初めての買い物
夕方の風が頬に触れた瞬間、リヴはふうっと息を吐いた。
さっきまで味わっていたプリンの甘さが、口の奥でまだわずかに残っている。そのせいか、胸のあたりがずっとぽかぽかしていた。
「……甘いのって……すごい……」
黒いキャップのつばを指先でつまみ、軽く揺らしながら呟く。
十六歳の少女が初めて知った“地球のデザート”の衝撃が、まだ身体に残っているようだった。
「気に入ったならよかったよ」
「うん……ごほうびって、ああいう味なんだね。森では……あんなの、ない……」
語彙は追いつかないのに、気持ちが全部顔に出るから、ナオキは見ていて飽きない。
「このあとどうする? まだ歩けるなら……どこか寄ってみるか」
何気なく言ったつもりが、リヴはきゅっと息を吸った。
「……買い物……今日も……できる……?」
遠慮がちで、でも期待が隠しきれない。
「もちろん」
その一言で、リヴの肩の力がふっと抜けた。
「どこのお店かは……よく分からないけど……もう少しだけ……地球のお店、見たい……」
控えめな声なのに、嬉しさがあっさり滲み出ている。
「なら、ショッピングセンター行くか。歩いてすぐだし」
「行く!!」
返事が早すぎて、ナオキは思わず笑った。
歩き出してしばらくすると、リヴは自分の足元をちらりと見た。
黒いスニーカーは、初めて地球に来た日に慌てて買った“とりあえず”のもの。
「この靴……ちょっと重い……。走ると足の裏がつかれる……」
「今日はちゃんとしたやつ買おう。長く歩くなら軽いほうがいい」
「……いいの……?」
「もちろん」
それだけで、リヴの口元がふわっと緩んだ。帽子の影から、小さな笑みが見えた。
大通りに出ると、ガラス張りの大きな建物が目に入った。
夕暮れの空を反射して淡い色に光っている。
「……これ全部、お店……?」
「全部だよ。中にいろんな店が入ってる」
「ぜ……全部……?」
驚きが声の形になり、ナオキの袖がそっとつままれた。
「人は多いけど、大丈夫。誰もリヴのことなんて見てない」
「……うん。ゆっくり、見る……」
自動ドアが音もなく開く。
外とは違う、ひんやりとした空気と、さまざまな匂いが一気に流れ込んできた。
「……すご……甘いのと……布と……なんかきれいな匂い……」
「服も雑貨も食べ物もあるからな」
「森とぜんぜん違う……けど、きらきらしてる……」
リヴの瞳は光を追い、まるで宝石箱の中に迷い込んだようだった。
そのまま歩いていくと、一番手前に洋服売り場が広がった。
整然と並ぶ色とりどりの服の列は、森育ちのリヴにとっては未知の風景だった。
「……これ、本当に全部、服……?」
「季節で変わるからな」
「季節で……変わる……。地球って……服で季節が分かるんだ……」
リヴはそっと袖をつまみ、生地を指先で押してみる。
「糸が細い……すっごく細かく縫ってある……。森の服は……もっと……こう……元気な糸……」
「元気な糸って表現は初めて聞いたな」
「だって……森のは太くて……ちょっと乱暴で……でもあったかい……これは……きれい……」
息を吸うように「かわいい」が漏れた。
ナオキは、胸のあたりが静かに温かくなるのを感じた。
「こっちは靴の売り場だ。欲しい靴があれば選んでみようか」
「……全部、靴……? どうしてこんなに種類が……」
「用途ごとに違うからな。走る用、歩く用、重い荷物を運ぶ用……色々ある」
「地球……靴だけで森ひとつ埋まる……」
呆然と言いながらも、リヴの視線は一足の白いスニーカーに吸い寄せられていた。
「これ……軽い……かわいい……」
「履いてみるか」
「いいの……?」
「当たり前だよ」
座って靴を履いた瞬間、リヴの体が止まった。
「……っ……! なにこれ……守られてるのに軽い……。走ったら風になる……!」
目がきらきらと揺れる。
「似合ってるよ」
「ほんと……?」
少し歩いて確かめたあと、リヴは小さく跳ねるように言った。
「これ……すき……! すごくすき!!」
「じゃあ、それにしよう。歩くのが楽になる」
「……ほんとに……? ありがとう……」
白いスニーカーが入った紙袋を抱える腕は、大事な宝物を持つみたいにぎゅっとしていた。
靴売り場を出ると、リヴは袋を胸に抱えたまま、きょろきょろと視線を動かしていた。
見慣れない世界に、興味が尽きる気配がない。
「こっちが日用品の売り場だ」
「にちようひん……?」
「家の中で使うもの。タオルとか、石鹸とか、洗うやつ、拭くやつ……」
「家の……道具……?」
言葉を繰り返すだけで、リヴの足取りが自然と早くなる。
そのまま売り場へ踏み込んだ瞬間、ぴたりと固まった。
「……ナオキ……」
「どうした」
「これ……全部……家にある……?
