大丈夫の意味は教えなくていい
その日、テレビはつけられないまま、黒い画面を静かに映していた。
いつもなら異世界とこちらをつなぐ窓のように賑やかに光る三十二型が、今日はただの箱のように見える。
テーブルを挟んだ向かいで、リヴがマグカップを両手で包んでいた。
中身のコーンスープはすっかり冷え、白い湯気のかけらも残っていない。
「……ナオキ」
か細い声に、食器を拭いていたナオキの手が止まった。
「ん?」
リヴは帽子のつばを指でいじりながら、長い時間をかけて言葉を探していた。
「……ミサキに……会ってみたい」
「……美咲先輩に?」
意外すぎる名前に、胸の奥が小さく跳ねた。
「この世界に来る前……名前、きいたから。
“ずっとナオキを助けてくれた人”って……」
「ああ。そうだな」
「そのときは……いやだった」
ぽつりと落ちた本音に、ナオキは瞬きをした。
「会ったこともないのに……
ナオキのたいせつな場所、とられそうで……胸が、チクチクして……」
言い終えてから、リヴは唇を噛む。
「でも、こっちで……いっぱい助けてもらって。
ご飯も、テレビも、買い物も……全部、いっしょに……」
ふっと目を伏せる。
「だから……“ナオキを守ってくれてた人”にも……ありがとうって言いたい。
ちゃんと、胸の中で思うだけじゃなくて……会って言いたい」
顔を上げた瞳には、嫉妬の名残、覚悟、そして少しの怖さが滲んでいた。
「……会っても、いい?」
そこに宿っていたのは、嫉妬が完全に消えたわけではないけれど、それでも前に進もうとする覚悟だった。
(……ちゃんと向き合おうとしてるんだな)
「……分かった」
ナオキはスマホを取り、美咲へメッセージを送る。
『今度、会ってほしい子がいます。
訳ありの外国の子で……日本語はほとんど通じないんですが……』
すぐ返事がきた。
『また背負い込み顔してそうだね、直輝くん。
いいよ、会うよ。駅前モールでどう?
スイーツバイキングやっている店があるから、そこで』
「……相変わらずだな」
ナオキは苦笑しながらスマホをしまう。
「リヴ。駅前モールで美咲先輩に会うぞ。
スイーツバイキングやっている店があるらしい」
「すいーつ……バイキング……?」
「甘いものがいっぱい、って意味でいい」
「……こわいけど……いきたい」
“こわい”の意味は分かっていた。
場所でも人混みでもない。
ナオキの“先輩の女性”に会うことが怖いのだ。
「大丈夫。俺もいるから」
その言葉で、リヴの指先がほんの少し緩んだ。
「……うん」
約束の時間が近づくにつれて、部屋の空気は少しずつ落ち着かないものへ変わっていった。
リヴは着替えをしながら、鏡の前を行ったり来たりしていた。
「これ……変じゃない……?」
「変じゃない。自然だよ」
白いパーカーにデニム、キャップとマスク。
森の少女だったはずなのに、最近では人混みに出るときの“街の子の姿”も板についてきた。
ただ――鏡に映る自分の姿を、リヴは何度見ても落ち着かない。
「ミサキ……どんな人……?」
「優しくて、ちょっと強くて、仕事できる人」
「……強い……」
「怖い意味じゃないからな」
「……でも、やっぱりこわい……」
袖をぎゅっとつまむ指先は、まるで幼い頃の子どものようだ。
「大丈夫。何かあったら、俺が全部フォローする」
「……うん」
その返事は、ほんの少し震えていた。
駅前モールへ向かう道。
人混みのざわめき、夕方のアナウンス、近くのラーメン店から漂う匂い。
リヴは何度も帽子のつばに触れ、目線を下へ落としたり、ナオキの袖をつまんだりしていた。
「……人、いっぱい」
「ここは多いけど、誰もリヴのこと気にしてないよ」
「……そっか……」
エスカレーターを上るときも、足がすこし竦んでいた。
(……緊張が伝わってくるな)
三階へ着くと、少し空いたベンチに腰を下ろす。
「……くる?」
