閑話3:税務署への道は魔物より険しい
夕方の光が沈みきらない居間で、ナオキはポストから持ち帰った白い封筒をテーブルへ置いた。差出人の欄には、黒々とした文字で“税務署”と書いてある。それを見た瞬間、リヴの肩がぴくりと跳ねた。
「ナオキ……それ、まさか……」
「うん、まさかの“あれ”だよ」
「“あれ”って……敵なの?」
「敵……というより、中ボスというか……。いや、大ボスの手前に必ずいる嫌な奴、みたいな存在かな」
リヴは封筒を遠巻きに見ながら、小動物みたいに固まった。
「地球……怖くない? だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ。これはね、開業届の続き。地球という国に住んで商売するなら、必ず通る道なんだよ」
ナオキが封筒を開くと、中から分厚い書類がばさりと溢れた。リヴが息を呑む。
「な、なにこれ……呪文書……?」
「呪文書じゃなくて、“案内書”だよ。たぶん地球人の八割は同じ反応してる」
書類の山には、帳簿のつけ方や青色申告の説明、減価償却、領収書の保管義務、さらには消費税に関する注意事項までぎっしり並んでいた。見るだけで頭が痛くなる。
リヴはページを一枚めくるごとに、そっと悲鳴を漏らす。
「ね、ナオキ……ここに書いてある“記帳義務”ってなに? “全ての取引を記録しなければならない”って……え、全部? 全部ってその……全部?」
「全部」
「地球……地球って……魔王城より厳しくない?」
「まあ、慣れれば平気だよ。経理っていうんだ。売ったもの、買ったもの、仕事で使ったお金。全部数字で残すんだ」
リヴは胸を押さえた。
「じゃあ……ごはんを食べたら“今日リヴはごはんを食べました”って書くの?」
「それは書かなくていいよ。経費じゃないから」
「じゃあ書くのは“経費”だけ?」
「そうそう。でもその判断がむずかしいんだよな……」
ナオキはそう言いながら資料を読み進める。リヴは眉を寄せ、指で紙の端をつまむようにしながら、真剣に読み、そして真剣に混乱していた。
「経費って……仕事のために使ったお金、だよね?」
「そう」
「じゃあ……ナオキと一緒にごはん食べるのは……?」
「それは経費じゃない」
「じゃあ、ナオキが仕事で疲れてるから、わたしがなぐさめてあげるのは……?」
「経費じゃないよ」
「じゃあ……じゃあ……」
リヴはしょんぼりした。
「地球、全然やさしくない……」
「いや、制度が厳しいだけで、地球は別に優しくないわけじゃ……いや、優しくはないかもしれないな」
ナオキが苦笑していると、リヴは再び資料へ視線を戻し、小声でつぶやいた。
「ねぇナオキ……税金ってなに?」
あまりにも根本的な質問に、ナオキは一瞬だけ言葉を失い、それから声を整えた。
「税金っていうのはね……地球で生活するための“通行料”みたいなものだよ」
「通行料って……地球を歩くのにお金がいるの?」
「歩くだけじゃないけど……国が道路作ったり、消防とか病院を維持したり、いろいろ運営するのにお金が必要なんだよ。そのためにみんなで少しずつ出し合うのが税金」
リヴは無言でじっとナオキを見る。目が潤んでいる。
「……地球って、思ったより強敵だね」
「うん。魔法も剣も効かないタイプの強敵だね」
「弱点ないの?」
「ない。けど、一応“ルールを守ると味方になってくれる”タイプ」
「味方……?」
「たぶんね。たぶん」
リヴは書類を抱え込みながら椅子にしずんだ。
「この世界の魔物はナオキが倒してくれたけど……これは……無理かも……」
「いや、それは俺も無理だよ」
二人は同時にため息をついた。
ナオキは書類の束をテーブルへ置き、落ち着くようにリヴへ微笑んだ。
「でもね、ひとつずつやれば大丈夫。経理って冒険の敵みたいに強いけど、死にはしないし、慣れれば味方になるから」
リヴは首をかしげる。
「経理の味方って……どんな?」
「数字が合った瞬間に“あっ、スッキリした!”ってなるのが経理の味方だよ」
「そんな感覚、いつ来るのかな……」
「半年後くらいかな」
「遠い……!」
またため息が落ちたが、その音はさっきより軽かった。
気を取り直し、リヴは資料を膝の上にのせて真剣な顔をした。
「ねぇナオキ。わたし、ちゃんと学ぶね。だって、これは二人のお店のためでしょ?」
その言葉に、ナオキはゆっくり頷いた。
「そうだね。二人でやるんだもんな。じゃあ、一緒に勉強しよう」
リヴは照れたように笑い、書類を胸に抱きしめた。
