休息の刻、ふたりの支度
扉が閉まった瞬間、廊下の喧騒がすっと遠ざかり、部屋全体が落ち着いた呼吸を取り戻したようだった。
大きな窓から差す光は、夕暮れに向けて少し傾き、床にやわらかな縞模様を描いている。森で感じた緊張とは違う、安らかな気配が部屋を包んでいた。
荷物をそっと床に置くと、ナオキは軽く伸びをした。肩や脚への重さが、ようやく自分の体に返ってきたような感覚があった。
「……思った以上に歩いてたんだな」
ひとりごとのように漏らしながら窓を開けると、街の匂いがふわりと入ってくる。焼き菓子の甘い香りに、香油の微かな花の香り、遠くで鳴る鐘の余韻。
この世界の「暮らし」が、一度に押し寄せた。
そんな時、扉が軽く叩かれた。
「ナオキ……入ってもいい?」
リヴの声だった。
返事をすると、扉が静かに開き、旅装のままのリヴがそっと顔をのぞかせた。昼間の喧騒を抜けてきたのに、どこか柔らかな雰囲気がある。
「うん。どうしたの?」
「……部屋が静かすぎて。ちょっとだけ、一緒にいたくなった」
そう言って微笑む。
その仕草ひとつで、胸の奥の疲れがふっと軽くなった気がする。
リヴは部屋に入ると、窓際の椅子に腰を下ろし、胸元に手を添えた。
その指先には、森を越えてきた疲れと、安心の入り混じったような空気が漂っていた。
「湯、使わせてもらったよ。……すごいね、あれ。向こうの部屋に入った瞬間から香りがしてた」
「香油も扱ってる商会だし、湯の設備もしっかりしてるんだろうね」
「うん。ナオキの花みたいな香りがする石鹸やシャンプーも使ったよ」
「そっか。どうだった?」
「すごく……やさしい匂いだった。森で汗を流したあとだから、余計にね。髪を洗うだけで肩まで軽くなった感じ」
「旅の間は旅の間は魔法があると言っても、水場も限られてたし、石けんなんて贅沢だったもんね」
リヴの髪先が光を受けて揺れる。
乾いたばかりらしく、淡い花の香りがふわりと届いた。
しっとりとした艶が宿り、指で触れたらするりと逃げていきそうな柔らかさがあった。
「すごく……綺麗になってるよ」
思ったままが声に出ると、リヴは一瞬だけ目を丸くし、すぐに頬を染めた。
「そんなに……? ナオキがくれたやつのおかげだよ。向こうの人に渡したら、絶対びっくりすると思う」
「ああ……奥さんはセラさんで、娘さんはラナさんだったかな?二人がいたら、確実に気づくだろうね」
「うん。きっと“何使ってるの?”って聞かれるよ」
二人で笑う。
こんな穏やかな時間が、どれだけ久しぶりだったか。
ふと、ナオキは荷物のひとつを引き寄せ、包みをいくつか取り出した。
金属の小さく澄んだ音がして、リヴが小首をかしげる。
「それ……今日の夜に持っていく分?」
「うん。ヴァルターさんへの酒と……前より多めの缶詰も」
夕陽を受けた缶詰の金属が、わずかに赤く光った。
リヴは缶詰の山に手をそっと添えた。温かい記憶に触れるような、静かな仕草だった。
「瓶詰めが街で広まってるって言ってたし……こういうのをまた渡したら、ヴァルター、絶対に喜ぶよ」
「だろうね。保存食って、この世界だと本当に価値があるし」
「うん。でも……今回は“商売”じゃなくて、“お土産”だよね」
「うん。完全にそっち。家族向けのね」
ナオキは缶詰の山を見ながら言い、リヴはその缶に指をそっと添えた。
「前回だって、たった数個だったのに……セラさんもラナも、本当にびっくりしてたよね」
「うん。あの時の顔、まだ覚えてる。『こんな味があるなんて』って泣きそうになってた」
「ね。特に……シロップ漬けの桃。あれ、食べた瞬間の娘さん……すごかったよ。目が丸くなって、そのあと笑顔になって……」
リヴは胸に手を当て、ふっと笑った。
「あれを見るとね、わたしまで嬉しくなっちゃうんだよ。
“自分の知らない甘さに出会った人”って、こんな顔するんだって思った」
「うん。俺も同じ気持ちだったよ」
「だから……今回は絶対喜ぶよ。だって、前よりずっと多いし、種類もぜんぜん違う」
テーブルの上に並んだ缶詰が夕陽を反射し、小さく光る。
「肉の缶詰もあるし、魚もある。果物なんて……前は桃だけだったけど、今回はいろんな味があるよね」
「うん。マンゴーも、みかんも、パイナップルもある。
あと……娘さんが気に入ってた桃ももちろんあるよ。多めに」
