アイテムボックス覚醒
夕陽が沈んだあとの薄い光が、部屋の隅々をやわらかく染めていた。
窓から入り込んでくる橙の気配は、夜へ移り変わる静けさをそっと連れてくる。
床には今日買ってきた生活用品が並び、柔軟剤やシャンプーの香りが小さく立ちのぼっていた。
並んだ品々は、どれも店の棚で冷たく並んでいたものなのに、今はこの部屋の空気にゆっくり溶けていく。
ナオキは最後に残った段ボールの前に膝をついた。
箱の影が長く伸び、夕闇が触れるように淡く揺れている。
「さて……これ、ちょっと重いんだよな」
つぶやきと同時に底へ手を差しこむと、ずっしりとした重みが返ってきた。
持ち上げようと力を入れた瞬間、腕がかすかに震え、肩へ小さな張りが走る。
「ナオキ、無理しなくていいよ。わたしが……」
リヴがそっと隣に歩み寄った。
段ボールには触れず、箱の縁に落ちる影へ指先を伸ばす。
その動きは静かで、紙を扱う仕草よりも柔らかかった。
風が触れたのかと思うほど淡い気配が、空気の表面をなでただけ。
しかし、その一瞬。
空気がひとすじ、かすかにたわんだ。
細く、静かに。
けれど確かに――部屋の空間のどこかが、そっと摘まれたように見えた。
「……え?」
ナオキが触れるより先に、段ボールはふっと軽くなった。
影が薄れ、輪郭が淡くほどけていく。
音はしない。
光もない。
煙のような痕跡さえ残らない。
ただそこにあったはずの重みだけが、静かに抜け落ちた。
次の瞬間――段ボールは消えていた。
「……リヴ?」
ナオキが声をかけると、リヴは胸元に手を当てたまま立っていた。
消えた場所を見つめながら、触れてもいない何かを受け止めているような呼吸をしている。
「いま……わたしね。さっきナオキが言ってた空き場所に触れたの」
「空き場所?」
「うん。胸の奥にある、空席みたいなところ。外じゃなくて……わたしの中。そこに段ボールが吸い込まれるみたいに入っていったんだよ」
言いながら、胸元に添えた指先がわずかに震えた。
押し込むのではなく、迎え入れる感覚――その意味を探すように。
「押したんじゃなくて……迎え入れた感じだったの」
ナオキはゆっくりうなずいた。
説明の言葉より、今のリヴの表情のほうが真実を示していた。
「リヴ、それ……成功だよ。しまえたんだ」
「……本当に?」
「うん。あれはリヴの力だよ。自然に消えるなんてこと、普通は起きないから」
リヴの瞳に、ほのかな光が宿った。
驚きよりも、静かな確信をゆっくり受け止めていく色。
「……じゃあ、これが時空魔法?」
ナオキは少し息を整えてから答えた。
「時空魔法って言っても、完全に間違いってわけじゃないと思うんだ。俺が知ってる範囲ではね。でも……少しだけ違う感じがする」
「違う……?」
「うん。普通の時空魔法って、外の空間そのものを動かしたり曲げたりする力なんだ。場所をつなげたり、距離を縮めたり……そういう仕組みの話だよ」
リヴは目を細めて聞いている。
ナオキは彼女が気持ちを乱していないか確かめるように、少し間を置いた。
「でもさっきのリヴのは、外じゃなくて……リヴ自身の内側の場所が動いた気がするんだ。だから、近いけど同じではないというか」
その言い方は断定ではなく、リヴの感覚に寄り添うものだった。
「アニメやラノベであるような、別次元にまとめてしまう収納とは違うと思うんだよ。リヴの心の奥に小さな裏側の部屋があって……その場所が外の空間と少し重なっている感じ、なのかな」
リヴの喉が、小さく上下する。
胸元に置いた手が、ほんのわずかに丸くなった。
「指でそっと触れると、影がひろがるように奥が開く。その奥に物が吸いこまれるんだと思う。こっちの言い方で言えば、固有スキルに近いのかもしれないね」
「裏側の……部屋。固有スキル……」
リヴの声は不安ではなく、形を確かめるような静かな響きだった。