「うん。こわいけど……ナオキがいるなら、がんばれる」
書類の束は重たいのに、リヴの声は少しだけ軽かった。
この日の夜、二人は初めて“税金”という巨大な敵を認識した。魔法もチートも通じない、数字とルールだけが支配する迷宮。その入り口に立ちながらも、ふたりの足取りは案外しっかりしていた。
――物語の中で初めて出会った“地球のラスボス級の現実”。
ナオキとリヴは、この日、小さく一歩だけ踏み出した。
リヴが資料の山を抱えたまま固まっていると、テーブルに置いたスマホが振動した。見てみると、税務署のページを開いたままの画面に“青色申告のすすめ”という文字が表示されている。
「ナオキ……これ、青い……これが青色申告?」
「そう。いわゆる“最強の申告方法”だよ」
リヴはきょとんとした。
「最強……?」
「うん。ちゃんと帳簿をつけて申告すると、税金が安くなるんだ。だからみんな青色申告にしたがる」
「じゃあ、それでいいじゃない。強くなるなら」
「いや……強くなるには代償が必要でね」
ナオキはため息をつき、冊子を一つ取り上げた。
「これを全部やらなきゃいけないんだよ」
リヴはぱらぱらとめくり、即座に目をそむけた。
「文字がびっしり……図もいっぱい……。これ、魔道書より難しくない?」
「魔道書より難しいよ。魔法みたいに“感覚でなんとかする”ってできないし」
「じゃあ……これはナオキが覚えるの?」
「いや……二人で覚えるんだよ」
リヴは絶句した。
「二人で……? わたしが……これを……?」
「うん。店を一緒にやるからには、どっちかが倒れた時の保険にもなるしね」
そう言うとリヴは目を伏せ、ほんの少しだけ唇をかんだ。悔しそうではなく、決意を噛みしめるような仕草だった。
「……分かった。やる。やらないと前に進めないんでしょ?」
「うん。やれば絶対に慣れるから」
ナオキがさりげなく頭を撫でると、リヴは照れたように肩をすくめた。
「でもね……ひとつ気になることがあるの」
「なに?」
「この“複式簿記”って、何?」
その質問は、とてもピュアで、とても残酷だった。
ナオキは遠くを見るような目で言った。
「……リヴ。複式簿記というのはね……“お金の世界を二重に見る技術”なんだよ」
「二重……?」
「うん。例えば、お金を使ったら“使った記録”と、“手元から減った記録”の二つを書くんだ」
リヴは眉を寄せた。
「え? 二つも……? 一回しか使ってないのに……?」
「そう。でもその二つが同時に書かれてると“実際に合ってるね”って確認できるんだよ。それが複式簿記の仕組みなんだ」
リヴは沈黙した。
本気で理解しようとしているのが伝わる沈黙だった。
「つまり……お金が生き物みたいに、二つの姿を持ってるってこと?」
「そうそう。リヴの理解、いつも早いから助かるよ」
「……お金って、そんなに忙しいんだね……」
「うん。地球ではね」
また一つ、リヴの肩から希望が抜け落ちる音がした。
しかし、ページをめくる指は止まらない。ひっしに理解しようとしている。
「ナオキ、この“減価償却”って……?」
「それは高いものを買った時に“値段を分割して毎年ちょっとずつ経費にする”って仕組みだよ」
「なんでそんなことするの?」
「一度に全部経費にしたら税金が安くなりすぎるからだね」
「…………地球って、意地悪じゃない?」
「制度がね」
リヴはあきらめたような、むしろ悟ったような顔をした。
「じゃあナオキ……これは? “家事按分”?」
「それはね……仕事とプライベートを按分――つまり割合にして分けるってこと。家の電気代とかを“仕事で使った分”だけ経費にできるんだよ」
「なるほど……。じゃあナオキの部屋……仕事の部屋もあるし、生活の部屋もあるから……半分?」
「まあ、ざっくり半分くらいかな」
リヴは腕を組んでうなった。
「難しい……でも、ちょっと分かってきた気がする……気がするだけかも……」
「気がするだけでもいいよ。そうやって少しずつ慣れていくんだから」
ナオキが微笑むと、リヴは疲れたように笑った。
「ねぇナオキ……」
「ん?」
「魔物のほうがまだ優しい気がするよ……」
「俺もそう思うよ」
ふたりは同時に笑い、テーブルの上に散らばる紙の海を見下ろした。
魔法も剣も通じない“数字とルールの迷宮”。
この日、ナオキとリヴはその奥へ、さらに一歩踏み込んでしまった。
深夜に近い時間になり、テーブルの上は資料とメモで小さな紙の雪原みたいになっていた。