「ふふ。それ聞くだけで嬉しくなる。絶対喜ぶよ、あれ」
リヴは缶詰の山を前にして、なんだか自分まで胸が弾んでいるような表情だった。
「それに……今回は甘いものも多いね」
「うん。クッキーとか、バタークッキーとか、チョコレートもある。ジャムも買ってきたし」
「ジャム……ああもう、それだけで幸せが広がる味だよね。パンに塗ったら止まらないやつ」
「奥さんも、きっと喜ぶだろうね」
「喜ぶよ。だって……あの人たち、前のたった数種類であれだけ幸せそうだったもん。
今回は“お土産の宝箱”みたいな量だよ?」
リヴは缶をそっと抱え、にこりと笑った。
「ヴァルターも、奥さんも、娘さんも……ぜったい忘れられない夜になるよ。
“森を越えてきた友だちが、またすごい甘さを持ってきた”って」
「だろうね。純粋に喜んでくれると思う」
「うん。商売じゃないからこそ、余計に嬉しいと思うんだよ。
家族みんなで味わえる“特別なお土産”って感じで」
その言葉に、ナオキも思わずうなずいた。
夕暮れの光に照らされた缶詰の山は、まるで小さな宝石のようだった。
リヴはふふ、と小さく笑った。
「……楽しみだね。セラさんもラナも、ぜったい忘れられない夜になるよ」
ナオキも笑いながら頷く。
「そうだね。きっと、今日はいろんな意味で賑やかになるよ」
「うん。あの人の声、廊下にまで響きそう」
「ほんとにね……」
窓の外では、夕日が街の屋根に赤い光を落としていた。
商会の下の階からは職人たちの声や金属を扱う音が微かに上がり、日が落ちてもなお街が動く気配を感じさせる。
リヴは小さく伸びをして、椅子から立ち上がった。
「じゃあ……湯に入ってきなよ。わたし、さっき使わせてもらっちゃったから」
「うん。そうするよ」
「髪、洗ってきてね。きっと……気持ちいいよ」
にこりと笑い、リヴは扉へ向かった。
しかし扉に手をかける前に、ふとこちらを振り返る。
「ナオキ。……夜、楽しみにしてるね」
その一言は、夕暮れの光よりもやわらかく胸に落ちた。
「うん。俺も」
リヴが去り、静けさが戻る。
湯の支度を知らせる音が廊下で響き、部屋の空気がゆっくりと温まっていく。
湯気が静かに消えていき、体の芯だけが温かさを覚えていた。
森を歩ききった疲れが湯にほどけ、肩の重さがすっと抜けていく。
香油の街の商会らしく、湯は惜しみなく使われ、石造りの浴室には花を思わせる香りがほのかに漂っていた。
部屋へ戻ると、リヴは窓辺の椅子に座っていた。
乾きかけた髪が月の光を吸い込むようにゆるやかに揺れている。
ほんのり甘い、石けんの香りが部屋を満たし、それだけで気持ちが落ち着いた。
「おかえり。……温まれた?」
「うん。すごく。足が軽くなったよ」
リヴは胸元を撫で、柔らかく笑った。
髪に触れる指先がどこか嬉しそうだ。
「石けん……やっぱりいい匂いだね。髪もさらさらしてる」
「ここのお風呂、すごくきれいだったね。森の旅のあとだから余計に」
「うん。……ちょっと贅沢してる気分」
そう言いながら、彼女は視線を落として照れたように微笑んだ。
「じゃあ、夜の準備……しよっか」
胸元にそっと手を添えると、空気がわずかに沈んだ。
光が影へ溶け、足元に酒瓶と缶詰、小箱が次々と現れる。
大容量のウィスキー。
琥珀の色が深い瓶。
黒いラベルの一本。
前よりずっと重い量。
缶詰は、前回の比ではなかった。
肉の缶、鳥の缶、魚の缶、果物の缶──
一度だけ経験した、あの“保存された恵み”が、今回は小山のように積まれていく。
リヴはそれを見つめながら、静かに言った。
「これ……本当にたくさんだね。前はあれだけで、セラさん泣きそうになってたのに」
「ラナの顔も忘れられないよ。あのときは……ちょっと反則だった」
ナオキが言うと、リヴはふっと遠くを見る。
やわらかな記憶が胸の奥でほどけたような表情だった。
「……わかるよ。わたしも初めて食べたとき、そうだったから」
「初めて?」
「うん。クリームパンとか……プリンとか」
その名前を口にした瞬間、リヴの表情がほんの少し少年のように明るくなる。
「あの時の衝撃は今でも忘れられない。
これが……この世界じゃないどこかで作られた菓子なんだって。
天上の食べ物だと思ったもん」
その言い方があまりに素直で、ナオキの胸の奥も温かくなる。
彼女の“初めての甘さの記憶”は、確かに地球とこの世界を繋いだ瞬間だった。
