絵本の声
書店の入り口から一歩踏み込むと、空気ががらりと変わった。紙の匂いが静かに満ちている。森の陽だまりに似ているけれど、それよりも淡く、胸の奥に落ち着きを置いていくような香りだった。棚に並ぶ無数の本が、背表紙の奥で息をひそめるように静まり返り、その静けさが耳の奥まで染みてくる。
リヴは足を止め、ゆっくり視線を巡らせた。さっき服屋で見せていた緊張は影を潜め、ここでは別の表情を浮かべている。おそるおそる、それなのに吸い寄せられるような眼差しだった。
「……なんだか、落ち着くね。森の静かな時間みたい」
「本の匂いって、安心するよな。俺も好きだよ」
リヴは軽く頷き、絵本の棚に目を留めた。大きな絵、少ない文字。優しい色の世界が広がっている。本を開く前から惹かれているのが分かった。
「これ……きれい。絵だけで分かる気がする」
「気に入ったなら見てみなよ」
リヴは絵本を両手で受け取り、慎重に開いた。ページをめくるたびに淡いインクの香りがふわりと立つ。描かれた動物の輪郭をなぞるように指先が寄り、そのたびにリヴの瞳が揺れた。
けれどあるページで指が止まった。絵の下に短い文章が添えられている。
「……やっぱり読めないんだ。絵は分かるのに、文字の意味が追いきれなくて」
「大丈夫だよ。読むもうか?」
「読んでくれるの……?」
「いいよ。よかったら聞く?」
リヴは驚いたように瞬き、少し息を整えてから小さく頷いた。
「……聞きたい」
二人は近くのベンチに腰を下ろした。リヴは椅子に触れるか触れないかの距離に座り、膝の上の指先がそわそわと動いている。緊張はしているが、瞳の奥には期待の色がはっきりあった。
ナオキは絵本をそっと開き、静かな声で読み始めた。
「むかし、ある森に……小さな動物が住んでいました」
その声を聞いた瞬間、リヴの肩がふるりと揺れた。驚きというより、耳にそっと落ちてきた音に反応したような震えだった。
物語が進むにつれ、リヴの呼吸はすこしずつ深く静かになっていった。絵本の絵よりも、リヴの視線はナオキの声の方向へ傾いている。その声がしずくのように胸の奥に落ちていって、やわらかい温度を広げているのが見て取れた。
ページをめくる音だけが小さく響き、また静けさが訪れる。
「動物たちは……仲間のために灯りを分け合いました」
そう読んだ瞬間、リヴのまつ毛がふるりと震えた。
「……続けて」
囁くような声にナオキは思わず微笑む。
「うん。もう少しゆっくり読むね」
「うん……そのほうが好き」
声の速度に合わせて、リヴの肩がゆっくりと寄ってくる。触れてはいない。けれど頼ることをためらっていない寄り方だった。
物語が終わりに近づいた頃、リヴがぽつりとつぶやいた。
「……ナオキの声、好きだな」
ナオキの手が止まり、ページの端で固まった。
鼓動が一拍だけずれたように感じた。
「え、えっと……どうしたの?」
「なんか……耳に落ちてくる感じなの。安心するっていうか、胸の奥があったかくなるの」
ナオキは視線を逸らし、頬を軽く掻いた。
「そんな大した声じゃないよ」
「大した声だよ。わたしには……すごく」
リヴの声は素直で、照れが混ざっていて、それでいて真っ直ぐだった。
その直後、彼女は胸に手を当て、小さく呟いた。
「ナオキの声……恋みたいに胸に入ってくる」
書店の静けさの中で、その言葉は音より重く響いた。
ナオキは返事が遅れてしまうほど動揺し、息を整えてから微笑んだ。
「……そう感じてくれるなら、嬉しいよ」
リヴは本を胸に抱き、安心したように目を細めた。
「声って、不思議だね。誰かの声だけで……こんな気持ちになるんだね」
「そうだな。誰の声かで、意味は全然違うから」
リヴは視線を落とし、小さく言った。
「ナオキの声……ずっと聞いていられる気がする」
静かに落ちてきたその言葉だけで、ナオキの胸はひどく熱くなった。
返事をする前に、その余韻が空気に広がっていく。
「そっか……なら、また読んでやるよ」
