街の門と、商会の風が動く日
街道に白い光が満ちていた。
早朝の陽はまだやわらかく、森を抜けてきた風がふたりの頬を冷やしていく。足元には夜露の名残が残り、足音に合わせて草が静かに揺れた。
ナオキとリヴは肩を並べ、遠くに浮かぶ白壁を見つめた。
陽を返す壁は湖面のように淡く光り、近づくたび空気がひとつ温度を変える。
「もうすぐだね」
「うん。街の匂いがするよ。人の息が重なって……森とは全然違う感じ」
リヴは胸元にそっと手を添えた。
そこにある見えない部屋は、今日も静かに風を落ち着かせている。胸の奥で細い灯りがふわりと揺れ、その揺らぎに合わせて表情がやわらいだ。
歩くにつれ、街道の空気が少しずつ変わっていった。
森を出たばかりの冷たい風は、次第に乾いた土と石の匂いへと混ざり、人の生活が近いことを告げてくる。
そして、往来のざわめきが聞こえてきた。
荷馬車の車輪が石を弾く音。
商人たちが品物を積み替える声。
布商が干し布を揺らして乾きを確かめる音。
遠くからでもわかるほど、人の気配が多い。
「……前より賑やかだね」
「うん。なんだか街全体が騒いでる感じがする」
「市の日なのかな?」
「市だけじゃ説明できない気がするよ。空気が少し急いでる」
ナオキは息を吸った。胸の奥をくすぐるような香りが通り抜ける。
香油の甘い香り。新しく焼いたパンの香り。煮込んだ香草の混じった匂い。
「市場の匂いだね」
「うん。でも……その奥に“熱”みたいな匂いがあるの。ざわざわしてる」
リヴの言葉は確かだった。
風の揺れ方や、遠くの足音の跳ね方で、街の状態が少しだけ読み取れるらしい。
しばらく歩くと、街へ向かう旅人の一団とすれ違った。
荷物を背負った男女が三人、疲れているのにどこか楽しそうだ。
「街の入り口、大変だぞ。朝から行列だった」
「何があったんだろうな。誰に聞いても“瓶だ瓶だ”って言うばかりでよ」
「いや、あれは本当にすごいらしいぞ。昨日、店で話を聞いた」
すれ違いざま、そんな声が耳に入った。
「……瓶?」
「たぶん、あの話だよね。瓶詰めのこと」
リヴがナオキの袖をつまみ、小さくささやいた。
ナオキは返事の代わりに苦笑いを浮かべた。
(広がるの早すぎない……?)
ナオキの胸の奥で、じわりとした緊張が生まれた。
さらに進むと、道端で荷馬車を整える老人がいた。
車輪の泥を落としながら、通りかかった二人に気づくと笑顔で声をかけてきた。
「おう、旅人さん。街に向かうのか? 今日はずいぶん混んでおるぞ」
「混んでるんですか?」
「おうとも。瓶詰めの噂でな。門の前に人が押し寄せとる。なんでも、保存が利くとか利かんとか……まあ、わしには難しい話だが」
「そんなに……?」
「まあ、気をつけていきなよ。兵も忙しそうだったからな」
老人は明るく笑い、また車輪に戻った。
会釈して歩き出したあと、リヴがぽつりと言った。
「……ほんとに、街がお祭りみたいだね」
「うん。なんだろう……落ち着かない熱がある」
リヴは胸元を押さえ、風の流れを読むように目を細めた。
「ざわざわしてる。でも……悪い風じゃないよ」
その言葉に、ナオキの肩の緊張が少しだけ緩んだ。
そして、門の列が見えてきた。
前に来たときより兵の数が明らかに多い。
鎧が陽を反射し、剣の柄に手を添えながら周囲へ目を光らせている。
門の前には馬車の列が続き、荷物を降ろして検められる商人たちの声が重なっていた。
「……なんか、違うね」
「うん。風が跳ねてる。街の中でいろんな匂いがぶつかってる」
リヴの声は低いが落ち着いている。
胸奥の〈部屋〉がいつもより慎重に息をしているような気配だった。
列が進み、二人は正門の近くへ出た。
門番が二人を見て、目を丸くした。
