ポケットの仕組み
夕方の光は静かに部屋へ差し込み、床に長い影を落としていた。窓の外では赤みを帯びた空がゆっくり沈みはじめ、境目が柔らかく溶けていく。昼の熱気がようやく引き、ひんやりした空気が部屋の隅に重なっていた。
ナオキとリヴは買ってきた生活用品の袋を開き、少しずつ取り出しながら、それぞれの手元の動きに神経を傾けていた。石鹸の匂いがふわりと広がり、湯上がりを思わせる柔らかさが部屋を満たしていく。
棚の上には段ボールが積み重なり、片付けを待つだけの存在として、長いあいだそこに残っていた。ナオキはその山に目を向け、どこか申し訳なさの混じった笑みを浮かべた。
「……いつか片付けようとは思ってたんだけどな。気付くと増えてるんだよ、こういうの」
指で段ボールの側面を軽く叩くと、こもった音が返ってきた。リヴは首を傾げたまま、その山をじっと見つめていた。横顔は慎重なのに、どこか好奇心が隠しきれない。
「地球の人でも、物の置き場所って困るんだね」
「困るよ。俺みたいに片付けるのが得意じゃないと、すぐこうなるんだよ」
ナオキが苦笑すると、リヴもつられて小さく笑った。しかしそのあとも段ボールを観察するように視線をさまよわせ、考え込む時特有の、まつ毛の影がゆっくり揺れた。
「……便利な物って、作れたらいいのに。見えない場所に物をしまえるような、小さな入れ物とか」
ふいに漏れた声には、ひらめきの気配があった。
ナオキは思わず動きを止めた。何気ない問いなのに、どこか核心に触れているようで、自然とリヴの顔を見つめてしまう。夕陽を映した瞳がゆるやかに揺れ、遠いものを見ているようだった。
「ああ……あるよ。子どもの頃に見てたアニメでね、そういうのが出てきたんだ」
「アニメ?」
リヴの目が少しだけ丸くなる。
「青いロボットが出てくるんだよ。そいつが持ってる小さなポケットがあってさ。異次元ポケットって呼ばれてた。見た目は普通なのに、どんな物でも入るって設定でね。子どもからしたら夢みたいだったよ」
リヴは帽子のつばを軽く摘み、ナオキの横に腰を下ろした。段ボールの影がふたりの足元に落ち、外の風が静かに揺れている。
「どんな物でも……重くても、大きくても入るの?」
「そう。外からは小さく見えるのに、中は広がってるっていう話だったな。実際には無理だけどさ、子ども心にはすごく惹かれたよ」
ナオキはふと思い出したようにスマホを取り出し、写真フォルダを開いた。朝のニュース番組で見た宇宙特集の画像が残っていた。画面には曲がった空間を示す図があり、網目のような線が交差している。
「これ、時空の話の図なんだけど……布みたいに見えない?」
リヴは体を前に倒し、画面に顔を近づけた。息が少し画面に触れ、真剣な目が映る。
「……本当に布みたい。空間って、こんなふうに曲がるんだね?」
「らしいよ。見えないけど、こうやってたわんだり伸びたりするって考えると、意外と想像できるだろ。もし誰かがこの端をそっとつまんで別の方向に引っ張れたら、小さなくぼみみたいなのを作れるんじゃないかって話もあるんだ」
リヴは吸い込まれるように図をなぞった。線の曲がり方を指で追いながら、その奥にある感覚を探るような手つきだった。
「そのくぼみに……物を入れられるの?」
「そういう話もあるね。まあ実際には誰にもできないけど。もし本当に空間をつまめる人がいたら、それはもう魔法だよ」
リヴはゆっくり目を上げた。瞳の奥には、確信というより、小さな理解の光が灯っていた。
「異次元って……行ける場所じゃないんだよね?」
「行けないよ。俺たちの体は三次元だから、形を保てなくなるって言われてる。物ならともかく、体は複雑だしね」
リヴは小さくうなずき、静かに言った。
「じゃあ……物だけなら、もしかしたらってことなんだね」
ナオキは穏やかにうなずいた。
「物だけならね。形が単純なものならより安全だって話もある。ファンタジーだとよくあるだろ。小さな入れ物に大量の荷物をしまえるやつ」
リヴは微笑んだ。
「私の世界にもおとぎ話で出てくるよ」
ナオキは彼女の横顔を見つめた。自分の世界の創作と、リヴの世界のおとぎ話が自然に重なる瞬間は、どこか心がほどけるようだった。
「前に紙で説明したとき、リヴは“掴めそう”って言ってたよな」
リヴは胸の少し上に手を当てた。指先がわずかに震え、その奥に柔らかな気配が宿っている。勉強した知識では説明しきれない、もっと曖昧で、でも確かに存在する何かを探すような仕草だった。
「完全にはわからなかったよ。空間が動くことは理解できても、違う場所同士を重ねるようなことは、想像が届かなかった。でも……さっきの図を見て、少しだけわかった気がした」
ナオキは否定せず、ただ静かに耳を傾けた。
リヴは胸に触れたまま、深く息を吸った。
「無理にやるつもりはないよ。けど……あの図と、私の中にある空き場所が、少しだけ似てる気がしたの。感覚が重なるというか……そんな感じ」
ナオキは穏やかに微笑んだ。
「リヴがそう感じたなら、それで十分だよ。焦る必要はないし、感覚はゆっくり育てればいい」
優しい声だった。リヴはその言葉に息をゆるめ、笑みを浮かべた。
夕陽はゆっくりと傾き、部屋の空気を金色に染めていく。影が伸び、光のゆらぎがふたりの距離を柔らかく包んでいた。決意とも呼べない小さな火が、リヴの胸の奥でそっと灯った。
