閑話1:地球最大の魔物
夕方の光が沈みかけ、部屋に柔らかな影が広がっていた。
今日の夕飯の支度を終えたばかりのキッチンで、リヴが突然振り返った。
「ナオキ! わたし……お弁当屋さん、やりたい!」
あまりに唐突な宣言に、ナオキは手に持っていた菜箸を落としそうになった。
「……どうした、急に?」
リヴは胸の前で手をぎゅっと握りしめ、真剣な表情で続けた。
「ナオキの家計の助けになりたいの。わたし……料理も好きだし、できることがあるならやりたい!」
その言葉はまっすぐで、胸に響くものがあった。
ナオキは少しだけ目を伏せ、ゆっくり息をついてから微笑んだ。
「……そっか。気持ちは嬉しいよ。じゃあ二人で、できるところからがんばってみるか」
リヴの顔がぱっと明るくなる。
その瞬間だった。
異世界で魔法を使い、王侯貴族とも渡り合い、
時空すら揺らす力に触れた二人でさえ――
この日、ついに“勝てる気のしない敵”と出会うことになる。
地球の制度という、誰にも避けられない巨大な山。
それは静かに、しかし圧倒的な存在感で二人の前に立ちはだかっていた。
――ここからが、地球最大の敵との戦いの始まりだった。
その敵は牙も爪も持っていない。
魔力も気配もない。
けれど、静かに机の上に広がっていた。
「……ナオキ」
「ん?」
「これ……敵だよね?」
リヴが指先でつついているのは、
市役所でもらってきた一枚の紙だ。
黒い文字でびっしりと書かれている。
『個人事業の開業・廃業等届出書』
ナオキは頭をかいた。
「まぁ……うん。敵と言えば敵かな……」
「だってこの紙、わたしに敵意を向けてくるよ?」
「紙が敵意向けてくるって初めて聞いたよ……」
「えーと……“納税地”…? “所得の種類”…? “青色申告”…?
ナオキ、これ……魔法の言葉?」
「いや、魔法より難しい言葉だよ……」
そして、二人は静かに悟った。
地球最大の敵は、魔王でもドラゴンでもなく、制度である。
リヴは開業届をじっと睨む。
その目は、いくつもの魔法や時空魔法を使いこなす少女と同じとは思えないほど弱々しかった。
「ねぇナオキ、この“青色申告”って何?
青い紙じゃないよね? 色が青いわけじゃ……」
「リヴ、それは俺もいまだに分かってない……」
「……うそだよね?」
「俺も毎年“これ本当に必要?”って思いながら出してる……」
リヴは絶句した。
異世界を救える男が、紙切れ一枚にひれ伏している。
「開業届を出すだけでしょ?
わたし、魔法よりずっと簡単だと思ってたのに……」
「俺もそう思ってたよ……。最初はね……」
淡い沈黙。
窓の外で鳥が鳴く。
その鳴き声がどこか哀れに聞こえた。
リヴは開業届を両手で持ち上げ、まるで古代の呪物でも扱うかのように震えた声で言った。
「これ……本当に人類が作ったものなの?」
「残念ながら地球産だよ……」
「異世界の魔導書より読みにくいんだけど……」
「俺もそう思う……」
そして、静かに戦いは始まった。
リヴは勇気を振り絞って、ひとつ目の項目を読む。
「“事業の概要”…?」
「ここには何をやるか書くんだよ。
たとえば“弁当販売”とか“食品製造”とか……」
「え、それだけ?」
「うん、それだけ」
リヴは突然ぱっと明るい顔をした。
「それなら簡単だよ! “料理を作って届ける”って書けば……」
「ちょっと待ってリヴ、それは違う世界に行っちゃってる」
「えっ」
「届けるって書くと“宅配業”だと思われちゃう……」
「ええっ!? なんで!? 料理作ったら届けるでしょ!?」
「いや……そうなんだけど……制度的には別の仕事になるんだよ……」
リヴの顔から血の気が引いた。
魔法の空間を扱う少女でも、
地球の制度の空間は読めなかった。
「なんで……どうして……料理を作って運んだら別の仕事になるの……?」
「分からない、俺も分からない……」
ふたりは見つめ合う。
共通の敵を前にした戦友のように。
ナオキは深呼吸した。
「でもな、リヴ」
「うん」
「これはまだ……“前座”だ」
「前座……?」
「本番は……“税金”だよ」
「…………………………」
はじめて空間転移させたときより、
リヴの目が大きく見開かれた。
「ぜ、税金……?」
「ああ……地球最強の魔物だよ……」
リヴはごくりと喉を鳴らした。
空間転移の薄膜に触れたときよりずっと緊張している。
「な、ナオキ……
わたし、魔法で税金ってどうにか……」