「おや……見覚えがあるぞ。飴をくれた異国の兄ちゃんと、あの嬢ちゃんじゃないか」
リヴは軽く頭を下げた。黒髪が朝の光を帯びて揺れた。
「こんにちは」
「無事でよかったな。森を歩いてきたんだろう? あの辺は静かな日もあるが、荒れる日はひどい。よく抜けられた」
「運が良かっただけです。特に何も出ませんでした」
ナオキは柔らかく言い、鞄から封筒を取り出した。
「ヴァルター商会の紹介状です」
門番は封を確認し、息を吐くように肩を緩めた。
「本物だな。若旦那の紹介状なら話は早い。……まさか、あの人がお前らを呼んだのか」
「お世話になってるんです」
「そうか……なら良い」
門番は一瞬、街の方を振り返った。
「……実はな。ここ最近、街がちょっと騒がしい。あんたらの“瓶の実験”が一気に広まっちまってな。商人も旅人も、妙に浮き足立ってる」
「そんなに……?」
「そんなに、どころじゃない。あれで保存が利くって話だろ。遠くまで食べ物が運べる。交易が広がる。戦支度にも役立つ……まあ、いろいろ言われてる」
そう言いながらも、門番は微笑んだ。
「でもな、俺はお前らが無事に戻ってきたのが一番嬉しいんだ。どうぞ通ってくれ」
「ありがとうございます」
礼をして門をくぐると、街の空気が一気に濃くなった。
石畳が陽を返し、店先の旗が風を掴んで揺れ、人々の足取りは忙しない。
パンの甘い香りが漂い、遠くから香油の匂いが混ざる。
行き交う人は多く、どこか浮き足立っていた。
「……すごいね。こんなに人がいるの、初めて見る」
「市の日なんて比じゃないね。瓶詰めがここまで……」
「ヴァルター、忙しいよね」
「うん。ちょっと怖いくらい」
二人は小さく笑った。
大通りを歩くと、人の波に押されるように進んだ。
果物屋の露店では、早朝から仕入れた実が山のように積まれ、店主が威勢よく声を張り上げている。
「ほらよ、香油瓶だ! 今なら一本おまけだ!」
「こっちの保存瓶はどうだ! 長旅のお供に最適だぞ!」
(……保存瓶?)
ナオキは心の中で苦笑した。
「ナオキ、なんか“それっぽい物が増えてる”気がする……」
「だね……模倣品かな……」
「街の人、早いね」
「こういうのは、誰かがやると思ってたよ……」
二人は目を合わせ、小さく肩をすくめた。
通りの中央には、ヴァルター商会の白壁が堂々と建っている。
紺の旗が風をふくらませ、入口には香油や瓶詰めを求める客が並んでいた。
店員が声を張り、奥では煮釜の音がしている。
「……本当に賑やかだね」
「うん。街の中心って感じがする」
扉を押すと、すぐに店員が駆け寄ってきた。
「お、お二人……! 若旦那が待ってます。こちらへ!」
まるで貴賓客を迎えるようだった。
店員に案内されながら歩くと、前回訪れたときより通路がずっと明るくなっているのがわかった。
窓から差し込む光が反射し、壁の白さをはっきり浮かび上がらせている。
人の出入りは絶えず、香油の甘い香りに混じって、煮釜の湯気の湿り気、紙束の乾いた匂い、金属を打つ微細な熱まで漂ってきた。
リヴはその空気を吸い込み、胸奥の部屋がそっと揺れたのを感じたように目を細めた。
「ナオキ……本当に、すごいね。商会、こんなに動いてる」
「動かしてるのは、ヴァルターさんたちだよ。俺は……きっかけを置いただけで」
「でも、そのきっかけが街を動かしてるんだよ」
リヴの声は静かだが確かだった。
言葉に背中を押されるようで、ナオキはほんの少し息を深く吸った。
奥の扉が静かに開いた。
姿を見せたヴァルターは、前に会ったときよりずっと忙しそうな風貌だった。
だが、二人の顔を見るなり、その表情が一気に緩んだ。
「よく戻ってきたな。無事な顔を見て安心したぞ」
その声は大きくて温かく、聞いた瞬間ふたりの緊張がほどけた。
