第8話:驚異的な回復と、未来への投資
三日目の朝が来た。
六畳の部屋にはまだ太陽が本格的に昇りきらない柔らかな白い光が満ち、空気はひんやりと静まり返っている。
ナオキは布団から体を起こすと、しばらく天井を見つめて動かなかった。寝不足のぼんやりした頭の奥で、胃のあたりだけが妙に重く、じんわり痛んだ。
(……今日も熱で休むって言うのか。三日連続だぞ)
枕元のスマホがまだアラームを鳴らしていない。だが、待っていては意味がない。起き上がった瞬間から、心臓が少しずつ強く脈を打ち始める。
スマホを取り、発信ボタンを押した。冷たい電子音がいくつか続き、すぐに上司の事務的な声が耳に落ちてきた。
「すみません……はい、まだ熱が……三十八度くらいで……はい……申し訳ありません」
言葉を発するたびに胸がきしむ。
嘘を重ねるたび、こめかみがじんわりと痛むのは、自分を責めている身体の反応なのだろう。
電話が切れた瞬間、静寂が部屋を満たした。
ナオキは深く息を吐き、胸の奥を押さえた。
(これ、バレたら俺の人生ほんとに終わるな……)
だが、その後に思い浮かぶのは、今もウロで眠っているかもしれない少女の姿だった。
傷の痛みに眉を寄せ、警戒心に肩を固め、言葉が通じないまま不安に揺れる長い耳。
あの姿を、置いて仕事に行けるほど、ナオキは器用ではなかった。
胃薬を水で流し込み、インスタントコーヒーで喉を熱くしながら、ポケットの中の錆びた釘を指先でなぞる。それは、リヴから受け取った「対価」であり、異世界に自分が踏み込んだ証でもあった。
「行くか」
息を整え、テレビの前へ立つ。
何の変哲もない32型が、今はもうただのテレビには見えない。
指先をそっと画面に触れ、そのまま一歩踏み込む。
空気が反転し、森の湿り気がふっと肌にまとわりついた。
ウロの内部は薄暗く、ランタンの橙が柔らかく壁を照らしている。湿った木の香りと土の匂いが鼻へ入る。森の奥から鳥の声が細く届き、世界の違いをはっきりと感じさせた。
寝袋の上で、リヴはすでに目を覚ましていた。
ナオキが壁から現れた瞬間、肩がびくりと震える。しかし昨日までの鋭い拒絶とは違う。まだ恐怖はあるが、「見慣れ始めた光景としての驚き」へ変わりつつあった。
リヴはしばらくじっとナオキを見ていたが、やがて視線を落とした。長い耳がわずかに横へ傾く。
ナオキは手を軽く挙げて合図し、リヴを驚かせないようゆっくり片膝をついた。こうした「動きを小さくする癖」は、リヴに対して意識的に身についたものだった。
「おはよう。傷、見せてもらっていいか」
ジェスチャーでゆっくり示す。
リヴは小さく息を吸い、まだ少し警戒の残る目つきで頷くと、足を差し出した。髪の端を指で触ってしまう癖が、緊張を物語っている。
ナオキはバックパックを開け、ポーチを取り、ゴム手袋をはめた。リヴはその手元をじっと追った。昨日まで怯えていた動きにも、少しの慣れが見える。
包帯をほどくと──
「……嘘だろ」
思わず声が漏れた。
獣に抉られた深い傷は、二日では治癒するはずがない。地球の常識なら、むしろ赤黒く腫れ、膿んでいてもおかしくない。それなのに、赤みは完全に引き、皮膚が縫い寄せられたように閉じ始めていた。
(こんなの……俺の知ってる治り方じゃない。森の民って、こんなにも回復力が違うのか)
ぞくりと背筋が震えた。
言葉も文化も違う。だが身体の根本から違うという現実が、ナオキの胸に重く落ちた。
リヴはそんなナオキをじっと見つめ、やがて、得意げに口の端を少しだけ上げた。自分の回復が「ナオキを驚かせられた」らしい。
ナオキは苦笑しながら、新しいガーゼをあて、包帯を巻き直した。
「無理すんなよ。まだ完全じゃないんだからさ」
ジェスチャーで示す。
リヴは一度だけ目を閉じた。それが「分かった」の合図か、それとも「あなたの言葉は分からない」というため息かは分からない。
けれど、次の動きがすべてを語っていた。
リヴは寝袋からゆっくり抜け出し、足を軽く引きずりながら、ウロの隅に置いてある自分の弓と荷物を手に取った。
そして──ウロの入口を指差す。
帰る、と告げている。
「待った待った待った! 無理だって!」
ナオキは慌てて駆け寄り、スケッチブックを取り出して必死に描き殴る。
ベッドで横になる棒人間
その横に大きなバツ印
外へ行く棒人間
