優しい色に触れた日
ショッピングモールの自動ドアが静かに開いた。冷たい空気が吹き込んできて、リヴの髪の先がかすかに揺れた。外とは違う甘い香りが鼻の奥をかすめ、白い床が朝の光を柔らかく反射している。人の少ない通路に、遠くから聞こえるざわめきが薄い膜のように漂っていた。
帽子のつばを押さえながらリヴは立ち止まり、周囲を見回した。吸い込む息が少し震えているのが、隣に立つナオキにはすぐに分かった。
「本当に、ここで選んで大丈夫なの……?」
声は控えめだった。けれど逃げだしたいほどではない。そんな微妙な揺れがそのまま伝わってくる。
「大丈夫だよ。ゆっくり見てみよう。急がなくていいから」
押しつけにならないように、けれど不安を受け止められるように。
そんな声を選んで返すと、リヴはそっとナオキの袖をつまんだ。ほんの一瞬だけ。すぐに指を離した。
(頼りたい。でも頼りすぎたくない)
胸の奥にそんな気配が揺れ、ナオキは咳払いで誤魔化す。自分まで妙に意識してしまうのが照れくさかった。
二人はゆっくりと服屋へ向かった。柔らかな照明が店内を穏やかに照らし、色とりどりの布が朝の光を吸い込むように静かに並んでいる。新品の布のにおいと淡い香水の香りが混ざり合い、空気までも明るくしていた。
「すごい……色も形も、全部違う。ひとつずつ別の気持ちみたい」
リヴの言葉は驚きと喜びが混ざっていた。不安がまったく消えたわけではないが、興味のほうが確実に前へ出ている。それが分かっただけで、ナオキは胸の奥がほっと緩んだ。
異世界で贈った白いワンピースは、彼女の背景も相まってどこか儀式のような雰囲気があった。でも今、目の前にある服たちはもっと日常に寄り添う息づかいをしている。人が暮らしていく中で手に取る服。小さな選択で、生活の色が変わっていくような種類の服。
ナオキは、リヴの視線が止まった一点を追った。
淡いベージュのニットが、棚の隅で穏やかに置かれていた。リヴがそっと指先で触れると、生地はふわりと沈むように柔らかかった。
「……あったかい。触っただけで落ち着くなんて、不思議だね」
「好きな感じなんだな」
リヴはためらいながらも頷いた。
「うん。なんか……優しい色で。こんなの、着てみたいかも」
その色に合いそうなものを考え、ナオキは少し離れたラックにあるグレーのスカートを取った。飾り気はないが、生地に上品なまとまりがある。広がり方も控えめで、リヴの雰囲気とぶつからなかった。
「これと合わせると落ち着いた感じになると思う。もしよかったら、試してみる?」
リヴの瞳が揺れた。
自分に似合うかどうか分からず、必死に想像しようとしているのが伝わってくる。
「……似合わなかったら、どうしよう」
「大丈夫だよ。似合うと思う。リヴが着てるとこ、なんとなく想像できるから」
帽子のつばを触れながらリヴは小さく笑った。
「ナオキって……そうやって、信じたくなる言い方をするよね」
「信じなくても大丈夫だよ。ゆっくり選んでみればいいし」
その言葉に、リヴの肩がわずかに下りた。自分の歩幅で進んでいいと分かるだけで、こんなにも表情が変わるのだと思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
リヴは服を丁寧に胸元で抱きしめ、試着室へ向かった。控えめな足取りなのに、逃げる気配はもうなかった。
「着替えてみるね。……変じゃなかったら、言ってほしい」
「うん。ゆっくりでいいよ」
カーテンが閉まり、衣擦れの音がかすかに続く。
ナオキは試着室の前で軽く息を吸った。まったく自覚はなかったが、心臓がほんの少し速い。
(落ち着けよ……俺まで緊張してどうする)
そう思いながらも、胸の高鳴りは消えなかった。
しばらくして、控えめな声がカーテン越しに届いた。
「……ナオキ。ちょっと、見てくれる……?」
「うん。大丈夫だよ」
カーテンが少し開き、細い隙間からリヴが姿をのぞかせた。
その瞬間、視界が静かに明るくなった。
ベージュのニットが柔らかに彼女の肌を照らし、グレーのスカートが静かな陰影を添えている。街中に溶け込んだ青年のようでもあり、この世界にまだ馴染まない儚さもどこかに漂っていた。
異世界で着た白とは違う。今の彼女は、この場所で息をしている姿そのものが新鮮で、自然で、そして綺麗だった。