近づいてくる足音は重く頼もしい。
「森越えで何かあったか? ……まあ、その顔なら大したことはなかったんだろうな。まず座れ。立ったまま話すには惜しい日だ」
肩をぽんと叩かれた感触が懐かしく、ナオキは笑顔を返した。
応接室へ通されると、前よりも机の上に物が増えている。
紙束、布見本、小さな瓶が無数に並び、作業の跡がそのまま残っている。
忙しさが一目でわかる場所だった。
「こっちはこっちで大騒ぎだぞ。お前たちが試した“瓶詰め”の話が街に落ちた途端に、毎日毎日……『次は何だ』『これも入れられるのか』って客が押し寄せてな。寝る暇もない」
言葉はぼやきだが、声には喜びが混じっていた。
「でもな……お前らが戻ってきてくれりゃ、それで全部帳消しよ。よく歩いたな。本当にご苦労だった」
「ありがとうございます」
ナオキが頭を下げると、リヴもそっと続いた。
ヴァルターは腰を下ろしながら、少し声を落とした。
「さて……だ」
「商談……ですか?」
「いや、違う」
ヴァルターはにやりと笑った。
「例の“酒”だ。持ってきてるんだろう?」
「はい、いくつか……」
「よし。ここで見るかと思ったが、今日は別だ。……その前に茶を飲め。お前らの顔見たら、やけに喉が乾いちまった」
茶が運ばれてくる。
湯気の向こうで、商会のざわめきが遠くなり、部屋の空気がゆっくり落ち着いていく。
「瓶詰めが街をひっくり返した。なら、酒は……どれほどだ?」
ヴァルターの瞳がまっすぐこちらを見る。
商人としての“本気”が静かに宿っている。
しかし、それでも彼は手を上げて話を止めた。
「いや、待て。商談なんて今日はどうでもいい」
「え……?」
「お前ら、このあと宿を取るつもりだったんじゃないか?」
「それは……迷惑になるかなと思って……」
「迷惑? 水臭ぇこと言うな」
ヴァルターは大笑いした。
「この商会がどれだけ忙しかろうが、友人ふたりに部屋も出せねぇほど落ちぶれちゃいない。泊まっていけ。湯も飯も、部屋もある」
「でも……」
「でももへったくれもあるか。友だろうが」
“友”
その言葉が胸の奥にゆっくり届く。
この世界でそう呼ばれたのは、初めてに近い。
リヴは驚いたように目を見張り、やがて静かに微笑んだ。
「……うれしいね、ナオキ」
「うん。本当に」
ヴァルターは店員を呼びつけた。
「二人分の部屋を整えろ。湯も沸かしておけ。森越えの埃を落とさせてやれ」
「はい、すぐに!」
若い店員が勢いよく駆け出していく。その背中を見て、ヴァルターは満足げに頷いた。
「それでだ」
「商談……じゃないんですよね?」
「酒だ」
「……ですよね」
ナオキは苦笑した。
「今日なんですか?」
「当たり前だろう。こんなめでたい日に酒を後回しにしてどうする。お前らが無事に帰ってきた。今日は祝いだ」
「でも、商会……忙しそうでしたよ?」
「下の連中が優秀でな。俺が一日くらい抜けても問題ない。あいつらのほうが段取りがうまいくらいだ」
ヴァルターは大きく笑い、胸を叩いた。
「それにな。お前らが持ってきたその酒は……そんじょそこらの酒じゃないんだろ? 話だけ聞いて、もう我慢できねぇ。今日は飲むぞ」
「はぁ……」
ナオキが苦笑すると、リヴも肩を震わせた。
「じゃあ、商談は明日ってことで」
「そういうことだ。今日は酒。明日仕事。完璧だろ」
「うん。じゃあ、夜に」
「夜だ。……楽しみにしてるぜ」
ヴァルターの目は完全に“酒の夜”の色をしていた。
そのとき、応接室の外で人の足音が何人も走り抜けていく。
瓶を持ち運ぶ硬い音と、紙束をめくる音。
小さな指示が飛び交い、商会全体が大きな流れになって動いている。
「ほんとに……すごいね」
「瓶のこともあってな。昨日は一日で五十人来たらしい」
「五十……?」