「できないよ!!」
「えっ、そうなの!?」
「税金だけは、魔法でもどうにもならないんだよ!」
一瞬、部屋の空気が震えた気がした。
まるで制度の重力そのものが揺れたかのようだった。
リヴは小さく呟いた。
「……異世界より強い……」
「俺もそう思う」
そう、この瞬間。
リヴは悟る。
真の魔王は地球側にいる。
ナオキは開業届を畳み、リヴの肩を軽く叩いた。
「でも大丈夫。敵の正体が分かれば、対策もできる」
「敵の……正体……」
「うん。開業届は書けば終わり。
税金も最初の一年はそんなに大変じゃない。
だから、順番に倒していけばいい」
「倒せる……?」
「人類は昔から倒してるよ。
倒したくなくても期限が来ると勝手に倒すことになるし……」
「それ……負けてない?」
「負けてるね……」
リヴは目を伏せ、そして顔を上げた。
不思議な気配があった。
戦士が武器を手に取るような、揺るがない意志。
「ナオキ。わたし、やるよ」
「リヴ……?」
「地球に来て、料理の仕事をして、みんなに食べてもらいたい。
開業届が敵なら、ちゃんと倒す」
「……ああ。二人でやろう」
静かな決意の中で、
開業届がゆっくりと机に置かれる。
まるでボス戦の前に置かれたマップのように。
そして、二人は知らなかった。
このあと――
保健所、衛生基準、住民票、酒税、消費税、危険物取扱い……
想像を絶する強敵たちが控えていることを。
だが今はまだ知らなくていい。
今日戦うのは“開業届”ただひとつ。
二人は同時に深呼吸し、ペンを手に取った。
地球最大の魔物との戦いが、静かに幕を開けた。
開業届ダンジョン:第一階層
開業届を前に、二人はソファへ向かい合って座った。
机の上にはペン、書類、そして何度読んでも理解できない日本語の羅列。
リヴは真剣な顔で深呼吸する。
「ナオキ……わたし、本当にこれと戦えるのかな」
「大丈夫。魔王城よりは安全だよ」
「本当に……?」
「……いや、うん、大丈夫だよ、多分……」
ナオキの言葉が少し揺れた。
だがリヴは聞かなかったふりをした。
地球の制度前に心を折られたら負ける……。
そう、本能が告げていた。
リヴは開業届を手に取り、一番上から読み始めた。
――項目1:氏名・住所・生年月日。
「これは……分かるよ!」
「よかった……まずは味方だ」
リヴが嬉しそうに書き進めていると、
ナオキはふと気づいたように顔を上げた。
「……あ、リヴ」
「ん?」
「リヴの“生年月日”って……どうする?」
「どうするって……書くだけじゃ……」
「いや、だってリヴの生まれた日は“あっちの暦”でしょ?」
「……あ」
リヴの手が止まり、ペンの先が震えた。
異世界の太陽の動きは地球と違う。
月の数も違う。
暦の周期も違う。
つまり――
「リヴの生年月日、地球に存在しないんだよね……」
「ええっ!?」
「いや、これは仕方ないんだよ……。異世界で生まれてるから……」
リヴはふるふるとナオキを見る。
「じゃ、じゃあ……わたし、この紙に“存在できない”の……?」
「大丈夫! 落ち着いて! 制度上は“仮の生年月日”を使えばいけるから!」
「かり……?」
「たとえば、リヴがこっちに来た日を“誕生日”にするとか」
「そんな適当でいいの!?」
「制度ってね、案外ゆるいところはゆるいんだよ……」
リヴは胸を押さえ、ほっと息をつく。
「……こわい……地球の制度、あたまが柔らかいんだか硬いんだか分からないよ……」
「俺も分からない……」
ともあれ、“生年月日問題”はクリアした。
――項目2:職業・事業内容。
リヴは再び書類を見て固まる。
「ねぇナオキ。この“事業内容”って……何を書けばいいの?」
「えーと、“弁当製造・販売”でいいと思うよ」
「でもわたし、料理作って渡すだけじゃ……」
「それをね。制度上だと“製造”って扱うんだよ」
「なんで……?」
「分からない……制度の人にしか分からない……」
リヴはうつむき、項目を見ながらぽつりと呟いた。
「異世界で魔法の構造を教えるより難しい……」
「リヴ、これを乗り越えれば起業家だよ……」
「起業家って……こんなに辛いの……?」
「うん……地球では戦士より強い職業だよ……」
震える手で“弁当製造・販売”と書いたリヴは、
たった一行を書くのに、自分が二歳ほど老けた気がしていた。
――項目3:青色申告の有無。
その言葉を見た瞬間。
リヴはナオキを見る。
ナオキはため息をつく。