「うん。物をしまう時は、場所が少しだけ横へずれるんだろうね。こっちの世界から、ほんの半歩ぶん外れる感じで。それで自然に裏側へ滑りこむ……そんな風に見えたよ」
ナオキの言葉はやさしく、リヴのペースに合わせるように続いていく。
「それから……その部屋には、奥行きがあるんじゃないかなと思うんだ」
「奥行き……?」
「うん。池みたいに、水面が静かだと下までよく見えるだろ? あれに少し似てる気がする。心が静かだと、部屋の奥が広がる……そんな仕組みなのかなって」
断言はしない。
あくまでリヴの感覚を尊重する声。
「もちろん、俺には見えない世界だから、はっきりは言えないよ。でも……リヴの話を聞いていると、そういうふうに感じるんだ」
リヴは胸の奥へ静かに意識を沈めた。
まるで水面をのぞきこむように、ゆっくりと。
「……うん、わかる気がする。静かで、あたたかくて……今日気づいたばかりなのに、前からあった場所みたい」
「そう。それがリヴの場所なんだよ」
ナオキの声は、その場所を認めるように柔らかかった。
「……返せるかな?」
「返せるよ。今みたいに、胸の奥の部屋へそっと触れてみて」
「……うん」
リヴはゆっくり目を閉じ、胸元に手を添えた。
深い水へそっと指を入れるように呼吸を整え、意識を沈める。
空気が、わずかに揺れた。
次の瞬間――
段ボールが空気の端からふんわりと戻ってきた。
誰かが大事に置いたように、音もなくそこに現れた。
「……出た……」
驚きと喜びが胸いっぱいに広がり、リヴの頬がわずかに彩を帯びる。
「やっぱりできるんだ。すごいよ、リヴ」
「すごい……のかな。怖くなると思ったのに……怖くない。不思議なくらい」
リヴは目を伏せ、胸元へ添えた手にかすかに力を込めた。
自分の中で静かに動き出したものを、そっと抱くように。
ナオキは柔らかく微笑んだ。
「今日の積み重ねが、その部屋を思い出させたんだと思うよ」
「積み重ね……?」
「絵本を読んだときの声も、今日歩いた道の空気も、初めての匂いに安心した瞬間も……
全部つながってたんだ。そういう小さな出来事が、リヴの中の余白に触れてたんだよ」
リヴはゆっくり瞼を上げた。
「……ナオキの声でね。あの場所が揺れたの。あたたかくて……やわらかくて……全部が重なったら、これだって分かった」
「怖くないなら、それでいいよ。リヴのペースで少しずつ使っていこう」
窓の外はすっかり夜へ変わり、柔軟剤の甘い香りが静かに漂う。
日常と新しい力の入口が、同じ部屋の空気の中で、ゆっくり息をしていた。
「ありがとう、ナオキ。
わたし、この力をちゃんと使えるようになりたい。
ナオキの荷物、軽くしてあげたいから」
その声は魔法よりもあたたかい光を帯びていた。
段ボールを戻したあと、部屋の空気はどこか違って見えていた。
匂いも光も同じはずなのに、二人の呼吸だけが静かに深くなる。
リヴは段ボールの角へ軽く触れた。
「……ちゃんとそのままだね」
「うん。位置が少し動いただけだから、中身は崩れてないよ」
リヴは胸へ手を当て、安堵したように息をこぼした。
「もし……あの部屋が危険だったらと思ったけど……胸の奥があたたかかったの」
「それはいい兆候だよ。無理やり押し込んだわけじゃなくて、自然に迎えてくれたってことだと思う」
その言葉に、リヴの表情がやわらいだ。
「ねえナオキ。わたし、この力……どうやって使いこなせばいいのかな」
急ぎではない。
今の自分を確かめようとする、静かな声だった。
「そうだね……物を持つ時に、重さより“しまいたい気持ち”を先に思うといいよ。
そこに置く場所があるって感じられたら、自然に入っていくと思う」
リヴは小さく息を飲んだ。
「……ナオキって、わたしの裏側まで見てるみたいだね」
「そんなことないよ。リヴの話を聞いてると、自然にそう思えてくるだけだよ」