しばらく静かな時間が流れた。窓の端には夜の青がにじみ、世界がゆっくり切り替わっていく。
リヴは段ボールに触れたまま、少しだけ笑った。
「ねえ、ナオキ。異次元ポケットって、どうしてあんなに子どもに人気だったの?」
ナオキは少し考え、苦笑した。
「必要なときに助けてくれるからかな。困ったときに道具を出してくれて、ワクワクするような物ばかりだったし。子どもにはそれだけで夢だから」
リヴの表情が柔らかくなった。
「私から見たら……地球の道具そのものが夢みたいだよ。昼より明るい光も、美味しいご飯も、お菓子も。いつでも出せたら、確かに憧れるね」
ナオキは照れたように笑った。
「それはそっちの世界の魔道具だよ。未知の道具って、どうしても惹かれるんだよな」
リヴは笑顔でうなずき、ふたりの間にふわっと明るい空気が広がった。しばらくのあいだ、子どもの頃の遊びや見た夢の話で盛り上がり、静かな夜の中に穏やかな笑いが溶けていく。
やがてリヴは膝を抱え、ナオキの方へ体を向けた。
「ねえ、ナオキの異次元ポケットって……未来の道具なんだよね」
「そうだな。未来の技術って設定だった。だから実現できないけど、想像するだけで楽しかったよ」
リヴは天井を見上げ、外からのわずかな光を目に宿しながらつぶやいた。
「未来の道具なんて……地球なのに異世界みたいだね」
「まあ、実際にはまだまだ遠い話だからな。けど、こんなふうに想像して楽しむのは子どもの頃の特権だよ」
リヴはくすっと笑った。
「子どものときの私も、森でお話を作って遊んでたよ。葉っぱを重ねて本にして、お話を書いてるつもりだったの。入ってるのは葉っぱと小枝だけだったけど……なんでも入れられる気がしたんだ」
ナオキは温かくうなずいた。
「いい思い出だな」
リヴは膝に置いた手を握りしめた。
「だからかな。あの空き場所の感覚……懐かしいのかもしれない。遊んでた頃の感覚と似てる気がするんだ」
ナオキは息をのみ、その言葉を胸の中でゆっくり受け止めた。
「リヴはちゃんと覚えてたんだな。忘れずにいられるのは、すごいよ」
「忘れてたんだけど……ナオキと話すと、少しずつ思い出すの」
言ったあと、リヴは恥ずかしそうに目をそらした。だがその頬は、夜の優しい影の中でどこか灯りを持って見えた。
ナオキは穏やかな笑みを返した。
「俺もだよ。リヴと話してると、子どもの頃の気持ちをよく思い出す」
短い言葉だったが、リヴの胸の奥に静かに染みていく。
しばらくして、リヴは立ち上がった。部屋の空気を確かめるように歩き、ゆっくりと手を伸ばした。薄暗い中で動く指先は、風をなでるように静かだった。
「ねえ……境目って、こんな動きなんだよね?」
空気をすくうように動かす手は、ごく自然で、練習しているようなぎこちなさはない。ただ、自分の中の感覚を試してみているだけだった。
ナオキは軽くうなずいた。
「リヴがそう感じるなら、それで間違ってないよ。自分の感覚を大切にしていい」
リヴは手を下ろし、ゆっくりとナオキの前に歩いてきた。歩幅は丁寧で、夜の静けさの中にその足取りが溶けていった。すぐそばで立ち止まり、少し上目遣いに彼を見上げた。
「ねえ、もしアイテムボックスができたら……最初に何をしまう?」
その質問には冗談の響きもあり、どこか本気の色もあった。
ナオキは軽く考え、苦笑しながら答えた。
「地球のお土産の袋かな。持っていくときかさばるし、しまえるなら便利だし」
リヴは思わず笑った。
「そういうところ、ナオキらしいよ。もっとすごい物を入れようとか思わないの?」
「身近な物のほうが安心するんだよ。最初は特にね」
リヴはその答えに小さくうなずき、柔らかく微笑んだ。
「安心……そうだね。何を入れるかより、入れたときにどう感じるかのほうが大事なんだね」
ナオキは照れくさそうに肩をすくめた。
「まあ、俺はものに限らず、そういう考え方が好きでね」
リヴの頬がほんのり赤く染まり、その微笑みは夜の空気に溶けていった。
リヴは静かに息を吸い、胸の奥で灯る小さな火を確かめた。
「今日の話ね……とても大事に思えるよ。空間の図も、未来のポケットも、子どもの頃の記憶も。全部つながった気がしたんだ」
ナオキは優しくうなずいた。
「それならよかったよ」
外の世界はすっかり夜に変わり、窓から入る淡い光が部屋の輪郭を静かに照らしていた。段ボールの影も柔らかくなり、今日一日の終わりがゆっくりと降りてくる。
リヴは胸にそっと手を当てた。
(あの空き場所……きっと、もう少しで触れそう)
それは言葉にしないまま、静かに夜に溶けていく。
ナオキはその横顔を穏やかなまなざしで見つめ、やさしく声をかけた。
「今日はゆっくり休もうか。明日にはまた違う発見があるかもしれないしね」
リヴは目を開き、ナオキの方へ顔を向けた。
「うん。焦らないよ。だって……ナオキと話してるだけで進んでる気がするから」
その笑顔は夜の静けさに溶け、部屋に柔らかな光を落とした。
ふたりは電灯をつけず、薄明かりの中でゆっくり片付けを終えた。石鹸の匂いはまだほのかに残り、段ボールの影は少しだけ小さくなっていた。部屋全体が静かに落ち着きを取り戻し、夜がそっと降りてくる。