「うん。次は……別の絵本も聞きたい」
迷いのない声だった。彼の声がもう“安心の居場所”になっていた。
書店を出ると、夕方の風が通路を抜けていった。昼間より冷たく、けれど心地よい。紙袋を抱えたまま歩くリヴは、先ほどまでの表情とはまた違う色を頬に宿していた。
頬が赤いのは、風のせいだけではない。
「……帰り道、なんか変なの」
リヴが小さくつぶやいた。
「どうした?」
「耳が……勝手に思い出してくるの。さっきの声を」
「声を?」
「うん……思い出すと、耳の奥が熱くなるの。変だよね」
「変じゃないよ。気になるなら、また読んであげるよ」
リヴは歩きながら、帽子のつばをそっと押さえた。嬉しいのを隠しきれないように、でも隠そうとしているように。
「それが一番……困るのに」
困ると言いながら、その声に揺れているのは喜びの色だった。
モールを出て街の通りに出ると、夕日の名残が歩道のタイルに淡く反射していた。道を行く人の影が長く伸び、その隙間をリヴが小さく息をしながら歩いていく。
「ねえ、ナオキ」
「うん?」
「本の言葉より……声のほうが心に入ってきたの」
「そうか?」
「うん。意味は追えなくても……声だけで分かる気がした」
その言葉にナオキの胸がほんの少し揺れた。
「声って……すごいね。同じ言葉でも、ナオキが言うと違って聞こえるの」
「それは……嬉しいけど、ちょっと照れるな」
「わたしは……ぜんぜん照れないよ」
そう言いながら、リヴは帽子の影で頬を染めていた。
ナオキは笑いをこらえ、歩幅をリヴに合わせる。
横を歩くリヴは、時々紙袋を胸に抱え直しながら、何度も耳を触った。帽子に隠れているはずなのに、そこを触るたびに顔を赤くする。
「耳がどうかした?」
「ううん……くすぐったいだけ」
「さっきの声のせい?」
リヴは小さく頷いた。
「……全部、耳に残ってるの」
「残ってるって言い方……なんかいいな」
「いいの……?」
「うん。そう言われると、読んでよかったって思うよ」
リヴは少し俯いて、指先をぎゅっと袋に添わせた。
「……わたしも、聞けてよかった」
その呟きは風よりも小さかったが、ナオキにははっきり届いた。
家に着くまでの道のりは、昼間よりも短く感じた。話す言葉は少なかったのに、空気の温度だけがゆっくり変わっていた。
玄関に入ると、リヴは紙袋を抱いたまま小さく深呼吸した。
「なんか……胸が忙しい日だね、今日は」
「そうだな。いろいろあったしな」
「うん。でも……どれも嫌じゃなかった」
その言い方に、ナオキの胸にふっと温かいものが広がった。
夕食をすませたあと、夜の空気が部屋に満ち始める。
窓から入る風は少し冷たく、部屋の明かりがその冷たさをやわらげていた。
歯を磨き終えたリヴが、そっと近づいてくる。
「ねえ……寝る前に、もう一回だけ聞きたい」
その声は、頼っているのに、どこか猫のように甘えていて、けれど自分でも恥ずかしさを抱えている響きだった。
「いいよ。短い話でいい?」
「うん……声が聞ければ、それでいい」
寝室のライトを落とすと、リヴは布団に入り、横向きに丸くなった。
暗がりでも、彼女が緊張と期待のあいだを行き来しているのが分かる。
ナオキは小さな絵本を開き、静かに読み始めた。
言葉が空気に落ちるたび、リヴの呼吸がゆっくり整っていく。
ページをめくる音と彼女の息が重なり、部屋の中にやわらかなリズムが生まれた。
読み終わる頃、リヴのまつ毛がわずかに震えていた。
「……おやすみ。今日の声、全部好きだった」
「おやすみ、リヴ」
その言葉が落ちた瞬間、リヴは安心したように目を閉じた。
呼吸が落ち着き、胸の動きがやわらかく波打っている。
ナオキはその寝顔を見つめながら、静かに息を吐いた。
(……やばいな。読んでたのに、俺のほうが落ちてた)
声を届けていたつもりが、気づけば声に落ちていたのは自分のほう。
ページを閉じた音が夜に溶けていき、
その“気づき”だけが、静かな部屋にやわらかく残り続けた。