タオルも、石鹸も、この匂いの瓶も……この丸いのも……この棒のやつも……これ何……?」
指先は高速で棚を指し示し、目は驚きで丸くなっている。
「まあ、家の種類にもよるけど……だいたいあるな」
「……地球の家……強い……」
リヴはタオルの棚を見つけて、そっと触れた。
ふわふわの表面に頬を押し当て、目が細くなる。
「これ……雲みたい……。森なら……こんなの絶対作れない……。
あったかくて……柔らかくて……体ふいたら……そのまま寝ちゃう……」
「寝るなよ」
「寝る……これは寝る……」
完全にとろけた声だった。
次に石鹸の棚に移ると、リヴはひとつひとつ蓋を開けては、慎重に香りを吸い込んでいった。
「花の匂い……本物の花みたい……。森の花より……花……。なんで……」
「香りが付けてあるんだよ」
「香りが付く……? 瓶から……石に……? 地球、魔法……?」
「魔法じゃない。加工だよ」
「加工って魔法みたい……」
香りの瓶を開けては閉じ、また別の棚に手を伸ばす。
そのたびに小さな息が漏れた。
「この匂い……森の雨の日みたい……。こっちは……甘い……。これは……落ち着く……。
ナオキ、これ家にある……?」
「あるよ」
「すごい……。地球の家……全部、祭りの日の匂い……!」
祭りの日の匂いが何かは分からないが、だいぶ気に入ったらしい。
ひと通り棚を見て回ったあと、リヴは石鹸のひとつに名残惜しそうに触れた。
「森のみんな……これ嗅いだら……絶対さわぎになる……。“花の香りの石”って言って……取り合い……」
「取り合うのは困る」
「困るけど……気持ちは分かる……」
名残惜しそうにもう一度手を伸ばしたので、ナオキはそっと声をかけた。
「次、食べ物の売り場行くか」
「……行きたい!」
その返事は靴売り場のときよりさらに速かった。
エスカレーターを上がり、食品コーナーの入り口に近づくと、リヴの歩みがまたぴたりと止まった。
「……食べもの……多い……」
「多いな」
「季節……関係ない……?」
「ほとんどない」
「いつでも……こんなに……?
ナオキ……地球って……ほんとに……恐ろしい……」
目は完全に戸惑っているのに、同時に興奮が隠せていない。
野菜売り場で、リヴは大根を持ち上げて固まった。
「これ……大きすぎない……? 木の根じゃないのに……」
「野菜だよ」
「森のウサギが見たら逃げるサイズ……」
続いて、果物コーナー。
「リンゴ……光ってる……磨いてあるの……?
これ……石じゃないのに……こんなに赤い……?」
「普通に売ってるやつだよ」
「森の木の実……こんなに主張しない……。これは……強い果物……」
また“強い”が出た。
肉売り場では、包装された肉を見てまた固まる。
「肉が……石板の中に閉じ込められてる……。
これ……保存魔法……?」
「ただのラップ」
「らっぷ……? 透明な布……?」
「布ではないな」
説明したところで通じる気がしない。
魚売り場では、リヴの目がさらに大きくなった。
「魚……切られてる……。森では……丸ごと……なのに……
切られてるのに……魚……すごい……こわい……」
「怖いのか」
「なんか……生き物の形じゃないのに……魚……こわい……でも面白い……」
こわいと面白いの間を行き来している。
「地球……食べ物の扱いが……全部すごい……。
でも……楽しい……。知らないの……いっぱい……」
その瞳には、森では見たことのない色が宿っていた。
袋を両手で抱えながら出口へ向かうと、外の風が頬に心地よかった。
白いスニーカーの袋は、まるで宝物を守るようにぎゅっと抱えられている。
「ナオキ……今日ね……すごくすごく楽しかった……」
「ならよかったよ」
「地球の道具……全部すごい……。でも……いちばん楽しかったのは……」
リヴは帽子のつばの影から、そっと顔を上げた。
「ナオキが……ひとつずつ……ゆっくり教えてくれたこと……」
胸の奥が、たしかにあたたかくなる。
「また来よう。いつでも連れてくよ」
「ほんとに……?
じゃあね……次は……“おやつのお店”にも行ってみたい……」
「甘いものの専門店か」
「うん!!」
その返事は、今日食べたプリンより甘かった。




