私の“がんばる”が動き出す日
朝の空気は少し冷たかった。窓をほんのわずかに開けた瞬間、ひやりとした風が頬をなでていき、淡い眠気の残る体に小さな合図を送った。部屋の静けさは夜の名残を抱えたまま、それでもどこか新しい一日を迎える準備をしているように思えた。
テーブルには、昨日買ったばかりの白いスニーカーの箱が置かれていた。きれいな光沢の残る外箱に触れた途端、胸の奥に温かく弾むような気持ちが戻ってくる。忘れたくない感情だった。私は箱をそっと抱きしめ、元の場所に大切に戻してから、鏡の前へと歩いた。
鏡に映った自分が、何か言いたげにこちらを見返していた。昨日のあの瞬間に生まれた気持ち——もっとがんばりたい、と願ったあの思いが、まだ胸の奥で静かに灯っている。小さな火なのに、消えずに残っていた。
「……ナオキ」
声は自然に漏れた。呼ばれた本人は、洗濯物を畳んでいた手を止めてこちらを振り向いた。
「うん?」
ただそれだけの返事なのに、胸の奥がくすぐったくなる。いつの間にか、こうした何気ない仕草が心を温めるようになっていた。
「今日ね……髪、すこしだけ……かわいくしたい」
言いながら、自分の声が少し震えているのが分かった。慣れない願いだった。けれど、それでも伝えたかった。
「お、いいね。どうしてみたい?」
「……うしろで、むすんでみたい。耳……かくして」
「そっか。じゃあ、椅子座ってみ」
促されるままダイニングの椅子に腰を下ろした。鏡越しに見える自分の表情はどこかこわばっていて、昨日よりも少し背筋が伸びているようにも見えた。
(こわい。でも、やりたい)
そんな気持ちが胸の奥で混ざり合っていた。
「髪、触るよ」
「……うん」
ナオキの指がそっと髪に入り込んだ。ゆっくりとすくうように動く指先が頭皮に触れ、その度にふるりと体の奥まで震えが走る。背中に細い息が通るようで、息が浅くなった。
森で暮らしていた頃、髪はただ束ねるだけのものだった。風で乱れようが、枝に引っかかろうが気にすることは少なかった。誰かに触れられることなど考えたこともない。ましてこんなふうに、大事に扱われるなんて想像もしていなかった。
「リヴの髪って細いんだな。すごくきれいだよ」
「昨日……ミサキにも、いわれた……」
「そうだろうな。ほんと、きれいだよ」
言葉が静かに胸に落ちていった。どう返せばいいのか分からず、でも確かに嬉しくて、胸がきゅっと締まる。こんな気持ちは初めてに近かった。
耳の位置を確かめるように髪を包むナオキの指が、そっと首筋をかすめた。呼吸が止まりそうになり、心臓が跳ねる。
「ここ、痛くない?」
「……だいじょうぶ」
本当は全然大丈夫なんかじゃない。痛みではなく、胸が熱くなって苦しくなるほどだった。
けれど、その苦しさを不快だと思わなかった。むしろ心の奥のどこかで、その感覚を大切に抱きしめていた。
やがて髪がまとまり、後ろでひとつの形になった。
「はい、見てみな」
鏡に映る自分を見た瞬間、思わず声が漏れた。いつもの自分なのに、どこか違う。耳はそっと隠れ、揺れる後れ毛が柔らかい雰囲気をつくっていた。
「……すごい……かわいい……」
「いや、もともとかわいいけどな」
「な、ナオキ……」
心臓がさらに強く鳴る。体のどこかが熱くなり、手が自然に膝の上で握られた。
「耳もちゃんと隠れてるぞ。これなら外に出ても安心だ」
「ほんとに……?」
「ああ。ほら、昨日買った帽子かぶってみて」
帽子をそっと頭にのせる。つばが影を作り、瞳が自然に落ち着いた色を帯びたように見えた。自分で言うのもおかしいが、さっきよりもさらに柔らかくなっている気がした。
「……どう?」
ナオキは数秒、何も言わずに見つめていた。その沈黙が少し怖く、でも嬉しくもあった。
「……やばいな」
「や……ばい……?」
「かわいいよ。すごく」
その一言に、思わず息を飲んだ。胸に温かいものが広がり、涙が滲みそうになった。
「……ほんと……?」
「ああ。ちょっと自慢したくなるくらいだな」
「じ、自慢……?」
「いや、なんでもないよ」
耳の後ろを掻いたナオキの仕草が、また胸の奥をそっと揺らす。私は帽子のつばを指先でそっと触れた。
「ナオキ、ありがと。むすんでくれて……。こういうの、してもらったことなかったから」
「いいよ。言ってくれれば、またいくらでもやるから」
「ま、毎日……?」
「やりたければ、ってことだよ」
けれど胸はきゅっと鳴った。毎日という響きが、どこか特別に聞こえてしまった。
「ねえ、ナオキ」
「うん?」
「今日の私……昨日より、かわいくなった?」
昨日より街に慣れた自分。外に出るのが怖くなかった自分。かわいくなりたいと思えた自分。ナオキの隣に立ちたかった自分。
その全部を確かめたかった。
ナオキは少し照れたように目をそらし、それでも優しい声で言った。
「……ああ。昨日より今日のほうが、かわいいよ」
胸の奥がきゅっと締めつけられたのに、痛みはなかった。むしろ温かくて、息が深く吸えた。
「……じゃあ……もっと、がんばる」
「いや、もう十分頑張ってるよ」
「もっと……」
「何を?」
「ないしょ」