そして、矢のように迫るグルァ(ゴブリン)
「まだ出ちゃダメだ! 傷が開くって!」
ジェスチャーだけでは伝わらない不安に、言葉が思わず漏れる。
だが、リヴは首を横に振った。
表情に宿るのは恐怖ではなく、固い決意だった。
帰らねばならない理由が、彼女にはある。
守るべき森か、仲間か、住処か──ナオキには分からない。
だが、その意思だけは確かに伝わる。
ナオキは息を呑み、頭を抱えた。
(やばい……このまま帰したら、またグルァと遭遇するかもしれない。外傷は治っても、命が危ない)
(それに……今の俺にとって、彼女との“関係”は、命綱なんだ)
そして──表情を切り替えた。
「ちょっと待ってろ。絶対に待ってろよ」
大きくジェスチャーし、テレビの壁へ向かった。
リヴは目を見開いたが、昨日ほど怯えず、それでも息を呑むようにその瞬間を見つめた。
ナオキは、壁に吸い込まれるように消えた。
六畳のアパートへ戻ると、彼はすぐ動いた。
棚を開き、キッチンをひっくり返す勢いで物を探す。
(対価を返さなきゃ……彼女の文化を守るには、それしかない)
(あの釘ひとつで、俺はあいつと対等になれた。なら、お返しは絶対に必要だ)
だが、同時に現実が刺す。
(でも明日……三日休んで、どうやって会社に行くんだよ俺)
頭痛と焦燥が胸を締める。
それでも、手は止めない。
そして、昨日ノートに書いたアイテムリストを思い出す。
角砂糖
塩
使い捨てライター
どれも100円ショップで買ったものだ。
だが、それがこの森では「魔法」にも匹敵する価値になる。
ナオキは袋を三つまとめ、深呼吸して再びポータルへ向かった。
ウロへ戻ると、リヴは弓を手に立ち尽くしていた。
出ていく覚悟は決まっているが、ナオキの帰還を待っていたらしい。
「これ……お返しだ」
ナオキは、三つの袋をリヴの前に広げた。
小さなポリ袋に入った角砂糖。
ひとつまみの白い塩。
そして、青い使い捨てライター。
リヴの目が大きく開かれた。
甘味、塩分、そして「火」。
森ではどれも価値が高すぎる。
釘とは比べものにならないほど。
ナオキは、リヴが手を伸ばせず固まっているのを見て、ライターを手に取った。
「見てろ」
親指で軽くレバーを弾く。
カチッ。
ボーッ。
「……っ!」
リヴは本能的に身を引き、腰を落とし、弓を構えかけた。
長い耳が強く震え、瞳孔が開く。
恐怖と驚愕、そして圧倒的な畏怖。
魔力も詠唱もなしに、指先ひとつで火を生み出した存在。
それは、彼女にとってあまりにも異質だった。
ナオキは火をすぐ消すと、静かに言った。
「これは、お返しだ。昨日の釘のな」
ポケットから釘を取り出し、胸元に当てて見せる。
リヴは口を開きかけたが、言葉にならない。
それでも分かる。
彼女は震える指で、差し出された三つの袋を受け取った。
そして、深く、深く、頭を下げた。
ナオキはその姿に、思わず息を飲んだ。
その後、リヴは弓を背負い、ウロの出口へ向かった。
足を引きずりながらも、歩く姿には揺るがぬ決意があった。
(……行くんだな)
森の外から、ゴブリンの鳴き声が風に乗ってかすかに届く。
薄霧が漂い、木々の影が長く伸びる。
リヴは一度だけ振り向き、短く息を吸った。
そして、森の闇へ消えていった。
ウロに静けさが戻る。
ランタンの光が壁に揺れ、木の香りが満ちる。
「……終わったな」
ナオキは天井を見上げ、ポケットの釘をぎゅっと握った。
(リヴは帰った。俺のズル休みの理由も消えた。明日……どうすんだよ)
異世界での大仕事を終えたはずなのに、胸に残るのは達成感よりも現実の重さだった。
森の静かな息吹の中で、ナオキは自分の生活と異世界の狭間に立ち尽くしていた。
森の奥で風が鳴り、ウロに戻ってきた静けさがじんわりと広がる。
ナオキはランタンの光をぼんやり眺めたまま、しばらく身動きが取れなかった。
視界には木の内側に生まれた独特のゆらぎが見え、耳元には微かな鳥の声と風に揺れる枝の軋みが響く。
そのどれもが、さっきまでリヴが作っていた温度の名残のようだった。
指の中の釘は冷たく、手のひらの体温をじわり奪っていく。
(……帰っちゃったな)
胸の奥でぽつりと音が落ちる。
リヴが消えていった森の方向を見つめていると、
あの短い日々が頭の中に静かにほどけていく。
