はじめてのおしゃれ
朝の光がカーテンの隙間から静かに滑り込み、部屋の片側を淡く照らしていた。
起きたばかりの空気はまだ少しひんやりしていて、私は手の中のコーンスープがすっかり冷めていることにも気づかないまま、ただテーブルの上のスニーカーの箱を眺めていた。
白くて、軽くて、昨日の帰り道の全部を思い出させる靴。
見ているだけで胸の奥がそっと温かくなる。
「……ナオキ」
「ん?」
食器を拭いていたナオキの手が止まった。
私は胸の奥に引っかかっていた言葉を、思わずこぼしてしまった。
「きのう……ミサキ……かわいかった」
「まあ、先輩だからな」
「……私も……かわいくしたい」
言った瞬間、自分でも驚くほど心臓が跳ねた。
胸の奥の、小さな灯りを誰かに見せてしまったみたいで、息が少しだけ浅くなる。
「かわいいよ、普通に」
「普通にって……なに……?」
「いや……その……」
ナオキが言い淀む。
私は鏡の前に立ち、髪を結ぼうと両手を上げた。
その瞬間だった。
「おい待て!!」
跳ねるような声が飛んできて、私はびくっと肩を震わせる。
髪が上がった下、隠れているはずの耳の付け根がしっかり見えていた。
「……で、でた……?」
「完全に出た。ポニテはまだ無理だって」
慌てて髪を下ろし、帽子を深くかぶり直す。
胸の奥がひゅっと縮まる。
「……すこし……すっきりしたかっただけ……」
「かわいいけど、耳がバレるからな」
「……バレたら、こまる……」
肩がしゅんと下がる。
そんな私を見て、ナオキは息を吸って静かに言った。
「じゃあ今日は帽子も買おう。耳が絶対隠れるやつ」
「ぼうし……もっと、かえるの?」
「帽子なんて無限にあるぞ。似合うやつ探そう」
その言葉だけで胸がぱっと明るくなった。
「……みてみたい」
「よし、行くか」
白いスニーカーを履いて外に出ると、ふわっとしたクッションが足裏を押し返してくれたようで、心まで持ち上げられる気がした。
帽子を押さえながら歩いていると、ナオキが苦笑した。
「そんなに押さえたら逆に怪しいって」
「……でも……耳が……」
「大丈夫。誰も見てないよ」
その声だけで、こわさの半分がほどけた。
ショッピングセンターに着くと、ナオキは迷わず帽子売り場に向かった。
壁いっぱいの帽子たちを見て、私は思わず固まる。
「……これ……全部、ぼうし……?」
「全部だよ」
目で追いきれないほどの形と色。
私はそっと、つば付きのニット帽に触れた。
「……やわらかい……」
「試してみな。耳も隠れる」
「……うん……そっと……」
人目を気にしながらかぶると、耳がすっぽり隠れた。
鏡に映った私は、まだ“こわい”けれど、ほんの少しだけ“なりたい自分”に近づいた気がした。
「お、似合ってる。かわいいぞ」
「……ほんと……?」
「ほんと」
帽子の影からのぞく自分の目が揺れているのが分かった。
ナオキは次に、バケットハットを手に取る。
「これなんか自然でいいだろ」
「……ふわってしてる……かわいい……」
「よし、それも買おう」
「ふたつも……?」
「似合ってるからいいだろ」
「……にあってる……」
胸の奥がくすぐったくなり、私は帽子をぎゅっと抱きしめた。
「次、化粧品コーナー行ってみるか。見るだけな」
「みる……がんばる」
昨日より少しだけ力のある“がんばる”だった。
だが、化粧品売り場に入った瞬間、私は息を呑んだ。
煌びやかな光。甘い香り。無数の小さな瓶や箱。
頭がくらっとする。
「……きらきら……ながい……なんか……いっぱい……」
帽子を押さえながら身を縮めていると、店員が近づいてきた。
私はびくっと体を震わせる。
声は優しいが、突然の距離に心臓が跳ねた。
日本語はまだ不安で、場所の空気にも飲まれそうだった。
その瞬間、ナオキが前に出て私の前に立った。
「友達に化粧品見せたくて」
その声が壁みたいに前に立ったことで、胸が少しだけ軽くなる。
「お肌すごく綺麗ですね。ハーフの方ですか?」
心臓が跳ね上がる。
帽子の端から耳の付け根が見えていたのだろう。
(ばれた……?)
