時空転移の芽
夕方の名残がまだ薄く漂っている部屋の中で、リヴは静かに息を整えていた。
テーブルのそばにしゃがみ、柔軟剤のボトルをそっと手に取る。その姿には、もう迷いの影はなかった。
「これ、またやってみてもいい?」
「うん。軽いものなら無理しなくていいよ」
ナオキの声はいつものように穏やかで、受け止めるように柔らかかった。
リヴは小さく頷き、胸の奥へ意識を沈める。手の中にある柔軟剤の形と重さを軽く感じたのち、その輪郭がゆるくほどけていく。
空気が一度、静かに落ちた。
次の瞬間、柔軟剤はふっと消えた。
「……うん。できた」
リヴは驚くでもなく、淡い呼吸のままつぶやいた。
その表情に焦りも力みもない。まるで慣れた動作をもう一度確認しただけのようだった。
ナオキは柔らかく笑った。
「本当に、アイテムボックスを使いこなしてきたね。昨日と全然違うよ」
「胸の奥の部屋、アイテムボックスがね、すぐそこにあるみたいなの。手を伸ばしたら、もう触れてる感じ」
リヴは胸に手を当て、指先でそっと押さえた。その仕草は感覚をたしかめるようで、見るだけで胸が温かくなる。
「戻すね。ちゃんと出すよ」
息をひとつ整え、影に触れた瞬間、柔軟剤のボトルが静かに姿を現した。
本当に、自然な動作だった。物をしまうことへの抵抗が、もう彼女の中にはない。
「すごいよ、リヴ。安定しすぎてる」
「ううん……なんて言うのかな……空間が分かるっていうのかな……。手の届く場所が、はっきりしてきた感じがするの」
その言葉は曖昧だったが、不思議と伝わってきた。
リヴが胸奥に感じている“場所”は、彼女の理解に応じて形を整えていくのだと、自然に思えた。
ナオキは頷きかけたが、その途中でリヴがふっと立ち上がった。
「……ねぇ、ナオキ」
「ん?」
「たぶん、だけど……もっとできると思う」
その言い方があまりに自然で、ナオキは思わず瞬きをした。
挑戦するような気負いはどこにもない。ただ日常の延長に、一歩先を置いたような話し方だった。
「何を?」
「ちょっと見てて」
リヴは視線だけで部屋の隅を指した。
そこにはティッシュの箱が置いてある。
次の瞬間。
空気の層がわずかに揺れた。
ほんの一呼吸の間に、ティッシュ箱は部屋の隅から消え、リヴの手元へ、なにもない空間からそっと現れた。
ナオキは声を失い、わずかに口を開いた。
「……え?」
リヴは少し照れたような微笑みで、ティッシュ箱を見つめた。
「なんとなく……できると思ったの。やってみたら、本当に来た」
言い終えるより早く、ティッシュ箱は再び影に溶け、元の部屋の隅に戻った。
動きには乱れがなく、迷いもなかった。
ただ、そこにあったものが、一度だけ場所を変えただけ。
ナオキは深く息を呑んだ。
「……ワープ? 転移ってこと?」
「うーん……そんな難しい言葉じゃない気がするんだけど……」
リヴは指先を胸に当て、静かに目を閉じた。
「ずっと……行き来してたからだと思う。ナオキと一緒に、あっちの世界と地球を何度も超えてきて」
淡い声が部屋に落ちる。
「重さとか……風とか……時間の流れ方とか……そういうの、身体で覚えてしまった感じがあるの」
リヴは胸奥の部屋へそっと意識を向けたまま、続けた。
「それに……地球で学んだ物理とか、アニメで見る空間のイメージとか……全部がつながったみたいで」
目を開け、ナオキを見る。
「なんとなく……噛み合ったの。空間って、こういうふうに扱えるんだって」
ナオキは言葉を失ったまま、それでも笑おうとした。
「……すごいよ、本当に」
「すごいのかな……。なんかね、その向こうにあるものが、ちょっとだけ見えた感じがしたの」
リヴは自信ではなく、ただ確かめるような柔らかい顔でそう言った。
ナオキの胸に、じんと熱いものが広がる。
(この子……本当に、とんでもない才能だ……)
ティッシュ箱は、何事もなかったかのように部屋の隅へ戻っていた。
ナオキはゆっくりとティッシュ箱へ目をやり、そしてリヴへ視線を戻した。
その動きのひとつひとつが、信じがたいものを前にしたとき特有の静けさをまとっていた。
「……いや、本当に……これは、ちょっとすごすぎる……」
言葉は小さいのに、驚きが隠しきれていない。
呼吸が浅くなるのを自覚しているのか、胸に手を当てて深く吸い込んだ。
「アイテムボックスみたいに、物をしまったり出したりするのは固有スキルなんだと思う。あれはリヴの中の部屋が動いてる感覚で……」
そこでナオキは一度言葉を止めた。
口を開きかけて、もう一度ティッシュ箱を見る。当たり前の存在なのに、もう当たり前ではなくなっている。
「でも今のは、まったく仕組みが違う。これは……」
喉がひとりでに鳴った。
「……アポートだよ。時空転移って呼ばれるやつだ。物の位置そのものを変える魔法」
「魔法……なんだね、やっぱり」
「うん。内側の部屋とか、そういう構造じゃない。外の空間そのものに触れてる」
リヴは自分の指先を見つめた。
たしかにさっきの動きは、胸の奥の部屋に触れた感覚とは違っていた。
「分かるよ……。さっきのは、しまうっていう感覚じゃなかった。胸の部屋には触れてないの」
「じゃあ……どんな感じだった?」
「えっとね……」
リヴは考えるように目を伏せ、それからゆっくりと言葉を紡いだ。
「空気の中に薄い膜みたいな場所があって……その少し向こう側にあるところを、指でつまんだみたいな、そんな感じ……うまく言えないけど」