ふたりは同時に言った。
「分からない……」
青色申告ほど意味が理解できない単語はない。
どう見ても青色ではない。
申告なのは分かるが“青さ”の意味が分からない。
「ナオキ、これは……何の魔法なの?」
「魔法じゃないよ……ただの“制度の呪文”だよ……」
「呪文……?」
「うん。唱えると税金が安くなるけど、唱えるためには修行が必要なんだ……」
「やっぱり魔法じゃない?」
「違うよ……これは“修行のような会計処理”なんだよ……」
リヴは紙の上に頭を置きたくなった。
「ねぇナオキ……青色申告にしたほうがいいの?」
「……たぶん、したほうがいいと思う」
「たぶんって何……!?」
「税務署の人も“したほうがいいですよー”って笑ってたから……」
「その笑顔が怖いよ!?」
青色申告のチェック欄を前に、
リヴは今までの人生で最大の決断をしようとしていた。
だが、勇気を振り絞ってチェックを入れる。
「……入れた」
「すごいよリヴ……これで一歩、起業家に近づいた……」
「勇者より大変なんじゃないかな……」
「うん、俺もそう思う……」
――項目4:事務所の場所。
ここでふたりは静かに沈黙した。
リヴの表情は真剣で、ナオキは机の端をトントンしている。
「ねぇナオキ。倉庫、まだ床もできてないよ?」
「うん……」
「換気扇もないよ?」
「……うん……」
「お店って言える状態じゃないよ?」
「……異世界よりダンジョンだよね、あそこ……」
「うん……」
ナオキは苦笑しながら言った。
「でも、とりあえず“倉庫で開業”でいいんだよ」
「えっ、でも設備できてないよ?」
「開業届って“これからやります”って宣言だから、まだ何もなくても大丈夫」
「え、いいの……?」
「うん。制度ってたまに優しいんだよ……」
「えっ……こわ……」
リヴは再びペンを握りしめ、“倉庫の住所”を書き込んだ。
震える手で書いたにも関わらず、文字は美しかった。
さすが聡明なエルフの血。
――そして、最終項目へ。
「ここまで書けたら、もうゴールだよ……!」
「ほんとに……? まだ何か出てこない……?」
「出てこないよ……たぶん……」
「たぶんって言うのやめて……!」
リヴは震える手で最後の欄にサインし、ペンを置いた。
その瞬間――
部屋の空気が少しだけ軽くなったように感じた。
開業届ダンジョン、第一階層クリアである。
リヴは肩で息をしていた。
「……ナオキ……書類を書くって、こんなに疲れるんだね……」
「うん……これはね、戦いだよ……」
「魔物より消耗するよ……」
「俺も初めて書いたときそう思ったよ」
ようやく書き終えた二人は机へ書類を並べた。
リヴは書類をじっと見つめ、ぽつりと呟く。
「……地球の人たち、これを毎年やるの……?」
「ううん、毎年は確定申告だよ」
「……それも敵なの……?」
「うん、書類の魔物だよ……」
「ひぇ……」
だが、二人はまだ知らない。
開業届はただの入口。
本当の魔物は、これから先にいる。
税金、消費税、住民票、保健所、営業許可、危険物取扱い……
それらは“開業届の上位種族”とも呼べる存在だった。
窓の外では夜が静かに深まる。
明日、リヴとナオキは市役所と税務署へ行くことになる。
地球制度ダンジョンの第二階層――
提出戦が待っていた。
翌朝。
街はやわらかい光に包まれ、車の音がいつもより静かに聞こえた。
だがリヴは緊張していた。
「ナオキ……ほんとに行くの?」
「うん。書いた書類を提出するだけだよ。大丈夫」
「大丈夫って……この紙に“青色申告”って書いてあるんだよ……?」
「うん。それは……もう覚悟して……」
「覚悟って言わないで……」
そんな会話をしながら、二人は市役所の自動ドアへ足を踏み入れた。
カウンターに座る職員
リヴは息を飲む。
(強そう……)
実際、書類を前にした彼らは制度の守護者である。
異世界の賢者に近い威圧感がある。
ナオキは慣れた風に声をかけた。
「すみません、開業届の提出で……」
「はい、こちらへどうぞー」
職員の笑顔は柔らかい。
だが、リヴの緊張はむしろ増した。
(……この笑顔……魔物が“弱いと思わせるための笑み”に似てる……)
リヴの想像は完全にズレていたが、ナオキは気づかない。
二人は窓口の前に座る。
職員は書類を手際よく確認し始めた。
「氏名、住所、生年月日……はい問題ありません」
(生年月日……地球じゃない日なのに!?)