「……どう、かな。変じゃない?」
声は小さく震えていた。
差し出した自分を守ろうとしながら、でもきちんと見てほしいと願うような声音だった。
ナオキは息を少しだけ飲み、胸の底から出てきた言葉をそのまま口にした。
「すごく似合ってるよ。落ち着いた感じで……うん、自然に目が向く」
言ったあとで胸が照れくさく熱を帯びたが、それでも本音だった。
リヴは帽子の影で瞬きをし、薄く微笑んだ。
「よかった……地球の人みたいに、見えるんだね」
「見えるよ。どこに出てもおかしくないくらい」
「本当に……?」
「本当だよ。俺、びっくりしたくらい綺麗だと思った」
リヴはスカートの裾を指でつまみ、ふわりと息をこぼした。安心と喜びが混じった、柔らかな息だった。
着替えを終えたリヴは服を丁寧に畳み、胸に抱えてレジに向かった。歩くたびに足取りが少しずつ確かになっていくのが分かる。
「この服、買うね。大事にする。地球で……ちゃんと生きるために」
「うん。そうやって選んでくれるなら、俺も嬉しいよ」
「ナオキといると……怖さが薄くなるの。今日もすごく楽しかった」
「楽しめたならよかったよ。俺もそれが一番嬉しい」
リヴは少し俯いて、袋を胸に抱きしめた。
「また、一緒に選んでくれる……?」
「もちろん。いつでも言ってくれたらいいよ」
その答えに、リヴはそっと笑みを浮かべた。朝の光が店内に差し込み、袋の白が明るく輝いた。
「今日のこと、きっと忘れない。初めて“自分で選んだ服”っていうのが……こんなに心があったかくなるなんて知らなかった」
ナオキは歩調を合わせ、小さく頷いた。
「そうだね。たぶん、それが服のいいところなんだと思うよ」
リヴは袋を抱えたまま、控えめに笑った。
「優しい色の日だね。今日」
その言葉を聞いた瞬間、ナオキは自然と微笑んだ。リヴがこの世界の色を自分の言葉で受け取り始めている。それが胸の奥に静かで確かな warmth を灯した。
店を出たころには、モールの通路に少しずつ人が増え始めていた。
けれどリヴは、さっきまでのように周囲を気にして立ち止まることはなかった。
袋を胸に抱え、帽子のつばを時々気にしながら、それでも歩調はゆっくりでも前に向いていた。
出口へ向かうエスカレーターに乗ると、下の階から食品売り場のにおいが漂ってきた。
出汁の香り、焼きたてのパンの香りがふわりと混ざり合い、リヴの肩からふっと力が抜けた。
「……なんか、ほっとするね」
「だよな。こういう匂いって落ち着くよな」
「地球のにおいって、こんなに……安心するんだね」
言い終わったあと、リヴは帽子を押さえて照れくさそうに笑った。
異世界から来た彼女にとって、地球の匂いが安心に変わる瞬間は、本人が思うより大きな変化だった。
自動ドアが開くと、外の風が一気に流れ込んできた。
少し冷たい空気にスカートが揺れ、リヴは小さく息を吸った。
買ったばかりの服の入った袋がかすかに揺れて、その白さが朝の光を受けてやわらかく輝く。
「ナオキ」
「うん?」
「今日の私……変じゃなかった?」
「まったく変じゃなかったよ。むしろ、すごく自然だった」
「自然……?」
「うん。街を歩いてるのが、なんか普通に見えたよ」
リヴは歩きながら俯き、袋をぎゅっと抱きしめた。
長い耳が帽子の中でそっと動いたのが、横からでも分かった。
「……よかった。すごく……こわかったけど、でも嬉しかった」
「怖いのは当たり前だよ。でもさ、ちゃんと前に出てたよ。すごかった」
リヴは立ち止まり、ナオキを見上げた。
街の音が少し遠ざかって聞こえるほど、真っすぐな視線だった。
「今日ね……何回も思ったの。逃げたくないって」
「うん」
「昨日より、今日の私になりたかったから」
その言葉に、風よりも柔らかなものが胸の奥に触れた気がして、ナオキは息を整えるように視線を少し落とした。
「リヴはちゃんと変わってるよ。俺が言うんだから間違いない」
リヴは照れたように足先で地面を軽く蹴り、また歩き出した。
二人の影が並んで伸び、午前の光の中で静かに揺れていた。
家までの道のりは、行きよりもずっと短く感じた。
リヴの歩幅がほんの少し広くなったせいかもしれない。
一歩一歩が、昨日とは違う重さで地面を踏んでいた。
