静かに満ちる……荷物の日
午前の光がサロンの窓から差し込み、棚に並んだ瓶の表面をやわらかく照らしていた。
リヴは湯気の立つカップを両手で包みながら、胸の奥――アイテムボックスに続く静かな空間の広がりをゆっくり確かめていた。
「今日は……お休みの知らせを出すんだよね?」
「うん。海外出張ってことにした。急に休むよりいいし、今月までは普通に営業して、来月から休みにするよ」
ナオキはノートパソコンに向かい、慎重に文字を並べていた。
地球の生活を一時的に閉じる準備。それは現実と異世界の隙間を整える、落ち着いた作業のように見えた。
「海外って……どこなの?」
「どこって言われると困るんだよ。だから“海外”でまとめた。
いちいち説明するより、そのほうが楽でしょ?」
リヴは小さく笑う。
「……ナオキらしいね。誰も困らない言い方を選ぶところ」
「言葉って刃にもなるからさ。なるべく丸くしておきたいんだよ」
パソコンを閉じると、テーブルには湯気を立てる金属カップと、冷えたグラス。
今日行う“実験”のために並べたものだ。
「まずは温度の実験。半日しまってから取り出す。それから一日版も」
「わかった。やってみるね」
リヴは胸元へ手を添え、ふっと息を整えた。
――空気がわずかに沈む。
影が柔らかく揺れ、二つのカップは音もなくアイテムボックスへ吸い込まれた。
「……しまえたよ」
「よし。半日後に確認しよう」
時計を見上げながら、ナオキはゆるく息を吐いた。
「ほんと……想像してた通りのアイテムボックスだな」
「想像してたの?」
「うん、子どものころから憧れてた。でも……これは俺が想像してた“ゲームみたいなやつ”とは違うよな。
仕組みも分からないし、どこまでできるか勝手に決めつけたくないんだ」
リヴはすぐに首を横に振った。
「ナオキ、それね……たぶん逆だよ」
「え?」
「わたし、一人でやるとちょっと不安になるの。
奥がぼやっとして距離がつかみにくいっていうか……」
「へぇ、そんな感じなんだ?」
「うん。でも、ナオキが横で見てるとすごく楽なの。
“ここに入れる・ここから出す”って位置の感覚がはっきりするんだよね」
「ああ……それなら分かる。誰かいると集中しやすい、みたいな?」
「そうそう。魔法とかじゃなくて……ただ安心するの。
ナオキが近くにいると、『大丈夫』って思えるから失敗しない気がするんだ」
ナオキの胸に、その言葉が静かに落ちた。
「……そっか。そう言ってもらえるのは、ちょっと嬉しいな」
少し照れたように視線をそらし、ナオキは袋を開けた。
「じゃあ、持ち込み品の確認しようか」
「うん。この青い容器は?」
「保湿クリーム。風も乾燥も強いし、塗っておくと肌が守られるよ」
リヴは指に少量を取り、手の甲になじませた。
「……すべすべ。あったかい香りがして……これ、魔法みたい」
「魔法じゃないけど、旅では心強いよ。こっちはもっと油分の強い保護剤。ひび割れやすい場所に使うやつ」
「頼もしいね……」
続いて細いスティック状の容器を手に取る。
「これは?」
「唇を守る軟膏。乾燥すると痛いから」
「色はつくの?」
「つけてない。自然なままのほうが、リヴに似合うと思って」
リヴは驚いたように瞬きし、頬を染めた。
「それと……これは工房用の“本命”だよ」
ナオキが取り出したのは――
・ショーツ用の柔らかい綿布
・ゴム代わりになるやわらかい伸縮バンド
・吸収素材(生理用品試作用)
・布ナプキン型紙
・裁縫セット(糸・針・待ち針・指ぬき)
・ミシン糸に近い強度のスパン糸
・小さな手回し式のロータリーカッター
「これがあれば……下着も生理用品も、異世界で作れるよね?」
「うん。あっちの布はどうしても粗いから……最初の見本は地球の品質を持ち込むのが一番いい」
「なるほど……“これを作りたい”って見せられるんだね」
「そうそう。“製品の基準”ってやつだよ」
リヴは布を手に取り、しばらく撫でていた。
「すごく……やわらかい。これなら……きっと喜ばれる」
「絶対にね。布ナプキンもショーツも、ちゃんと形にしたら工房の仕事にもなる」
「じゃあ……これも全部しまうね」
リヴは胸に触れ、布と裁縫具を吸い込ませた。
荷物はある程度まとまった。
だが――ナオキの段ボール箱には、まだまだ“異世界用”の品が眠っていた。
「……よし。じゃあ次は、異世界に持ち込むと革命が起きそうなやつを出すね」
「なにか、まだあるの?」
「うん、いっぱいある」
ナオキは段ボールをもうひとつ開けた。
中には、きれいにパッキングされた生活用品、工具、小道具がぎっしり詰まっている。
「まずは――これ。携帯浄水ボトル」
細いフィルターが付いた透明なボトルを持ち上げる。
「この筒がすごくてね。川の水でも、ほぼ安全な飲料水になる。煮沸しなくていいんだ」
「……魔法じゃないのに?」
「うん。機械的に“汚れだけ取る”。向こうの旅は水が一番問題だから、これがあると本当に助かる」
「じゃあ、これも……お願い」
「うん……はいっ」
胸に触れた瞬間、浄水ボトルはふわりと吸い込まれた。
「これは……?」