けれど、店員の表情には疑いなど一切なかった。
ただ褒めただけ。
「本当に綺麗ですね」
緊張していた胸の奥が少しだけゆるむ。
ナオキがすぐに話をそらした。
「いや、ちょっとシャイで。日本語もまだで」
私は帽子を押さえ、売り場を離れるまでほとんど喋れなかった。
外に出ると、やっと呼吸ができた。
「……ナオキ……ばれた……?」
「いや、全然。外国のハーフかって意味だよ」
「……こわかった……」
「よく頑張った。ほんとすごいよ」
そっと手を握られる。
その温度で、張りつめていたものがゆっくり溶けていく。
廊下を歩きながら、胸の奥の緊張がゆっくり落ち着いていくのを感じた。
人混みのざわめきや、エスカレーターの音さえ、さっきより少しだけ静かに聞こえる。
「ね、ナオキ……」
「ん?」
「……私ね……ほんとは……髪も、かわいくしたかった……」
言った瞬間、胸がまたぽっと熱くなった。
昨日までは思いもしなかったことを、今日の私は当たり前のように言っている。
その変化が少し怖くて、でも嬉しくて、息がうまく整わない。
ナオキは歩きながら、少しだけ照れたように目線をそらした。
「知ってるよ。朝、鏡の前で何度もやってたろ」
その一言で、心がぐっとあたたかくなる。
見られていたことが恥ずかしくて、嬉しい。
「だって……ミサキ、きれいで……
ナオキ……にこってしてて……
だから……私も……すこし……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
胸がぎゅっとなって、その先を言うのが怖い。
けれど、止まれない。
「……かわいくしたい。ナオキに……」
耳まで一気に熱くなる。
言った瞬間、自分で自分に驚いた。
こんなことを言うなんて、昨日の私は考えもしなかっただろう。
ナオキは一瞬固まったように見えた。
けれど、時間をかけて声を絞り出す。
「いや……変じゃないよ。むしろ……うれしい……」
震える声だった。
その震えが、私の胸までゆっくり温める。
「ね……耳、かくしたまま……かわいくできるやり方……いっしょに探して?」
「ああ。探す。全力で」
「私も……がんばる」
「はいはい」
軽い返事なのに、安心がすっと胸に落ちた。
いつもの調子なのに、いつもより優しく聞こえる。
買ったばかりのバケットハットをかぶり直す。
鏡がなくても分かる。
さっきより少し表情が明るくなっている。
「ね……ナオキ」
「どうした?」
「……今日の私……すこしだけ……かわいい?」
胸がぎゅっとして、足が止まりそうになる。
その答えを、私は人生でこんなに必要としたことがあっただろうか。
ナオキはゆっくりと私を見て、少しだけ笑った。
「かわいいよ。ちゃんと」
「……ほんと……?」
「ああ、本当」
胸の奥で、静かな音がしたような気がした。
少しあたたかくて、少しくすぐったい。
(もっとかわいくなりたい)
帽子の影で、自然と口元がゆるむ。
外に出ると、夕方の風が少し冷たかった。
私は帽子のつばをそっと触れながら、ナオキの横を歩く。
「……ナオキ」
「ん?」
「この帽子……へんじゃない……?」
「全然。似合ってるよ」
その声があたたかくて、胸の奥がすっと軽くなる。
けれど、外に出るとどうしても落ち着かない。
(見られてる……?)
そんなはずはないのに、自分が変わったことが気になって仕方ない。
「気にしすぎると余計に目立つぞ。ほら、少し力抜いて」
「……ぬく……むずかしい……」
「まあ、少しずつな」
言われた途端、肩の力がすっと抜けた。
ほんの少しだけ、風の音が柔らかくなる。
駅前のガラスに、自分の姿が映る。
私は思わず足を止めた。
(これ……私……?)
