小さな決意
風呂の湯気がまだ部屋の隅に残っていた。外はもう暗く、窓の向こうでは街灯の光が小さくゆらめいている。静かな夜がゆっくり広がっていく中、リヴはタオルを畳みながら、思い出すような声で言った。
「ミサキ……また、あいたい。
あのひと……あったかい」
言葉の途中で、胸の上にそっと手を添える。そこに残った温度の意味が、自分でもうまく分からないようだった。
「そう感じたなら良かったよ」
ナオキが返すと、リヴは廊下を歩き、寝室の前でふいに立ち止まった。扉に触れたまま、こちらを振り返る。
「……ナオキ」
「どうした」
いつもの呼び方なのに、声の奥に少し慎重さが混ざっている。
「リヴ……がんばるね」
「がんばるって……何を?」
すぐには答えず、わずかな沈黙が落ちる。
湯上がりの体温がその沈黙の中でゆっくりとこぼれていた。
「……ないしょ」
その声は静かで、けれど不思議と強かった。
背伸びでもなく、無理でもなく、胸の奥に生まれた小さな火を守るような響きだった。
扉が閉まり、寝室に静けさが落ち着く。
布団に入ったリヴが身じろぎする音が、かすかに廊下まで伝わってきた。
やがて呼吸が整い、柔らかい寝息が続いていく。
昼間の揺れや緊張が溶けて、安心が残ったときの静かな呼吸だった。
ナオキは部屋の灯りを落とし、暗くなった室内でひとつ息をついた。
(……がんばる、か)
今日のどの言葉より、芯があった。
甘いものに喜んだ顔でもなく、誰かに見せようとする勇気でもなく。
心の奥をそっと育てようとする人の声だった。
(何を、は……まあ、なんとなく分かるけどな)
言わせようと急かす必要はない。
形になり始めた感情を無理に引っ張れば、きっとどこかで歪む。
(焦らなくていい。あいつが思う速さで、ゆっくりでいい)
リヴの寝息は、小さな波のように静かに部屋に広がっていく。
その中に、今日芽生えたばかりの勇気が混じっている気がして、ナオキは目を閉じた。
(……前に進もうとしてるんだな)
胸の奥にその実感が落ちた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。
窓の外で風がかすかに揺れ、夜が静かに深くなっていく。
ナオキはすぐには横にならず、しばらく壁にもたれてリヴの寝息を聞いていた。
眠っているときのあいつは、どこか部屋の空気まで柔らかくしてしまう。
それが不思議で、そしてほんの少しだけ気を引き締められるようでもあった。
(あいつの“がんばる”って、誰かに認めてほしいからじゃないんだよな)
胸の奥でゆっくり言葉が形をつくる。
(自分で立ちたいんだ。自分で“ここにいる”って思いたいんだ)
スイーツに目を輝かせていた顔。
美咲の前で緊張していた肩。
帰り道で見せた揺れ。
風呂上がりに見せた、あのまっすぐな目。
全部がひとつの線になっていく。
(俺は……どうなんだろうな)
リヴの気持ちには、もうとっくに気づいている。
目をそらし続けられるほど鈍くもない。
(否定したいわけじゃない。
でも、簡単に受け止めていい話でもないし……)
胸の奥で言葉にならない重さが沈む。
拒む気持ちはひとつもない。
ただ、軽く扱う気にもなれない。
(時間はかかるさ。ゆっくりでいい。
あいつと同じ速さで歩けばいい)
そう思ったところで、ナオキはようやく布団に入り、静かに目を閉じた。
朝の気配は思っていたより早く訪れた。
薄い光がカーテンの隅をかすかに照らし、静かな部屋に色が戻り始める。
ナオキが目を開けると、すぐそばで柔らかな寝息が続いていた。
リヴは布団に包まれ、頬だけが少しのぞいている。
昨日より深い眠りだったのだろう。まつげが少し震えるだけで、ほとんど動かない。
(よく眠れたみたいだな)
ナオキはそっと起き上がり、気配を乱さないよう部屋を出る。
台所で湯を沸かしていると、布団の擦れる音がした。
振り返ると、寝起きのリヴがふわふわした足取りで立っていた。
髪は少し乱れ、目はまだ眠りの底から抜け切っていない。
「……ナオキ……おはよう……」
「おはよう。無理して起きなくていいのに」
「ん……おきたい……ナオキ、ここ……いる……」
短くても、その声には安心が滲んでいた。
リヴはゆっくり近づき、胸の上のあたりを小さく握る。
昨日の夜の震えとは違う。
緊張ではなく、何か言おうとする時の息の集まり方だった。
