……いや明日もじゃなくて、今日全部でも……」
「ちょっと待ちなさいラナ。全部はだめよ」
「えぇ……」
しょんぼりした娘の肩に、リヴがそっと手を置く。
「だいじょうぶ。まだ他にもあるからね」
「え!? まだあるの!?」
ラナが一瞬で復活し、目が星みたいに輝いた。
「あるよ。果物だけじゃなくて……」
リヴは次の缶を胸元から取り出し、テーブルに置いた。
金属のかすかな音に、家族全員の視線が吸い寄せられる。
「肉の缶詰、魚の缶詰……あと、鳥肉の煮込みの缶もあるよ」
「全部開けよう!!」
「ラナ!」
セラの一喝で娘が固まる。
「……ごめんなさい」
「後でゆっくり味わうんだから、焦らないの」
「うん……!」
ラナは姿勢を正し、スプーンを抱えて正座しはじめた。
「……そんなに楽しみにしてたんだね」
ナオキが笑うと、ラナは勢いよく振り返った。
「だってナオキさん!
前の“桃のやつ”……ほんっとうに忘れられない味だったんだよ!
甘いのに軽くて……果物なのに果物じゃないみたいで……
あれがまた食べられるって思ったら……!」
娘の語彙力が爆発している横で、セラが笑う。
「あなたね……言い方がちょっと面白いのよ……」
「でも、気持ちはすごくわかるよ」
ナオキの言葉にラナの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!? ほんとに!?」
「うん。俺も最初に食べたとき、驚いたからね」
「ナオキさんも驚く味なんだ……!
やった……勝った!(何に?)」
リヴが小声でつぶやいた。
「ラナちゃん、楽しそう……」
「うん。あの子は本当にまっすぐだね」
「ね……かわいいよね……」
リヴはくすっと笑い、次の小箱を取り出した。
箱を開けると、焼き菓子の香ばしい香りがふわりと広がる。
「クッキーだ。今回は三種類」
「さんしゅるい!!?」
ラナの噛み方が崩壊した。
「ちょ、ラナ、噛んで言いなさい噛んで」
「さん・しゅ・る・い……! やった……!」
「今の噛み方すごく可愛いよ」
「ナオキさん!? 今の聞かなかったことにして!!」
顔を真っ赤にして両手で耳を塞ぐ娘の横で、リヴが小さく笑う。
「ねぇラナ、どれから食べたい?」
「全部!!!」
「ラナ!」
「……ごめん……一つずつにする……」
「うん、それがいいよ」
リヴが一枚手に取って差し出すと、ラナは両手で受け取り、そっと噛んだ。
さくっ、と小さな音がした。
「……音が……かわいい……。
味も……すごい……甘いけど……香りが広がる……」
「でしょ。焼き方も……甘さも……いろいろ調整できるんだ」
「リヴ……クッキー作れるの……?」
「うん。ちょっとだけね」
「……教えて……ほしい……」
甘味の魔力で完全にとろけた娘は、
リヴの袖をつまんで見上げた。
セラがそれを見て、微笑みがこぼれる。
「あなたが教えてくれたら……ラナは毎日でも作りそうだわ」
「ねぇナオキさん、クッキー毎日食べたいよね?」
「食べたいけど……太らないように気をつけてね」
「気をつける……! 絶対……!」
「そこは強気なんだね」
家族全員が笑い、テーブルは甘さと声でいっぱいになった。
その空気の中で、ヴァルターが酒を注ぎながら言う。
「よし……この勢いで、次はジャムだ。ナオキ、任せた」
「うん、俺が開けるよ」
ジャムの蓋が外れると、再び甘い香りが広がった。
セラは息を呑む。
「煮込んでいるのに……果実そのままの香り……?
どうしてこんなに……みずみずしいの……?」
ラナがパンにつけてそっと口にする。
「……っ……おいしい……。
甘いけど軽くて……香りが……ふわーって……
これ……毎日食べたら……幸せで倒れちゃう……」
「倒れちゃだめよ」
「でも……倒れるほど……しあわせ……」
「そういう倒れ方は……まあ、いいかもしれないね」
ナオキが笑うと、ラナは両手で頬を押さえた。
「ナオキさん……今日のわたし……ちょっとおかしい……」
「大丈夫。甘さで浮かれてるだけだよ」
「浮かれてる……!」
「うん、とても楽しそうだよ」
「……へへ……」
甘味の魔法は、家族の心をすっぽり包み込んでいた。




