その子は、ちゃんと恋をしている
駅前の明かりは、夜の冷たい空気に押されながらも、まだ静かに光っていた。
スイーツバイキングの店を出た三人は、通りを抜けて小さな広場まで歩き、そこで自然と立ち止まった。
「じゃ、直輝くん。またお店でね」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。かわいい子見せてもらっちゃったし」
美咲は軽く笑い、ひらりと手を振った。
リヴは帽子のつばを押さえながら、少し緊張した面持ちで頭を下げる。
「じゃあね、リヴちゃん」
『……さよなら、ミサキ』
ぎこちない発音なのに、まっすぐ届く声だった。
美咲は嬉しそうに笑い、それからエスカレーターへ向かっていく。
その背中がふと止まった。
ガラス越しに二人の姿が見える位置で、美咲はほんの一瞬だけ立ち止まり、そっと息を吸った。
(……直輝くん、気づいてるかな)
ガラスの向こうで、リヴがナオキの袖をつまんでいる。
甘いものに溶けた顔じゃない。
静かで、深くて、どこか迷いをほどいたみたいな表情だった。
(あれはもう、ただの“スイーツが美味しかった子の顔”じゃないな)
(ちゃんと恋してるんだ、この子)
そう思ったら、不思議と胸が温かくなった。
(嫉妬してた子が……ちゃんと踏み出して……
ちゃんと向き合って……
ちゃんと迷って……
その先で、あんな顔をするんだ)
(直輝くんのこと、本当に好きなんだね)
それはとても澄んだ気持ちで、少しだけ切なくて、でも苦くはなかった。
むしろ、美咲自身の肩の力がほどけていくようだった。
(じゃあ私は、私の場所でちゃんとやろう。
あの子の未来を奪いにいくために助けたんじゃない。
救ったのは義務で、守ったのは正しさで、
好意は少し、愛情はほんの少し。
それで十分だよ)
声には出さずに、小さく呟く。
(直輝くん、幸せになりなよ)
エスカレーターが動き、美咲の姿は下の階へ溶けていった。
広場を抜けて歩き出すと、リヴの歩幅がゆっくりになった。
スニーカーの白が、街灯の光をやわらかく跳ね返す。
「疲れたか?」
「……ううん。つかれてない」
声は小さいが、無理している感じはなかった。
ただ、胸の奥にまだ溶けきらない甘さが残っているような、そんな声音だった。
「緊張してただろ。ああいう場所は慣れないしな」
「……ミサキ、やさしかった」
「ああ」
「こわいと思ったけど……ちがった。なんか……あったかかった」
リヴは帽子のつばを触りながら、美咲に抱きしめられたときの温度を思い出すように目を伏せた。
「ナオキの、たいせつな先ぱい……その人に『だいじょうぶ』って言われたの……
なんか……ふしぎな気持ち」
「ふしぎ?」
「胸が……あたたかくて……くすぐったくて……でも、ちょっとこわい……そういう“ふしぎ”」
そこでリヴは立ち止まった。
街灯の光が、帽子の影を長く落とす。
「ナオキ」
「ん?」
「……ミサキに……ね」
息を整えるように、リヴの声がゆっくり紡がれていく。
「ナオキの“たいせつ”を……とりたかったわけじゃないって……わかったの」
「……ああ」
「だからね……」
胸に手を置く。
「ナオキの“たいせつ”の中に……リヴもいていいって……
ミサキが、そう言ってくれた気がした」
ナオキは返事をしようとして、喉が少し詰まった。
胸の奥でじんわり熱が広がる。
リヴは少しうつむき、ぽつりと続けた。
「でもね……そのぶん、ふしぎな気持ちがふえた。
“ここにいていい”って言われて……胸の奥が、ひゅんってするの。
なんか……あったかいみたいで……」
「ひゅん、てする?」
「ひゅん、だよ……ここ……」
胸に小さな手を置く。
説明が追いつかなくて、感情だけが溢れている仕草だった。
「緊張がとけたんだろ。ずっと不安だったし」
