第9話:現実と、価値観のズレ
ズル休み明けの朝。
ナオキは重い体を引きずり、アパートのベッドから這い出した。今日は早番のシフトが入っている日だ。
昨夜、リヴが森へ帰った後。ナオキは仕事復帰のシミュレーションを何度も脳内で繰り返し、ほとんど眠れなかった。
(『熱は下がったんですけど、まだちょっとフラフラします』……これで押し切るしかない。もう、後がない)
職場の信用を失うことは、そのまま命綱を失うことに直結する。三日間のズル休みは、ナオキの人生を賭けたギャンブルだった。
彼は介護職員の制服に着替え、鏡で自分の顔を見た。
(……ヤバい)
そこには、熱でやつれた男ではなく、むしろ異世界での緊張感と高栄養食のせいで、妙に血色のいい男が映っていた。
ナオキはわざと髪をボサボサにし、ため息をつきながら、重い足取りでアパートを出た。
介護施設の事務所のドアを開けると、空気が一瞬止まった気がした。
ナオキは恐る恐る声をかける。
「……おはようございます。あの、すみませんでした、急に休んじゃって……」
休憩室から出てきた先輩看護師・美咲が、ナオキを捕まえた。
「あ、柏木君おはよー。熱、大丈夫だったの? 3日も休むなんて」
「あ、はい、すみません……もう熱は下がったんですけど、まだちょっとダルくて……」
ナオキは、練習してきた通りのセリフを口にした。
「ふーん……?」
美咲が、ナオキの顔をジロジロと値踏みするように見つめる。
「にしては、なんか顔色ツヤツヤしてない?」
「えっ!?」
図星だった。
(ヤバい! 異世界での緊張感と高栄養食で、むしろ健康になってる!)
「い、いや、寝汗がすごくて、さっきシャワー浴びてきたんで……」
「あっそ。まあいいや、今日は忙しいから。17番の鈴木さん、もう起きてるから排泄介助お願い」
「は、はい!」
ナオキは、美咲の追及から逃げるように、事務所を飛び出した。
仕事が始まってしまえば、日常だった。
利用者の体を支え、シーツを交換し、食事の準備をする。だが、ナオキの視点は、数日前とは完全に変わってしまっていた。
休憩中、ナオキは自販機で「スポーツドリンク」を買った。
ペットボトルの蓋をひねりながら、リヴがカルキ臭い水に顔をしかめた光景を思い出す。
(リヴが、これ飲んだらどうなるんだろう……)
あの強烈な甘味と塩分。また目を丸くするだろうか。
その日の仕事と学校(午後の講義)を終え、ナオキは帰宅途中に100円ショップと激安スーパーに寄った。
ズル休み中に消費した物資(カロリーブロックやレトルト粥、ガーゼ)を補充するためだ。
彼はまず、入り口すぐの見切り品コーナーへ足を向けた。賞味期限が近いパンや惣菜を手に取り、値段と期限を瞬時に吟味する。
(今日は戦果なし、と……)
ナオキはため息をつき、目的の棚へと向かう。
食品棚の奥、レトルト食品コーナーの前で、ナオキは足を止めた。
(リヴ、カロリーブロックばっかじゃ、いくらなんでも飽きるだろうな。まだ若い女の子だし)
ナオキは、自分が介護職員として利用者の食事に心を配っていた時の感覚を思い出した。
「クリームパン」と「野菜と豆のミネストローネのレトルトパウチ」をいくつかカゴに入れた。エルフなら、あまり化学的なものは好まないだろうという、ナオキなりの配慮だ。
さらに、彼は天然水のボトルを手に取った。リヴが水道水を不味そうな顔で飲んだことを思い出したからだ。
「2Lのミネラルウォーター、2本」
そして、ナオキは「棚」の前で改めて自分が何をしているのかを自覚した。
(……魔法や文明の差で、価値が変わるかもしれないけど……でも現実的には、俺の命も守らなきゃいけない。少しずつ慎重に扱わないと)
目の前には現実の価格が並ぶ。
「食卓塩 1kg 108円」
「角砂糖 1kg 198円」
「サラダ油 1L 298円」
「小麦粉 1kg 178円」
(……そういえば、鉄も塩も砂糖も、ラノベで読むとどの世界でも超貴重品って話だったな)
ナオキは、昨日リヴが差し出した錆びた釘の感触と、リヴが水を飲んだ時の顔を思い出す。
ナオキは、カートの中の「塩」と「砂糖」の袋を見た。
(俺が渡したものって、あの世界じゃ相当高価なのかな? 次、リヴがこの砂糖の袋を見たら、どんな顔をするんだろう)
ナオキは、純粋な好奇心に突き動かされながら、補充物資と共に、世界を揺るがしかねない「戦略物資」を数キロ分、何食わぬ顔でカゴに入れ、レジを通した。