「来るよ。もうすぐだ」
リヴの指先がパーカーの裾をきゅっと摘んだそのとき。
ナオキが答えた直後、聞き慣れた声が響いた。
「おーい、直輝くん!」
階段の上から、明るい声が降ってきた。
「……っ」
リヴの肩が跳ねる。帽子のつばをぎゅっと押さえた。
エスカレーターを降りてきたのは、美咲だった。
白衣はないはずなのに、どこか“病棟の先輩”のオーラがそのまま纏われている。。
「お疲れ。ちゃんと生きてた?」
「ギリギリです」
「ギリギリでも生きてりゃ合格」
軽口を交わしたあと、美咲の視線がリヴへ移る。
「……この子?」
「リヴです」
呼ばれて、リヴが立ち上がる。
帽子のつばが揺れ、深く一礼した。
『はじめまして……ミサキ』
「お、名前言えるの?えらいじゃん」
美咲は目を細めた。
リヴの膝は少し内向きで、指先に力が入っている。
その緊張が何なのか、美咲にはすぐ分かった。
(……怖いんだな)
美咲は何も言わずに微笑んだ。
「長い話はまた今度ね。甘い物行こ」
スイーツバイキングの店内は、あまい匂いで満ちていた。
リヴは座る位置を決めると、ほんの少しナオキ側に寄った。
(……かわいいな)
美咲は思わず笑いそうになる。
チョコレートの滝、ケーキの山、プリンの海――
けれど今いちばん緊張しているのは、甘い匂いではなく、美咲だ。
「ねえ、直輝くん」
「はい」
「この子……頑張ってる顔してるね」
「そうですね」
「怖いとか、心配とか……全部飲み込んで“ちゃんとしたい”って顔。
えらいよ」
最後の「えらい」は、リヴにも分かるようにゆっくり言う。
「聞きたいことは山ほどあるけど……一つだけ通訳して」
「一つだけ?」
「うん」
美咲はリヴを見た。
「『大丈夫だよ』って伝えて」
“身元がどうでもいい”という意味ではない。
“私はあなたの敵じゃないよ”という、大人の距離感の「大丈夫」。
ナオキは息を整え、ゆっくりリヴに通訳する。
『美咲先輩が言ってる。
“だいじょうぶだよ”って』
『……だいじょうぶ?』
『ミサキは、ナオキのたいせつな“せんぱい”で……
ミサキの場所は、もうミサキの場所にある。
だから、リヴはリヴのままで……ナオキのそばにいていいって……』
言いながら自分でも照れる。
リヴはしばらく考えて――
小さく、恐る恐る言った。
『……ミサキはミサキ。
リヴは……リヴで、いい……?』
美咲は思わず笑い、言葉はいらないとばかりにリヴへ歩み寄った。
そして、そっと抱きしめた。
「怖かったよね。でも、大丈夫。私は人の場所を奪う趣味はないの」
優しい抱擁。
リヴの肩から、すとんと力が抜けた。
言葉は分からなくても、そこに敵意がないことだけは伝わる。
リヴの肩から、すとんと力が抜けた。
『……ナオキ……』
「ん」
『ミサキ……こわくない……』
「怖くない。ちょっとズルくて、ちょっと優しい大人の人だよ」
『……ふふ』
美咲が腕を離すと、リヴは帽子を押さえたまま頭を下げた。
『ありがとう……ございます』
「どういたしまして」
美咲は満足そうに頷き、手を叩いた。
「さて、難しい話は終わり。甘い物いくよ!」
「根拠は?」
「経験則!」
そのテンポに、リヴも思わず笑った。
まだ“自分が何者か”を話す勇気はない。
帽子も脱げない。
けれど――
“ナオキの大事な人”は、自分の敵じゃなかった。
それが分かっただけで、胸の中のひっかかりが少しだけ溶けた。
「……すいーつ……ばいきんぐ……」
「行こうか」
ナオキとリヴが立ち上がり、美咲が先導する。
ナオキとリヴが立ち上がり、美咲が“おすすめコース”を先導する。
甘い匂いの漂うフロアの奥へ、三人の影が並んで伸びていく。
長い道のりをここまで追いかけてくださって、ありがとうございます。
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