「じゃあ……今日はセラさんとラナにも、同じ気持ちを味わってもらおうか」
「うん。きっと驚くよ」
次に、小箱に入った焼き菓子をそっと机の上に置く。
「これはクッキー。こっちはバタークッキー。
それに……チョコレート。そして……ジャムも」
「ジャム……すごいね。香りが強くて、甘くて……。
これ、絶対に喜ばれるよ」
「うん。パンにつけたら、もう止まらなくなると思う」
リヴは箱に手を添えたまま、うっとりしたように笑った。
「なんだか……楽しみだね」
「うん。酒より甘いものに反応するのは、奥さんと娘さんのほうかもしれない」
「……わかるよ、すごく」
そのとき、廊下から足音が近づく。
ノックの音が、静かな部屋の空気をやさしく揺らした。
「おーい。そろそろ始めるぞ。準備はいいか?」
ヴァルターの声は、もうすでに酒の夜を待ちきれないように弾んでいた。
ナオキとリヴは顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。
「……行こう、ナオキ」
「うん。行こう」
甘い香りと、期待の混じった空気をまとって、
ふたりはゆっくりと扉へ向かった。
だが、扉に手をかけるほんの一瞬前、リヴがくるりとこちらを振り返った。
その仕草は小さかったが、まるで胸の内側にしまっていた何かを、そっと確かめるようだった。
「ねえ、ナオキ」
「ん?」
「……わたし、ちょっと緊張してるみたい」
「緊張? ヴァルターさんの家族に会うの、嫌だった?」
「ううん。嫌じゃないよ。むしろ……うれしい。でも……」
リヴは胸元の布をきゅっとつまみ、
耳の先がほんのり赤くなっていく。
「だって、こんなにたくさんのお土産を持っていくの、初めてでしょ?
向こうの人たちが、どういう顔するのか……その、想像したら……胸がふわってして」
「ああ……それはわかるかも。俺も少し緊張してるよ」
「ほんとに?」
「うん。だって、あの缶詰の山を見たら……絶対すごい反応になるのがわかるし。
商会の仕事で忙しい人たちに、急に“甘い嵐”をお届けするんだから」
「甘い……嵐」
リヴは思わず吹き出し、口元を手で覆った。
「ぴったりだね、それ。セラさん、叫びそうだもん」
「ラナさんも、好きな桃の缶が増えてるの見たら……跳ねるかも」
「うん。うれしくて跳ねる顔、簡単に想像できる……」
そんなふうに会話を重ねていくと、
リヴの胸の奥にあった緊張がゆっくりほどけていくのがわかる。
部屋の空気も一緒にやわらかくなった。
そして、ふいにリヴがそっと足を寄せてきた。
肩と肩が触れそうなほど近づいて、静かにナオキの服の端をつまんだ。
「ねえ、ナオキ……」
「どうしたの?」
「今日の夜……わたし、ナオキの隣にいていい?」
「……もちろんだよ」
「ありがとう」
その言葉ひとつで、胸の奥にゆっくりと広がる温かさがあった。
街の喧騒とも、旅路の疲れとも違う、落ち着いた安心の色だった。
「それに……ナオキがいるとね。どこに行っても、だいたい安心できるんだよ」
「だいたい?」
「だいたい。全部じゃないよ。ときどき変なこと言うし」
「えっ、ひどくない?」
軽口を交わすと、リヴはくすくす笑って肩を揺らした。
「でも、その“だいたい”で十分なんだよ。夜の席って、いつもと雰囲気違うし……
ああいう場で緊張すると、耳が熱くなりすぎて、なんか変になっちゃうんだよね」
「まあ……わかる気もする」
「だから……もし変になっても、隣にいてね」
「うん。ちゃんといるよ」
リヴは満足そうに目を細めた。
その笑顔は、街の灯りよりも温かかった。
ふと、廊下からヴァルターの声がもう一度響いた。
「おーい、まだかー? 待ちきれんぞ!」
「……ほら、ね。あの声、もう酒入ってるよ」
「入ってなくてもあれくらいだよ」
「そうだった……」
リヴは肩を震わせて笑い、
ほんの少しだけ深呼吸をしてから、改めて扉のほうを向いた。
「よし。行こう、ナオキ。
……セラさんたちの“びっくり顔”、ちゃんと見届けないとね」
「ああ、逃す手はないね」
ふたりの手が自然と近づき、
触れはしないけれど、同じ方向へ歩き始めた。
扉の向こうでは、甘い匂いと人の声が溶け合い、
夜の始まりを待っている。
甘い香りと、期待の混じった空気をまとって、
ふたりはゆっくりと扉へ向かった。