「ちがう……」
リヴは首を横に振った。
「森で迷ったときとか、ゴブリンに追われたときの“こわい”じゃない……
これは……」
先が言えなかった。
でも、その表情でわかった。
(恋だよ、それは)
(この子、ちゃんと恋してる)
信号待ちでリヴがぽつりと言う。
「ナオキ……」
「ん」
「ミサキ……ナオキのよこにいても……にこ、ってしてた」
「してたな」
「……うれしかった。リヴも……ここにいていいって……思えた」
「……もちろんだよ」
その言葉に、リヴの肩の力がふっと抜けた。
アパートに着くと、リヴは今日買った白いスニーカーを脱ぎ、両手でそっと抱えた。
「これ……今日いちばんうれしかった」
「甘いものじゃなくて?」
「うん……ちがう。
この靴、ナオキと歩いて……ナオキと選んで……ナオキと帰った……
だから……すき」
玄関に丁寧に並べる姿は、自分の一日を抱きしめるみたいだった。
風呂を準備していると、リヴが少し顔を出した。
「ナオキ」
「なんだ」
「……ミサキ、きれいだった」
「そうだな」
「やさしかった」
「ああ」
「ずるかった……?」
「そうだな……いや、違う」
振り返ると、リヴはきょとんとしていた。
「ナオキ……?」
「なんでもない。先入っとけ」
「うん……」
扉を閉めかけたところで、リヴが振り向く。
「ナオキ」
「ん」
「……リヴね……がんばる」
「何を?」
「ないしょ」
扉が静かに閉じる。
(……この子、本当に)
(俺のこと……)
そこまで考えて、ナオキは目をそらした。
扉の向こうでは、湯気が静かに揺れ、リヴの「がんばる」がそっと温まっていった。
浴室の扉が閉じると、静かな湯気の音だけが部屋に流れた。
ナオキはキッチンに立ち、コップに水を注ぎながら、先ほどのリヴの言葉を思い返していた。
(……がんばる、か)
何を、とは言わなかった。
けれど、あの表情を見れば分かる。
甘いものにとろけた後の高揚ではない。
心の奥に、静かに芽を出したものを、誰にも言わず抱きしめるような顔だった。
(この子、本当に……)
考えがそこまで届いた瞬間、湯気の向こうで扉がゆっくり開いた。
「ナオキ……」
リヴが、濡れた髪を軽くタオルで押さえながら出てきた。
頬は湯上がりでほんのり赤く、スイーツの時とは違う色が浮かんでいる。
「風、ひかないように。ほら、これ使え」
大きめのタオルを渡すと、リヴは受け取りながら小さく微笑んだ。
「ナオキ……」
「ん?」
「……におい、する」
「風呂の湯気だろ」
「ちがう。ナオキの……におい」
「……そっちか」
突然言われて、思わず目線を逸らした。
リヴは首を傾け、何かを確かめるようにナオキのそばへ寄る。
「きれいなにおい……すき……」
「そんな大層なもんじゃないよ」
「でも……すき。なんか……おちつく」
そう言って、タオルを抱えたまま、距離を詰めてくる。
湿った髪の水滴が落ち、指の甲に触れた。
(ああ……これは反則だ)
ナオキが気を逸らすようにリビングへ視線を向けると、
「ナオキ……」
また呼ばれた。
「なんだ」
「今日ね……こわいの、いっぱいあった」
「甘さが?」
「それも。でも……」
リヴはタオルを胸に抱えたまま、そっと続ける。
「ミサキ、すごくきれいで……やさしくて……
リヴは……その横にいていいのかなって……たくさん思った」
「そんなこと気にしなくていいよ。美咲先輩は誰にでも優しい人だし」
「でも……ナオキのたいせつでしょ?」
「まあ、そうだな」
リヴは少し視線を落とす。
「ナオキの“たいせつ”の隣に立つのって……
リヴには、すこし……こわかった」
「……そうか」
「でも、ミサキ……にこってしてた。
リヴを見て……『だいじょうぶ』って……まえみたいに言ってくれた」
「うん」