ナオキは無意識に息を呑んだ。
「……それ、完全に時空魔法の感覚だよ」
「そうなの?」
「うん。空間の層を少しずらして、ものを引っ張ってくる……そういうの、転移系の魔法に近い」
リヴは少しだけ肩をすくめた。
「でもね、怖いって感じじゃなかったよ。むしろ、できそうって思ったら、できた感じ」
その言い方があまりに自然で、ナオキの方が困惑する。
「そんな、散歩みたいに言うことじゃ……」
けれど、叱る気持ちはまったく起きなかった。
ただただ、目の前の少女の異常な才能が、またひとつ形を見せたことに圧倒されているだけだ。
「ほんとに、魔法を使ったって感じだったの」
リヴが小さく言った。
「私の中の部屋じゃなくて……外の空間に触れたみたいな感覚だったの」
その言葉を聞いた瞬間、ナオキの背中にひやりとしたものが走った。
でも続けて、胸の奥が温かく満たされる。
(この子……本当に、とんでもない場所まで行けるんじゃないか……)
それは不安ではなく、期待に近かった。
アイテムボックスを使えるようになったこと。
地球と異世界を行き来して得た身体感覚。
地球で学んだ知識。
アニメで見た空間表現。
それら全部が、ひとつの線でつながった。
そして今日、初めて空間そのものに触れた。
「リヴ。……これは、始まりだよ」
「始まり?」
「うん。転移魔法の。たぶん、その最初の芽だよ」
リヴは胸元をそっと押さえ、少し困ったように笑った。
「どうしよう……なんか、できちゃった」
その言葉が、あまりにも自然すぎて。
ナオキはしばらく笑うことしかできなかった。
リヴが胸元を押さえたまま「できちゃった」と笑ったあと、
部屋にはしばらく言葉のない空気が漂った。
ナオキはしばらく考えてから、リヴへ静かに向き直った。
その表情には緊張ではなく、確かめるような穏やかさがあった。
「ねぇ、リヴ。さっきの話の続きなんだけど……もう少しだけ説明していい?」
「うん。ちゃんと聞くよ」
リヴは姿勢を正し、まっすぐこちらを見つめる。
その瞳に不安の色はない。理解しようとする柔らかな意志だけがある。
ナオキは胸の奥でひと呼吸して、言葉を選んだ。
「空間を扱う力ってね……とてもきれいなんだけど、同じくらい繊細なんだ。
重力とか、時間とか、空気の流れとか……そういうのが全部そろって、ようやく一つの“場所”ができてるんだよ」
「うん……なんとなく分かるよ。世界って、全部がつながってる感じがするもん」
リヴの素直な言葉に、ナオキは小さくうなずいた。
「だからね、転移って力は、ただ物を動かすだけじゃなくて……
この世界の“決まりの線”に触れることでもあるんだ。
その線が揺れている時に無理をすると、場所がずれることがある」
「ずれるって……どんなふうに?」
「例えばだけど。地球って、すごい速さで回ってるんだよ。
一秒の間にも、地面そのものが何十メートルも動いてる。
もし“動いてない場所”に向けて転移したら……うっかり外に放り出されることだってあるんだ」
リヴは目を見開いたが、怯えではなかった。
その言葉をしっかりと飲み込むような静かな反応だった。
「……本当に?」
「うん。理屈だけで言えばね。
でもリヴの転移は、そういう“強引な魔法”じゃない。
空間の流れに合わせて、安全な場所しか触らない……優しい転移なんだ」
「それなら……よかった」
リヴの肩が少し緩んだところで、ナオキはもう一つ、大切なことを伝える。
「ただ……一つだけ。絶対に覚えててほしいことがある」
「うん。なに?」
「リヴ自身の転移は、絶対にしないでほしい。
物を動かすのと、自分が動くのは……まったく別の話なんだ」
リヴの呼吸が一瞬だけ止まる。
ナオキはその気配に気づき、声の調子をさらに優しく整えた。
「物ならね、位置が少しずれても、その箱が落ちたり跳ねたりするだけで終わる。
でも、人間はそうじゃない。
重力の向きとか、空気の密度とか、時間の流れとか……全部が合ってないと、身体がついていけない」
「……うん」
リヴのまつ毛がわずかに揺れる。
「それに……リヴは生きてる。
心臓も動いてるし、血も流れてるし、体温もある。
そういう“生きてる条件”って、ものすごく複雑なんだ。
それを一度に別の場所へ移すには……今のリヴの優しい転移じゃ、足りないんだよ」
静かな部屋の中で、ナオキの声だけが柔らかく落ちていく。
リヴは胸に手を置き、小さく息を吸った。
「……分かった。
自分には絶対に使わない。
怖いからじゃなくて……ちゃんと理由が分かったから」
その答えに、ナオキは深く安堵した。
顔には出さないようにしていたが、胸の奥に温かいものが広がる。
「ありがとう、リヴ。それだけで安心したよ」
「ううん。言ってくれてよかったよ。
なんとなく“やっちゃいけない”って感覚はあったけど……理由が分かると、ちゃんと守れるから」
ナオキはその言葉に目を細めた。
(この子は、本当に……強いな)
恐れではなく、理解で止まれる。
それがどれだけ難しいことか、ナオキにはよく分かっていた。
リヴはそっとナオキの隣に体を寄せた。
「ねぇナオキ。
わたし……もっと学んでいくね。
空間のこと、世界のこと……ちゃんと分かって使いたい」
「うん。俺が全部ついていくよ」
小さく返すと、リヴは安心したように微笑む。
夜の静けさが二人のまわりに溶け、
部屋には優しい緩やかな気配だけが残った。