「俺も驚いたさ。問題は来る人数じゃない。『次は何を入れるんだ』ってあれだけの目で見られ続けることだ。……まったく、すごい時代になったと思う」
ヴァルターは肩をすくめながらも、どこか誇らしげだった。
ナオキはそっと息を吸う。
(これ……想像してたより大きなことになってるんじゃ……)
胸の奥でゆっくりとその重みが広がった。
店員が戻り、ふたりを部屋へ案内した。
廊下は前より整えられ、明るく、人がよく通る。
煮窯の音、瓶を並べる乾いた音、紙束を抱えて走る店員の足音。
街の賑わいがそのまま商会に流れ込んでいるかのようだった。
「本当に人が多いんだね」
「瓶詰めの件でな。職人たち、今は昼飯抜きのやつもいる」
「えっ……大丈夫なんですか?」
「飯はあとから食う。あいつら、やる気があると食いもん忘れるんだよ」
ヴァルターは苦笑したが、その口調には仲間を信頼している色があった。
「部屋はこちらです」
二つの扉が開かれた。
どちらの部屋も広く、窓から朝の光が柔らかく差し込み、清潔な寝具が整っている。
湯もすでに支度されていて、森越えの疲れをそっと受け止めるような空気が満ちていた。
「二部屋……?」
ナオキがつぶやくと、ヴァルターは当然のように頷いた。
「当たり前だろう。あれだけ歩いたんだ。ひと晩くらい、自分の部屋で落ち着け」
「ありがとうございます」
ナオキが頭を下げると、リヴも小さく会釈した。
しかし、リヴは裾をそっとつまみ、ほんの少し寂しげに指先を揺らした。
その仕草を、ヴァルターは見逃さなかったらしい。
にやりと笑った。
「夜になったら迎えに行く。覚悟しておけよ。今日は長い夜だからな」
「うん……わかった」
「楽しみにしてます」
リヴの声は少しだけ弾んでいた。
扉が閉まると、部屋には朝の光と静けさだけが残った。
その静けさの奥で、夜に始まる“酒の時間”がゆっくり形を作り始めていた。
扉が閉まると、外の賑わいがゆっくり遠ざかり、部屋には落ち着いた静けさが広がった。
森越えの緊張がようやく解けていくように、空気がゆるやかに沈む。
窓から差し込む光は白く柔らかく、布団の縁を照らし、部屋の隅に積まれた木箱の影を静かに伸ばしていた。
「……すごい部屋だね」
リヴは部屋を見回した。
壁は清潔で、床には柔らかい敷物が置いてある。森の土と草の感触に慣れていたぶん、この“整った空気”がどこか不思議に感じられる。
「こんなところに泊まっていいのかな……」
「うん。ヴァルターが“友だから”って言ってたよ。遠慮しないで使おう」
ナオキは鞄を椅子に置き、そっと肩を回した。
五日分の疲れがようやく声を上げて、背中に重さとなって落ちてくる。
「ナオキ、湯……使ってきていい?」
「うん、行っておいで。森の匂いも残ってるだろうし」
「……わたしのこと、気にしてくれたの?」
「もちろんだよ。五日間も歩き続けたんだから」
リヴはふわっと表情を緩め、自分の胸元を押さえた。
胸奥の〈部屋〉があたたかい風を吹かせたように見えた。
「ありがとう。じゃあ、ちょっとだけ……」
湯場へ向かう足音は軽く、扉が開く瞬間、リヴが振り返って小さく笑った。
「ナオキもあとでね」
「うん。のんびりしておいで」
リヴが部屋を出ると、ナオキはほっとして息を吐いた。
旅の疲れが腕や脚にじわりと広がり、椅子に座るだけで身体が沈んでいく。
(ほんとに……気を張ってたんだな)
毎晩の野営、周囲の気配に耳を澄ませる慎重さ、リヴに気を配り続けた日々。
そのすべてが今になって重さとなってほどけはじめた。
机の上には白い陶器の水差しと、薄いガラスのコップが置かれている。
ひと口含むと、喉を通るときの冷たさが気持ちよく、胸の奥の緊張まで冷ましてくれるようだった。
そのとき、廊下を走る小さな足音が聞こえた。