怯えた目でこちらを睨み、触れられることすら拒んでいたあの日。
傷口の痛みに顔を歪めながらも、必死に声を押し殺していた姿。
乾いた土のように見えたカロリーブロックを食べ、あんな表情を見せた瞬間。
そして、
自分の名を呼んだ、あのかすれた声。
リヴ。
彼女自身が選んで、ナオキに教えてくれた、大事な名前。
(帰りたい場所があるって、そりゃ当たり前か……俺だって、そっちを優先するもんな)
納得しようとしたが、胸の奥の小さなざわつきは消えなかった。
心にひっかかりが残るのは、いつ戻ってくるか分からないからだ。
彼女が無事森を抜け、住処へ着いたとしても、戻る理由はない。
対価は互いに渡した。
関係は一度区切りがついた。
戻ってくると約束したわけでもない。
ナオキが一方的に助けただけで、彼女には別の世界がある。
(……それでも、また来てくれたらいいな)
思わず漏れた心の声に、ナオキ自身が驚いた。
この三日間で、彼女の存在が想像以上に自分の日常へ入り込んでいた。
言葉は通じない。
世界も価値観も違う。
それでも、あの森の湿った空気と、長い耳を揺らしてこちらを見る視線が、心にやけに残っていた。
ナオキは立ち上がり、ウロの中を歩いた。
ここはリヴが倒れていた場所で、昨日の夜、一緒に息を潜めた空間だ。
ランタンの橙が木の内側の凹凸に影を落とし、空気はゆっくりと流れている。
小さくため息をつくと、ウロの入口へ近づいた。
外は薄霧に包まれていた。
木々の中を細い光が流れ込み、森は静かに呼吸しているようだった。
(ゴブリン……まだ近くにいるのか)
遠くから聞こえる低い唸り声を耳にし、ナオキは身を引いた。
彼らの動きは予測できない。
リヴが敵意を向けたあの恐怖の声が、今も森のどこかで響いている。
ナオキはウロの中へ戻り、静かに腰を下ろした。
いま外に出れば、命を落とす確率が跳ね上がる。
無謀な行動はしない。
そう判断できるだけの常識だけは持っていた。
(問題は……明日だ)
現実がまた、ゆっくりと重みを増してのしかかってくる。
三日続けての欠勤。
明日は出勤しなければならない。
何を言われるか想像もつかないが、行くしかない。
(なんで俺、異世界のほうが命の危険あっても、現実より気が楽なんだろうな……)
森の危険や、文化の違う住民とのやりとり。
それよりも、会社での叱責のほうがよほど恐ろしいと感じる自分に苦笑した。
そのとき、ポケットの釘が手の中で転がった。
(これ、お返ししたのに……まだこいつのこと考えてるんだな俺)
リヴの手から渡された瞬間の重さと、昨日見せた表情が蘇る。
少し震えていて、でも逃げたりはせず、真っ直ぐ差し出してきた。
(……もう一回、会いたいな)
自分でも驚くほど素直な感情だった。
言葉が通じなくてもいい。
たどたどしいジェスチャーでも、スケッチブック越しの会話でもいい。
またあの声が聞きたい。
森の民の言葉で、自分の名前を呼んでほしい。
そう思うと、胸が少しだけ締め付けられた。
ナオキはゆっくり立ち上がり、バックパックを手に取った。
中身を整えなおし、ランタンの位置を調整し、リヴが触れた水のボトルの蓋を締め直す。
どれも意味はない作業だ。
彼女はもういないのに。
(……完全に、情が移ってるじゃねえか俺)
自嘲をこぼしながらも、どこか温かいものが胸に残っていた。
やがてナオキは壁へ手を触れた。
テレビの画面に似た薄膜がふっと揺れ、視界が歪む。
「また来るからな」
誰に言うともなく、小さくつぶやき、アパートの空気へ戻った。
六畳の部屋は不気味なほど静かだった。
窓から差し込む光がまっすぐ床に落ち、街の音が遠くにかすかに響いてくる。
生活の匂いだけが満ちている現実の空気。
ナオキはふと、テレビ横に置いたスケッチブックを見つめた。
そこにはたった二つの単語しか書かれていない。
ヴァッサー
グルァ
リヴの声が耳に戻る。
森の匂いも、緊張した呼吸も、全部が薄れていきそうで、胸がざわつく。
(明日は仕事……そのあとでいい。また向こうに行けばいい)
そう決めてしまえば、少しだけ心が楽になった。
釘を握りしめたまま、ナオキは小さく笑った。
静かな決意だけを胸に、ナオキはようやく布団へ体を倒した。
夜が近づくにつれ、少しずつ意識は沈んでいった。
異世界の気配はまだ、胸のどこかで温度を持ち続けていた。