「湿気に強い油紙の袋。食料の保存に使う。異世界だと袋そのものが貴重だから、これだけでも価値がある」
「ほんとだ……触り心地が全然ちがう……」
「パン、お菓子、乾燥肉。保存するときに使おう。工房ができたら商品にもできる」
油紙もすぐに消えた。
「これは……小型の手回しミル」
「ミル?」
「香辛料を細かくする道具。向こうは胡椒も固まりが多いから、これで挽いたら衝撃だよ」
「香りが変わるんだよね?」
「うん。料理の質が一段上がる。これも工房で扱う予定」
ミルも吸い込まれた。
「あと、これは料理道具だね」
ナオキは細かい金属の網器具を取り出した。
「細かい……網……?」
「“布フィルターの上位版”って言ったほうが近いかな。
異世界って、煎じ薬やスープ、香草酒でも“濾す仕事”が多いだろ?」
「たしかに……布で絞るの、大変だもん」
「これなら何度も使えて丈夫だし、目が細かいから雑味が落ちやすい。
薬草師の店とか、宿屋の厨房でも重宝されると思う」
「油だけじゃなくて……いろいろ便利なんだね!」
「うん。油はおまけ。向こうの日常の“濾し作業”全部が楽になる。
大量には売れないけど、専門の人には刺さる道具だよ」
リヴは網を光に透かし、感心したように目を丸くした。
「これ、きっと向こうの人……驚くね」
「うん。特に薬屋は絶対欲しがる」
金属の網は、軽い音を残してアイテムボックスに吸い込まれた。
「……たくさん入ってるのに……ぜんぜん重さを感じない」
「アイテムボックス、ほんとに便利だね……」
ナオキはさらに小箱を開けた。
「それから、これは――“裁縫の革命”。」
中には細い銀色の針と、強い化繊糸がいくつも並んでいる。
「この糸……細いのに硬い……?」
「化学繊維だよ。異世界では絶対作れない。
下着や生理用品を作るとき、これがあると品質が跳ね上がる」
リヴはそっと頬を染めた。
「……あの、ショーツや……布を作る工房の……?」
「そう。ただ、これは“最初の一歩”なんだ。
化繊は向こうじゃ作れないし、あくまで“見本”になるだけ。
最終的には向こうだけで完結できるようにする」
道具が並ぶたび、リヴの瞳は少しずつ強い光を帯びていった。
「ナオキ……こんなに、本気なんだね」
「うん。全部、向こうでちゃんと形にしたいから」
「だから次は、“向こうでも作れるようになる”材料を持っていくよ」
ナオキは最後の袋を開けた。
「これが……今回の“秘密兵器”。」
取り出したのは――
手で触れただけで分かるほど織り密度の高い、日本の木綿布。
リヴは目を丸くした。
「……やわらかい……これ、本当に布? 異世界のより細かい……」
「うん。素材そのもの。
高級タオルじゃなくて、“布そのものの完成形”。
これがあれば……向こうでショーツも、生理用品も、子どもの下着も作れる」
「タオルじゃないの?」
ナオキは首を横に振った。
「タオルは文明差がありすぎるんだ。
向こうの織機じゃ、糸の細さも密度も起毛も再現できない。
でも、この薄手の布なら違う。
紡ぎの技術さえ追いつけば、向こうの工房でも作れるはず」
リヴは布の端を指先で触れ、目を細めた。
「じゃあ……いつか向こうの人たちだけで全部作れるようになるんだね」
「うん。これは“最初の種”。
地球の布そのものじゃなくて、地球の“やり方”を持っていくんだ」
リヴは布を胸に抱きしめ、静かに言った。
「……これが、“基準の布”になるんだね。
ここから始めて、みんなで追いかけていく……そういう布なんだ」
ナオキも深くうなずいた。
「そうだよ。まずはこの布の軽さ、柔らかさ。
“これを目指して作ればいい”って分かる基準になる」
布は淡い影に揺れながら、静かにアイテムボックスへ沈んでいった。
――こうして、荷物はすべて揃った。
異世界へ持っていく“文明の火種”。
どれも派手ではない。
剣でも魔法書でもない。
けれど、ゆっくりと確実に“生活そのもの”を変えていく力を持った道具たちだった。
「これで……向こうでの生活、すこしでも楽になるね」
「うん。あっちの世界を壊さない程度に、ゆっくり良くしていくよ」
リヴは胸に手を当て、そっと押さえた。
アイテムボックスの奥が、たくさんの物を取り込んで、静かに呼吸しているように感じる。
「……いっぱい入れてねって言ったけど……ほんとにいっぱい入ったね」
「助かったよ、リヴ。君がいなかったら絶対ここまで持っていけなかった」
リヴは誇らしげに微笑んだ。
「ふふっ……ナオキのお役に立てるなら、いくらでも入れるよ」
窓の外では夕焼けが深く沈み、街の輪郭が橙から紺へとゆっくり色を変えていく。
その静かな光の中で、二人はしばらく黙ったまま片づけを続けた。
たった数時間後には、また異世界へ渡る――
そう思うだけで、胸が少し高鳴る。
「……行こう、ナオキ。
準備は、もうできてる」
「うん。行こう」
アイテムボックスの奥は静かに広がり、
その中には、世界を少しだけ変えるための道具たちが、呼吸を止めて待っていた。
異世界へ向かう“準備の日”は、こうして静かに、しかし確かに満ちていった。