ナオキが手元の書類に赤線を引いていると、隣でリヴがひとつのページを指さして固まった。
「ナオキ……ねぇナオキ……これ……」
「どうした?」
「この“消費税の仕組み”ってやつ……これ、最後の敵の気配がする……」
ナオキはページをのぞき込む。そこには“課税事業者・免税事業者”や“インボイス制度”という、見ただけで胃が痛くなる単語が整列していた。
「……うん。リヴの勘は正しい。これがラスボスだよ」
「ラスボス……?」
「地球の制度の中で、一番ややこしくて、一番回避しにくくて……しかも勝っても負けても次の年にまた出てくるタイプのボス」
リヴの顔が真っ青になる。
「永続エンカウント……?」
「そう。しかもこっちのレベルに合わせて強さが変わるタイプ」
リヴはページをそっと閉じた。
「こわい……もう名前からこわい……“消費税”って……なにを消費するの……?」
「全部だよ」
「ぜ、全部!?」
「物を買うとき、サービスを受けるとき……あらゆる“消費する行為”にちょっとずつかかる税金。それが消費税」
リヴは眉を寄せた。
「でも……私たちは売る側だよね? お弁当を売るんだよね……?」
「そうなんだよ。だから今の地球では、“売る側”も消費税の計算をしなきゃいけない」
「なんで……?」
「国に代わって税金を集める役目を任されてるからだよ」
リヴの目が見開かれる。
「まってまって、それって……私たち、税金の集め役になっちゃうの?」
「簡単に言えば、そういうことだね」
「えぇぇ……そんな……ただお弁当作って売りたいだけなのに……私たちが国の使いの人になるなんて……聞いてないよ……」
リヴはテーブルに突っ伏した。
「税務署って……国の王城みたいな場所なんでしょ……?」
「まあ近いかな。書類の城だよ」
「じゃあ私たち……その城の門番やってるのと同じなの……?」
「……まぁ、ちょっとは似てるかもしれない」
「ど、どうしよう……門番なんてしたことないよ……」
ナオキは苦笑した。
「まあ、今は“免税事業者”だから、まだラスボスとは直接戦わなくていいよ」
リヴはぱっと顔を上げる。
「本当に!? まだ戦わなくていいの!?」
「うん。売上が少ないうちは、消費税を国に納めなくていいんだ」
リヴは胸を押さえ、ほっと息をついた。
「……よかった……まだ準備期間なんだね……」
「そう。だけどね……将来的にお店が大きくなったら、いずれは避けられない」
「避けられないんだ……」
「うん。ラスボスだから」
リヴは書類を両手でつまみ、そっとページを開いた。
「じゃあ……これ、今のうちに少しずつ覚えたほうがいいよね?」
ナオキは頷いた。
「そうだね。知識があれば、怖さは半分になるから」
「ナオキがいるから……たぶん大丈夫だと思う」
リヴは小さく笑ったが、目の奥には決意が宿っていた。
紙の束をめくる音が、静かな部屋にしばらく続く。
ナオキは横目でリヴを見ながら、ゆっくり深呼吸した。
(……偉いよ。普通、こんなの見せられたら投げ出すのに)
そのリヴが、ページを指で押さえながら首を傾げる。
「ねぇナオキ。“インボイス制度”って……なんかこの名前だけ強そうなんだけど……」
「うん。それはね……魔王級の中ボスみたいなものだよ」
「魔王級……?」
「お店が“ちゃんとした売り手”である証明を出して、消費税を管理しやすくする制度なんだ」
「なにそれ……私たち、魔法のない世界で、魔物より強い相手と戦ってない?」
「うん。地球はそういう世界だよ」
リヴはぷるぷる震えながら、書類をもう一度閉じた。
「……ねぇナオキ」
「なに?」
「地球の制度って……魔力より強いんじゃない?」
「強いね。弱点もないし」
「でも……倒せるの?」
「倒せないけど……味方になるよ」
リヴがぽかんとした顔をしている。
「味方……?」
「うん。ルールさえ守れば、“何もしてこない”っていう意味で味方になる。しかも慣れたら、制度が逆に助けてくれることもある」
リヴは書類を胸に抱え、少し照れたように笑った。
「じゃあ……私、味方にできるようにがんばるね」
「うん。二人でやれば、怖くないよ」
「そうだね……ナオキとなら、どんな敵でもいける気がする」
ナオキはその言葉に小さく笑い返し、資料を片づけ始めた。
地球の制度は、今日も重い。
でも――その重さを二人で分ければ、ほんの少しだけ軽くなる。
ふたりの静かな部屋には、深夜の空気と、紙の擦れる音と、小さな決意だけが残った。