リヴは心のなかで叫んだ。
だが職員は淡々と進む。
「事業内容……弁当製造・販売……はいはい、一般的な内容です」
(魔力なしでこんなに読み取れるなんて……この人……強い……!)
「青色申告も大丈夫ですね。こちら控えになります」
(青色申告の呪文、効いてる!? なぜ!?)
リヴが勝手に感動している間に、
職員は処理を終えてしまった。
「はい、提出完了です。お疲れさまでした」
「えっ」
リヴの口がぽかんと開いた。
「も……もう終わり?」
「はい、以上です」
拍子抜けするほどあっさりした“勝利”だった。
異世界ダンジョンなら入口のスライムレベルである。
だがリヴは震えながらナオキを見た。
「ナオキ……今の……勝ったの?」
「ああ、勝ったよ」
「……もっと、戦うのかと思った……」
「うん。書類戦は意外とあっさりなんだよ。問題は――」
ナオキの声が低くなる。
「――敵は、この先だ」
リヴはごくりと喉を鳴らした。
次なる強敵:税務署
市役所を出てすぐ、ナオキが言った。
「次は税務署だね」
「ぜ、税務署……」
「大丈夫。提出するだけだから」
「その“提出するだけ”が信用できないんだけど……」
税務署は市役所の近くに建っている。
近づくにつれて、リヴはナオキの袖をそっとつかんだ。
「ナオキ……なんか、ここだけ空気が冷たい気がする……」
「気のせいだよ……たぶん……」
「たぶんって……」
自動ドアが開き、二人は中に入った。
中は静かで、どこか重たく、
異世界の「神殿」に近い雰囲気がある。
リヴは小さくなる。
(ここ……空間が圧縮されてる……?)
ただの建物である。
ナオキは受付へ行き、提出書類を渡した。
職員が機械のような無表情で処理を進める。
「はい。問題ありません」
「そ、そうですか……」
ナオキも毎回ここは緊張する。
リヴは背中を丸めて小さく呟いた。
「ここ……ナオキでさえ緊張するんだ……」
「うん……税務署は……ダンジョンの最深部と同じくらい怖い……」
「そ、そんな恐ろしいところに私が……」
「大丈夫、今日は書類渡すだけだから」
「今日だけ!?」
「うん。来年……また戦うから」
「ええっ……!?」
だが、提出は数分で終わった。
職員は淡々とハンコを押し、
ナオキへ控えを渡す。
「はい、以上です」
「ありがとうございました」
建物の外へ出ると、
リヴは膝に手を当ててへたり込んだ。
「……無理……ここ……魔王城より強いよ……」
「分かるよ、俺も初めて来たとき……心が折れた」
ナオキはリヴの頭を軽く撫でる。
「でも……これで開業までの第一段階はクリアだよ」
「第一段階……?」
「うん。
このあとが、本番だ」
リヴはそろそろ泣きそうだった。
「まだあるの……?」
「あるよ……保健所、営業許可、食品衛生責任者の講習、
原価計算、帳簿の付け方……」
「敵が多い!!」
「地球って……制度の魔物だらけなんだよ……」
リヴはうつむき、
しばらく黙ったあと小さく言った。
「……ナオキ、わたし……がんばる」
「うん。一緒にやろう」
「地球の制度、強いけど……ナオキとなら倒せる気がする」
「うん。俺もだよ。二人なら絶対勝てる」
夕日が沈み、街の灯りが灯り始める。
二人の影が並んで長く伸びていた。
その影の先には、
まだ見ぬ制度の大ボスたちが待っている。
だが、二人の足取りは軽かった。
――地球最大の魔物に挑む冒険は、始まったばかりだ。