玄関に入り、靴を脱ぎ終えると、リヴは袋を胸に抱えたままゆっくりと振り返った。
「ナオキ……着てみてもいい?」
「もちろん。着てみたい気持ちがあるならぜひ」
「うん……着てみたい。家の中なら、もっとちゃんと分かる気がする」
リヴは袋を大事に持ったまま、そっと部屋へ入っていった。
扉が閉まると同時に、衣擦れの音が小さく続いた。
(緊張してるんだろうな……でも、嬉しそうだったな)
ナオキはリビングで静かに待った。
ゆっくりと時間が流れ、空気に柔らかな緊張がじんわりと溶けていく。
部屋の奥から布の音が止まり、呼吸が整う気配がした。
「……ナオキ。入ってもいいよ」
「うん、行くよ」
扉を開けると、リヴが立っていた。
ベージュのニットが部屋の光を柔らかく反射して、その下でグレーのスカートが静かに揺れている。
街で見た時より、家の中の明かりのほうが彼女の表情をはっきり照らしていた。
少し不安そうな顔をしながら、それでも瞳の奥には期待の色があった。
「……どう、かな。さっきのより……変じゃない?」
ナオキは自然と息を吸い、胸の奥からゆっくりと言葉を出した。
「うん。すごく似合ってるよ。外より落ち着いて見えるし……なんていうか、ちょっと大人っぽく見える」
「大人……?」
「うん。かわいいんだけど、それだけじゃなくて……よく似合ってるって思う」
リヴは驚いたように瞬きをし、それから胸元で手をぎゅっと握った。
「……そんなふうに見えるの、初めて」
「似合ってるからだよ。リヴが選んだんだし」
照れを隠すように視線を落としたリヴは、指先でニットの裾をそっとなぞった。
「不思議だね。服だけで……気持ちってこんなに変わるんだ」
「うん。変わるよ。鏡を見る度に、少しだけ気持ちが前に出るというか」
「前に……」
リヴは鏡に視線を向け、自分の姿をしばらく見つめていた。
帽子は脱いでいて、長い髪は肩のあたりで光を受けて揺れている。
「今日の私……昨日より、もっと……生きてるって感じがする」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、そっと胸の奥からこぼれたようだった。
「うん。そう見えるよ。ちゃんと今日のリヴになってる」
リヴはゆっくりと振り返り、少しだけ照れながら笑った。
「ねえ、ナオキ」
「うん?」
「私ね……もっと、似合う服を選べるようになりたい」
「そうなんだな」
「うん。少しずつでいいから……地球で生きる私を、もっとちゃんと作っていきたい」
その声は静かだったが、芯を持っていた。
昨日の彼女にはなかった強さだった。
ナオキはその変化を素直に嬉しいと感じ、柔らかく頷いた。
「なら、また一緒に選ぼう。今日みたいにさ。ゆっくりでいいし、リヴのペースで」
「うん……ありがとう」
リヴは帽子を手に取り、そっと胸に抱きしめた。
今日一日が、帽子の影にそっと染み込んだように見えた。
「今日のこと、ずっと覚えてる。すごく優しい一日だった」
「俺もだよ」
その言葉に、リヴは小さく息をこぼした。
胸の奥に灯った小さな火が、きっと明日も消えずに続くのだろう。
そして、リヴはそっと目を伏せた。
「ナオキ。今日の私……少し、きれいに見えた?」
それは、朝にも聞いた問いの続きだった。
でも今の声は、朝より静かで、朝より深かった。
ナオキは一拍だけ息を整え、やわらかく答えた。
「うん。今日のリヴは……すごくきれいだよ」
リヴの瞳が揺れ、胸元でそっと指が動いた。
「……じゃあ……もっと、がんばるね」
「うん。リヴがそうしたいなら、俺はそばにいるよ」
リヴは顔を上げ、静かに微笑んだ。
優しい色の服が彼女を包み、その姿はもう昨日の彼女ではなかった。
朝とは違う光が、部屋の中で静かにリヴを照らしていた。
午後になると外の光は少し傾いて、部屋の中に柔らかな影が落ちていた。
カーテン越しの光がニットの袖を照らし、リヴの動きひとつひとつに淡い揺れを作る。
新しい服のまま部屋を歩くリヴは、まだ慣れていないようで、何度も裾をそっと撫でていた。
その様子がどこかいじらしくて、ナオキは気づかれないように息をゆっくり吐いた。胸の奥が静かに温かくなる。
「ナオキ」
「うん?」
「この服……やっぱり、好き。手で触ると落ち着くし、鏡見るのもこわくない」