自分でも、まだ言葉にはしたくなかった。胸の中の小さな火をそっと守るようにしていたかった。
外へ出ると、風が髪の先を揺らした。昨日よりも少しだけ強い風。でも心は揺れずに立っていた。
ショッピングセンターに着く頃には、緊張よりも期待のほうが少しだけ勝っていた。帽子を押さえて深呼吸する自分に、昨日より少しだけ勇気が宿っているのが分かった。
化粧品売り場の入口。昨日は怖くて立ち止まった場所。けれど今日は違った。私は、自分の意思で足を踏み出した。
化粧品売り場に足を踏み入れた瞬間、ほんのりした香りが広がった。昨日はその柔らかな匂いですら胸がつまるほど怖かった。けれど今日は、風が流れるように自然に受け取れた。
ナオキは少し前に立ち、私が迷いそうになる方向をそっと塞ぐように歩いてくれていた。言葉にしなくても、その位置が安心になる。
「この辺りは匂いが弱いよ。肌に強くつくやつじゃなくて、色を少しのせるくらいのものが多いから」
「色、のせる……?」
「そう。おしゃれの入口って感じかな」
ナオキの声は低くて落ち着いていて、昨日よりも聞こえ方が優しかった。私が緊張しているのを察して、いつもより少しゆっくり話してくれているのが分かった。胸の奥が、じんわり広がる。
私は棚に並ぶ小さな瓶にそっと手を伸ばした。光を受けてきらりと色が変わった気がして、思わず指先が止まる。
「あ……きれい……」
「うん。似合いそうだよ」
「に、にあ……?」
「リヴがつけたら、たぶんもっときれいに見えると思う」
そう言われると、こそばゆくて、恥ずかしくて、でも逃げたくはなかった。昨日までの私なら、こんな場所で褒められたらすぐにうつむいてしまったはずだ。それでも今は、聞きたい気持ちと嬉しさが胸の中でそっと手をつないでいる。
そのとき、店員が近づいてきた。昨日とは違う人だったが、姿を見るだけで緊張が胸をつかんだ。
私は反射的に体を縮めた。耳を隠した帽子がずれていないか気になり、指がつばに触れる。
その瞬間、ナオキがすっと前に出て、自然な声で店員に向き直った。
「この子、ちょっと恥ずかしがりでして。日本語も勉強中なので、できれば軽く試せるくらいでお願いできれば」
驚くほど自然で、私を守るような言い方だった。昨日より距離が近く感じられた。
店員は柔らかく笑って、小さく頷いた。
「では、手の甲に少しだけ試してみましょう。無理はなさらないで大丈夫ですよ」
優しい声だった。誰も私の帽子も耳も気にしていない。それだけで胸のつかえが少しずつ溶けていく。
(……こわくない……。昨日よりずっと、こわくない)
私は小さく頷き、手の甲を差し出した。店員がほんの少しだけ色をのせると、光を受けて柔らかく揺れた。
「……きれい……」
「うん。似合ってる。リヴにすごく合ってるよ」
「……ほんと……?」
「ああ。今日のリヴ、すごくきれいだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。昨日の私が恐れていた売り場で、今日はちゃんと息ができる。そして、褒めてもらえる。
(昨日とは違う。ちゃんと前に進めてる)
そう思えただけで胸が膨らんだ。
「昨日より……こわくなかった」
つい言葉になった。
「だよな。すごく頑張ってたよ」
「……がんばったよ、私」
「うん。ほんとに」
ナオキの笑顔が優しくて、胸の奥がさらに温かくなった。
売り場を離れても、甲にのった色はまだ残っていた。指でそっとなぞると、少しひんやりしていて、光の角度で表情を変えた。
私はそのままナオキの袖をにぎった。
「ね、ナオキ」
「うん?」
「今日の私……すこしだけ、きれいになった?」
昨日より肩をすぼめずに歩けた自分。髪を結んでもらって外に出られた自分。化粧品の前で逃げなかった自分。
その全部を確かめたかった。
迷いはなかった。ナオキは穏やかに目を細め、優しい声で言った。
「……うん。今日のほうが、ずっときれいだよ」
胸があふれそうになる。涙がこぼれそうなのに、泣きたいわけじゃない。ただ、胸の奥が熱くて、嬉しくて、息が深く吸えた。
「……じゃあ……もっと、がんばる」
「はいはい。好きなだけ頑張れ」
「うん……がんばる」
帽子のつばが揺れた。その影の奥で、昨日より少しだけ深く、胸の中の小さな芽が伸びていくのが分かった。
家に帰る頃には、手の甲についた色も、帽子の影も、髪の結び目も、全部が今日の私を作っている気がした。
靴を脱ぎながら、私はそっと振り返った。
「ナオキ……きょうね……すこしだけ、自分がすきって思えた」
ナオキは驚いたように目を丸くし、それからゆっくりと笑った。
「それが一番だよ。俺は、そうやって少しずつ好きになってくれるなら、それだけで十分だよ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
「……うん」
たった一文字なのに、胸の奥に静かに沈んでいく。
(もっと、自分を好きになりたい。もっと、今日みたいに進みたい)
その願いは、昨日の私にはなかったものだった。
結ばれた髪の重さが、今日の勇気をそっと支えてくれているように感じられた。