帽子の影で輪郭が柔らかくなり、視線は前より上向きだ。
姿勢も、昨日よりほんの少しだけまっすぐ。
「どうした?」
「……みえた。わたし……ちょっと……かわいい」
ぽつりとこぼれた言葉に、ナオキは少し驚いて、それからゆっくり笑った。
「そうだよ。ちゃんとかわいいよ」
「……ほんと……?」
「ほんと」
胸がぽっと熱くなる。
自分の姿から目をそらした。
帰り道。
ゆるい坂道の影の中で、私はまた言っていた。
「ナオキ……」
「ん」
「わたし……もっと……きれいになりたい」
その言葉が出た瞬間、胸の奥が少し震えた。
恐怖じゃなく、前に進むための震え。
「いいことだよ。そう思えるの、大事だ」
「……うん。でも……がんばれるか……わからない」
「分からなくていいよ。できる分だけで十分だ」
その穏やかな声が、胸をいっぱいに満たす。
なんでもない言葉なのに、泣きたくなるほど優しい。
「ナオキ……すき。そういう……ことば」
「はいはい。分かった分かった」
照れ隠しみたいに笑いながら、小石をつま先で蹴るナオキ。
その横顔が、夕方の光で少し柔らかく見えた。
アパートが近づくころには、空は濃い藍色に変わり、街灯の光が道に長く落ちていた。
夕方の風が帽子のつばをそっと揺らすたび、胸の奥で少しだけ勇気が揺れた。
階段の前で私は足を止めた。
スニーカーのつま先を見つめ、指先で帽子のつばをなぞる。
「ナオキ……」
「ん? どうした」
私は胸の前で小さく手を握った。
今日、何度も聞いた言葉を、もう一度だけ口にした。
「きょうのわたし……すこし……かわいい?」
自分で聞きながら、胸がぎゅっと縮む。
三度目でも慣れない。
でも、この問いを投げられるようになった自分が、昨日とは違って見えた。
ナオキはしばらく私を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。
「かわいいよ。ほんとに」
その声は嘘がつけない人の声だった。
だから胸の奥がふわっと広がる。
「……よかった……」
そのまま階段を上った。
今日は、段差の一つ一つが軽かった。
帽子を押さえる手も、もう震えていない。
部屋に入ると、温かい空気がふわりと迎えてくれる。
明かりがともった瞬間、今日はもう終わるんだと胸が少しだけ締めつけられた。
スニーカーを脱ぎながら、私はそっと言った。
「ナオキ……
あしたも……がんばる。
おしゃれ……もっと……したい」
その言葉が自分の口から出たことが、自分でも信じられなかった。
昨日の私は、こんなこと思いもしなかった。
ナオキは靴箱の横に手を置き、少し困ったように、でもほんの少し嬉しそうに笑った。
「いいよ。ゆっくりでな。
急がなくていいから」
私は小さくうなずいた。
「……うん。ゆっくり……」
胸にそっと触れる。
今日一日で生まれた気持ちの形を、そこに確かめるように。
そのあと、私は買ったばかりのバケットハットを紙袋から取り出した。
ふわふわした布地が指に優しく沈む。
店の光の中よりもずっと柔らかく見えた。
それはたぶん、私の気持ちが少し変わったからだ。
帽子をそっとかぶり、鏡の前に立つ。
耳はちゃんと隠れて、髪も落ち着いている。
「……へんなの、かな……」
つぶやいた途端、背後から近づく気配。
「変じゃないよ。似合ってる」
ナオキの声が、余計な不安をすっと拭う。
「朝より、ずっといい顔してるぞ」
「ひょうじょう……?」
「そう。ちょっと、自信ついた感じ」
自信なんてまだ全然ない。
でも、言われた瞬間、胸の奥がじんわりと温まった。
「……もっと、かわいく……したい」
ぽつりとこぼれた声に、ナオキは驚いたように瞬いた。
「リヴがそう思えるなら、それだけで十分だよ。
いくらでも付き合うから、ゆっくりな」
私は小さくうなずく。
「……ゆっくり……うん」
ナオキがポーチから小さな色見本を取り出した。
淡い色、小さなチップ、色の違い。
全部、私にはまだむずかしい世界だ。
でも――。
「リヴの肌は明るいし、こういうあたたかい色、合うと思う」
「……きれい……」
その色を見て、胸がふわっとした。
「最初は分からないもんだよ。俺も全然分からんしな。
だから、焦らなくていい」
私はそっとナオキを見上げる。
「ナオキ……いてくれるから……できる」
その言葉は、胸の奥から勝手に出てきた。
ナオキは一瞬だけ固まったが、すぐ柔らかく笑った。
「そりゃよかったよ。
リヴが嬉しいなら、それでいい」
体の力がゆっくり抜けていく。
鏡に映る自分の姿を見ながら、私はもう一度だけ尋ねた。
「ナオキ……
この私……すこしだけ……かわいい?」
ナオキはまっすぐ私を見て、静かに言った。
「かわいいよ。
今日のリヴは、ちゃんとかわいい」
その声だけで、胸の奥に花がひらくような気がした。
夜。
帽子をそっと机の上に置き、部屋の灯りを少し落とす。
今日のすべてが胸の奥でゆっくり息をしていた。
(もっと……かわいくなりたい)
(もっと、胸を張ってナオキのそばにいたい)
その願いが、今日の私を作った。
明日、また少しだけ前に進める気がした。
(あしたも……がんばる)
その小さな決意は、誰に見せるわけでもないけれど、
帽子の影より静かに、確かに心の中で灯っていた。