「ね……ナオキ」
「どうした?」
リヴは言葉を探すように目を瞬かせ、ゆっくり続ける。
「きょう……すこし……ひとりで、あるきたい」
その一言に、ナオキの手が止まる。
「ひとりで?」
「うん。ちょっとだけ、ね。
こわい……でも……すこし……できそう」
声は弱くない。
ただ、初めての場所に足を出す前の動物みたいに、慎重だった。
ナオキはしばらく彼女を見つめたあと、ゆっくり頷いた。
「いいと思うよ。無理しないでな」
「……うん」
胸に置いた指先がわずかに震えている。
でもその震えは、後ろへ引くためのものじゃなかった。
「どこまで行くつもり?」
「ここ……でて……かいだん、おりて……
まえ のみち……そこまで」
「それなら大丈夫だろ。俺もここにいるから」
その言葉にリヴは小さく息をつき、目を細めた。
「ナオキ……すき……その……いいかた……」
照れたように視線を落としながらつぶやくと、すぐに支度に向かった。
玄関でスニーカーの紐を結ぶリヴの表情には、迷いと勇気が入り混じっていた。
昨日の夜よりも、少しだけ背筋が伸びている。
「……いってくるね。
すこし……ひとりで」
「行ってこい。ゆっくりでいい」
「……うん」
扉を開けた瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。
リヴは一歩目を慎重に踏み出し、深く息を吸う。
二歩目は、胸の中で何かを押すように。
三歩目で、ようやく昨日の揺れが溶ける。
(……いける)
階段の前に立ち、段差をじっと見つめる。
ひとりで降りるのは今日が初めてだった。
リヴは両手を軽く握った。
指先が白くなるほど力が入っているが、その手は震えていない。
一段目に足を置く。
二段目で、呼吸が少し深くなる。
三段目には朝の光が差し込み、リヴの影が伸びた。
段を降りきった瞬間、胸の奥が温かくなった。
「……できた……」
その声は本当に小さかった。
だけど、昨日どれだけがんばっても言えなかった言葉だった。
その時、足元に白い紙がころころ転がってきた。
顔を上げると、向こうで幼い子どもが手を伸ばしている。
紙は風に押され、道路の方へ流れていく。
リヴは瞬間的に一歩踏み出した。
「……ま、て……」
ぎこちない発音のまま、小走りで追いかける。
靴がまだうまく馴染んでいないが、足は止まらなかった。
指先が紙の端をとらえる。
紙を胸に抱いて戻り、子どもの前でしゃがむ。
「……これ……きみ……の?」
子どもは嬉しそうに頷き、笑った。
「ありがとう、おねえちゃん!」
その笑顔に、リヴは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「……うん。きをつけ……て」
短い言葉なのに、やさしさが確かに宿っていた。
階段を上がる時、リヴは振り向いた。
上で待つナオキを見つけて、小さく笑う。
「ナオキ……ただいま」
「おかえり」
「リヴ……ひとりで、いけた。
おりて……みち……たって……
ちいさい、こ に……これ……わたした」
胸に手を当てて、うまく言葉にできない気持ちを押さえるように話す。
「すごいじゃん。ちゃんとできたんだな」
その言い方に、リヴはほっとしたように息をついた。
「ナオキ……みてた?」
「見てたよ。ちゃんと」
リヴは一瞬だけ顔を伏せ、それから小さな声でつぶやいた。
「……ナオキ の……みてる……すき」
その言葉に、ナオキは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
誇らしさと、なぜか少し寂しさが混ざる、不思議な感情だった。
(本当に……強くなってるな)
頼られなくてもできることが増えていく。
それは嬉しいことであり、同時に胸の奥をそっと締めつける現実でもある。
【小さな決意の朝】
玄関に入る前、リヴは階段の方を振り返った。
昨日までただの“こわい場所”だった段差が、違うものに見えていた。
「……あしたも……すこし……いく」
「いいよ。ゆっくりな」
「……うん。がんばる」
扉が静かに閉じる。
その小さな声は弱くなく、
確かに前に進む人の声だった。
(あいつ……また一歩進んだな)
ナオキは胸の奥に温かさが残っているのを感じ、その朝にそっと笑みを浮かべた。