「それはよかったよ。リヴがそう感じてくれるなら、一番いい」
リヴは照れながら笑い、少しだけスカートを揺らした。
「今日の私……朝より強くなれた気がする」
「うん。そう見えてたよ。ちゃんと前に進んでた」
リヴはゆっくりと目を伏せ、胸に手を当てた。
「ありがとう。ナオキがそばにいたから……怖くても、逃げなくて済んだ」
「そばにいるよ。リヴが困ったら、言ってくれたらいい」
その言葉に、リヴは小さく息をこぼした。
それは安堵とも喜びともつかない、静かな深い呼吸だった。
夕方になり、部屋の中の光がすこし黄みを帯びる。
リヴは服を大切に畳もうとしたが、生地をどう扱えばいいのか分からず、そっと指先で形を整えていた。
「こういうの……畳むの難しいね」
「慣れてないと大変だよな。手伝おうか?」
「ううん……自分でやってみたい。せっかく選んだ服だから」
そう言って、リヴは慎重に袖を揃え、スカートの折り目を見つめながら丁寧に畳んだ。
仕上がった形は少しだけいびつだったが、そのいびつささえ愛おしかった。
「できた……かな」
「うん。すごく丁寧にできてるよ」
「ほんと?」
「うん。ちゃんと大事にしてるのが分かる」
リヴは小さく微笑み、畳んだ服を胸に抱きしめた。
その姿があまりにも自然で、ナオキは視線を逸らすように軽く息を吐いた。
夜が近づき、窓の外の色がゆっくり変わっていく。
台所で湯気の立つ料理の匂いが広がり、部屋には静かな温度が満ちた。
食事を終え、少し休んだあと、リヴはコップの水を飲んでから窓の前に立った。
夜の気配を帯びた外気が窓越しに伝わってくる。
「ねえ、ナオキ」
「うん?」
「今日みたいな日が、また来るかな」
「来るよ。リヴが進みたいって思う限り、何回だって来るよ」
「……うん」
リヴは窓の外に視線を向けたまま、長い髪を指でそっと払った。
「今日はね……自分が地球にいてもいいんだって、少しだけ思えたの」
「それは大事なことだよ」
「うん。怖いけど……でも、今日みたいな気持ち、もっと知りたい」
ナオキはテーブルに置かれた器を片付ける手を止め、リヴの背中をそっと見つめた。
「リヴなら大丈夫だよ。ゆっくりでも、ちゃんと変わっていけるから」
リヴは振り返り、わずかに上向いた瞳でナオキを見た。
「ナオキがそう言ってくれると……胸があったかくなる」
「それならよかったよ」
「うん」
言葉はそれだけだったが、部屋の空気がやわらかく揺れた気がした。
リヴは新しい服をまた胸に抱え、そっと指先で生地を撫でる。
「ねえ……今日の私、ほんの少しだけだけど……嬉しかった」
「うん。すごく頑張ってたもんな」
「頑張ったよね、私」
「うん。胸はっていいくらい頑張ってた」
リヴは笑い、腰を下ろして小さく息をついた。
「今日みたいに……自分のこと、好きになれる日が増えたらいいな」
「増えるよ。リヴならきっと」
「ほんとに……?」
「本当だよ」
その返事は嘘でも遠慮でもなく、ただ見たまま感じたままを言葉にしただけだった。
リヴは少し黙り、膝の上で指を絡めた。
夜の静けさが、二人の間に静かに降りてくる。
「ナオキ」
「うん?」
「今日の私……やっぱり、少しきれいになれてた?」
同じ問いを、彼女は朝から何度も繰り返している。
けれど、今の声は一番静かで、一番深かった。
ナオキはゆっくりと呼吸を整え、正面からその気持ちを受け取った。
「うん。今日のリヴは……ほんとにきれいだったよ」
リヴの瞳に、静かで小さな光が宿った。
「……嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして」
リヴは新品の服をそっと抱きしめ、胸の奥に灯った火を守るように目を閉じた。
「明日も……今日みたいに頑張れるかな」
「頑張れるよ。リヴがそうしたいなら、俺は隣にいるから」
その言葉を聞いた瞬間、リヴはゆっくり目を開けた。
その瞳は、今日の朝にはなかった色をしていた。
「うん。じゃあ……明日も頑張るね」
「うん」
夜の気配が部屋を包み、静かな温度がゆっくりと満ちていく。
リヴの胸の中に芽生えた小さな勇気が、明日へ向かう力になる。
誰にも気づかれないように、誰にも邪魔されないように、静かに確かに育っていく。
優しい色の一日が、夜の中に静かに沈んでいった。