照れたように笑うナオキにつられて、リヴも穏やかに微笑む。
「それでも……助けられてるよ」
その声は小さかったが、確かな温度を持っていた。
「試しに、もう一回やってみる?」
「うん。今の感覚、忘れないうちに」
リヴは段ボールを見下ろし、そっと呼吸を整えた。
胸の奥のあたたかさ、迎え入れたときの静かな広がり。
ひとつずつ拾い上げ、指先へ落としていく。
空気が、わずかに揺れた。
段ボールの影が薄くなり、静かに形を手放していく。
「……あ……」
完全に消えた。
リヴの肩が小さく震え、胸へ置く手がわずかに丸まる。
「……できた……」
返す動作は、最初よりずっと自然だった。
胸の奥へそっと触れた次の瞬間、段ボールはふんわりと戻ってくる。
「……本当にできるんだ」
「できるよ。リヴならできると思ってた」
ナオキの声は淡く、支えるようにあたたかかった。
リヴは段ボールよりも、ナオキをまっすぐ見つめた。
「ナオキに……教えてもらったからだよ」
「いや、リヴの力だよ。俺はきっかけを少し手伝っただけだよ」
リヴは小さく首を振り、視線をそらした。
だが頬には、静かな喜びがにじんでいた。
「きっかけって……すごく大事だよ。ナオキが言ってくれなかったら、今日わたし、気づけなかった」
その横顔に漂う色は、戸惑いでも不安でもなく、自分を受け止めた後の柔らかさだった。
「その場所はね、生活の力にもなるよ。荷物も減るし、危ない時にも助かるかもしれない」
「うん。大事にする、この力」
リヴは胸元に手を置き、ゆっくり目を閉じた。
胸の内側で、裏側の部屋が呼吸するような静けさが広がる。
部屋の空気は穏やかに満ちていた。
柔軟剤の香りと、窓の外の夜風の気配。
そのどれもが、今日だけ少し違う表情に見える。
「ねえナオキ」
リヴがふいに顔を上げた。
瞳には、不安よりも未来をのぞくような光が宿っている。
「わたし、この部屋……もっと深くできるかな?」
ナオキは少しだけ考え、静かに答えた。
「リヴが落ち着いていれば、自然に深くなるよ。急ぐ必要はないよ」
リヴはそっと息をこぼし、微笑んだ。
「……ありがとう。ナオキの言い方、ほんとすきだよ」
ナオキは照れたように笑った。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
二人の距離は、段ボールが消えた時より近かった。
けれどそれは、押しつけでも緊張でもなく、静かに寄り添う距離。
「ねえナオキ……この部屋って、どれくらい広がるんだろう。限りがあるのかな」
その問いは、力の不安ではなく、未来への好奇心に近かった。
ナオキは少し間を置いてから答える。
「たぶんね……誰にもわからないと思う。数字で決められるものじゃないし、魔法みたいに容量が決まってるわけでもないから」
そして、もう一度やわらかく声を重ねた。
「きっと、リヴの心が広がれば、自然に深くなっていくんだと思うよ」
「心が……?」
「うん。心ってさ、誰にも測れないだろ?
深くなったり、広くなったり、柔らかくなったりする。
だから、その部屋も同じように育つんだと思う」
リヴは胸元へそっと触れ、静かに息を吸った。
「……無理に広げるんじゃなくて、育てるんだね」
「そう。育つものだよ。危険もないし、焦らなくていい。リヴがリヴらしくいれば、それでいいよ」
その言葉は力の説明を超え、リヴという存在に寄り添うものだった。
リヴの表情に、静かな光が宿る。
「……うん。安心した」
「ならよかったよ」
胸の奥に広がる裏側の部屋は、先ほどより深く、静かに息づいていた。
限界はない。
無限と決めつけるわけでもない。
ただ、心が育つほど――
その部屋もまた、ゆっくりと広がっていく。
その気づきが、リヴの胸の奥に温かい灯りをそっと落としていた。