職人が何かを運んでいるらしく、瓶が触れ合う音が微かに響いてくる。
「瓶の件で、ほんとに大変なんだな……」
ナオキは立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
商会の中庭らしい場所が見え、職人が荷台から瓶の箱を下ろしている。
並んだ箱には商会の紺の印が押してあり、その横では店員が注文書らしき紙を持って行ったり来たりしていた。
街のざわめきも風に乗って届く。
鍛冶屋が鉄を叩く音、香油屋の呼び込み、果物屋が値段を叫ぶ声。
人と人が交差し、生活の熱が通りに満ちている。
(……すごい日になったな)
森の静けさから一気に街の熱へ。
その落差が胸の奥をじわじわ刺激した。
しばらくして、扉が静かに開いた。
「ナオキ……戻ったよ」
湯上がりのリヴは頬にうっすらと赤みを帯び、髪をゆるくまとめていた。
旅の土がすべて落ちたように見えて、表情が柔らかい。
「おかえり。さっぱりした?」
「うん。すごく気持ちよかった。森で温かい水が出る場所なんて……まずないもん」
「だよね。じゃあ、俺も行ってくるね。ちょっとだけ待ってて」
「うん。行ってらっしゃい」
リヴの声は、森の奥を歩いていたときより軽く響いた。
湯場は静かで、壁にかかった布がほんのり香油の匂いを含んでいる。
湯の温度はちょうどよく、肩まで沈めると息が全身から抜けていくようだった。
(五日歩いたんだもんな……)
湯がふわりと浸透し、重い疲れがほどけていく。
水音だけが響くこの小さな空間が、森とは違う種類の安全を与えてくれた。
髪を拭き、部屋に戻るころには、身体が柔らかく軽くなっている。
扉を開けると、リヴが窓の外を見ていた。
「ナオキ、おかえり」
「ただいま。湯、ありがとう。助かったよ」
リヴはほっと胸をなでおろし、微笑んだ。
「街がね……夕方になってくると、もっと人が増えたよ。風がすこし跳ねてる」
「ざわざわしてる?」
「うん。でも、怖いざわめきじゃない。なんていうか……みんな期待してるみたいな風」
「期待……」
ナオキの胸の奥で、何かが軽く震えた。
(瓶詰めが……そこまで?)
その問いはまだ答えを持たず、胸の奥に沈んだまま形を探している。
少し間を置いて、リヴが静かに言った。
「ねえ、ナオキ……今日の夜、楽しみだね」
「ヴァルターと飲むってこと?」
「うん。あの人、すごくうれしそうだった。……まるで、ただの商談じゃないみたい」
「確かに、あれは“祝い”って感じだったね」
「ね。なんか……いい夜になる気がするよ」
胸元にそっと手を添え、〈部屋〉の風を確かめるようにリヴは目を細めた。
「ずっと、ナオキと歩いてきてよかったって思う日だよ。今日は」
「リヴ……」
ナオキは言葉を迷い、そっと近くに座った。
「リヴと一緒だったから、森を抜けられたよ。俺だけだったら、不安でどうにもならなかったと思う」
「そんな……わたし、まだぜんぜん……」
「十分だよ。心強かった」
言い切ると、リヴの耳先まで赤く染まり、視線を落とした。
「……ナオキの言葉、ほんとずるい……」
「え? ずるかった?」
「……ううん。嬉しいずるさ」
リヴの声は小さく揺れ、その揺れを胸奥の〈部屋〉が受け止めているようだった。
そこへ、廊下を叩く足音が近づいてきた。
忙しくも弾んだリズムで、まるで誰かがいい知らせを運んでくるようだった。
扉の向こうで、ヴァルターの大きな声が響いた。
「準備はいいか! そろそろ迎えに来たぞ!」
リヴは目を瞬き、ナオキは思わず立ち上がった。
「……本当に来た」
「うん。始まるね、今夜」
ふたりの目が合い、自然と微笑みがこぼれた。
夜が、ゆっくりと色を濃くしながら始まろうとしていた。