「だからね……」
リヴは小さな手を胸に当てた。
「“ここにいていいんだ”って……なった。
それが……あったかかった」
言葉は静かだが、芯があった。
ひとつの不安を越えた人の声だった。
「そっか。……よかった」
「うん……」
しばらくして、リヴは濡れた髪を指で梳きながら続けた。
「ナオキ」
「なんだ」
「……がんばる、っていったでしょ」
「ああ」
「ほんとは……ナオキのよこで……ちゃんと……」
そこまで言って、リヴは口を閉じた。
言葉の代わりに、頬の赤さがすべてを物語っている。
「無理に言わなくていい。ゆっくりでいいんだよ」
「……うん。でも……言いたい」
リヴは深く息を吸い、少しの沈黙を挟んで、
「ナオキのこと……もっと知りたい。
もっと、いっしょにいて……もっと、ちゃんと……」
その先の言葉を探すように、指先がタオルの端をぎゅっと握った。
「……ナオキの、となりにいたい」
その声は、スイーツの甘さとは違う、静かで真剣な甘さだった。
ナオキはゆっくり息を吐き、リヴの目線に合わせるようにかがむ。
「リヴはもう、十分俺の隣にいるよ」
リヴの瞳が、ほんの少し震えた。
「いる……?」
「いる。たまにくっつきすぎなくらい」
「……それは……ナオキがあったかいから……」
「はいはい」
そう言うと、リヴは照れたように笑った。
「でも……もっと、そばに……いたい。
こわくなくなったから……がんばれる気がするの」
「いいじゃん。がんばりたいときだけで」
「……うん」
タオルで髪を拭きながら、リヴは小さく頷いた。
その姿は、森で覚えた知識と、この世界で知った感情が少しずつ混ざって、ゆっくり大人になっていくように見えた。
「乾かすぞ。風邪ひく」
「……うん」
ナオキはドライヤーを取り出し、椅子を指さす。
「座れ」
「ナオキが……やってくれるの?」
「やってくれるのって……自分でやれよとは言えないだろ」
「すき……」
「はいはい。じっとして」
ドライヤーの風が、濡れた髪を揺らす。
乾いていくたびに、リヴの表情もゆっくりほどけていく。
髪を乾かし終える頃には、リヴの瞼は少し重たそうに見えた。
「眠いんだろ」
「……ちょっと」
「今日は甘さに溺れたしな」
「……おぼれた……」
リヴはぽそりと言い、上目遣いでナオキを見た。
「ナオキ」
「ん」
「……おやすみって、して」
「して?」
「スイーツの時……ナオキ、やさしくしてくれたから……
なんか……“おやすみ”も、ナオキの声で……ほしい」
「……はいはい」
ベッドに入ったリヴを見守りながら、ナオキは布団を整えた。
「おやすみ。ゆっくり寝ろよ」
「……ナオキ……」
「あ?」
「……ありがと……。今日は……こわいも……あったけど……
ぜんぶ……たのしかった」
「うん」
「ナオキが……いっしょだったから……」
「はいはい。寝ろ」
「……うん……」
リヴは目を閉じ、少しの間だけ息を整えるような沈黙があった。
そのあと、小さく、布団の中から声がした。
「ナオキ……すき……」
「……聞こえてるからな」
「ねむいから……いまの……わすれていい……」
「忘れないよ」
「……やっぱり……そう言う……」
声はもう眠りに落ちかけていた。
「寝ろ」
「……うん……おやすみ……ナオキ……」
リヴの呼吸が静かに整い、部屋に穏やかな空気だけが残った。
ナオキは電気を落としながら、ひとり息をつく。
(……この子、本当に……恋してるな)
(ただ甘いものにとろけたんじゃなくて……
ちゃんと、不安を越えて……
ちゃんと気づいて……
ちゃんと俺のこと、見てるんだ)
そのことを胸の奥でゆっくり噛みしめるように、息を吸った。
夜風が、ベランダの隙間を静かに揺らした。
今日を包む最後の冷たい空気が、甘い余韻をそっと冷ましていく。




