初めてのファミレス
あれから、リヴがこちらの世界に来るのは当たり前になった。
森の巡回から戻ると、陽が沈む少し前にふらりと現れ、台所で一緒に野菜を切り、煮込みを作り、テレビの前に並んで座り、どうでもいいような話をしながら一日を終える。あまりに自然な流れのせいで、どちらが提案したのかも思い出せない。
ただ、気づけばそれはもう“ふたりの暮らし”の一部になっていた。
その日の朝も、リヴはナオキの大きめのTシャツを着たまま窓際に立っていた。袖の中に手をすっぽり入れ、裾を指先でつまみ上げては下ろし、またつまむ。その仕草は落ち着かないようで、でもどこか楽しげだった。
「……人がいっぱい歩いてる」
窓の外を眺めながら、ぽつりと呟く。
休みの日のせいで、通りには家族連れや買い物帰りの人がちらほら。リヴにとっては、見慣れた森とはまったく違う賑わいだ。
「土曜だしな。もしよかったら、買い物ついでにどこか寄ってみるか」
「どこか……?」
「外でご飯食べてもいいぞ。店で」
その瞬間、リヴの耳がフードの中でぴくっと動いた。
隠れているのに動きが分かるくらい、反応が素直だ。
「……みせ……?」
「ファミレス。料理を運んでくれる店」
「ナオキの世界の……食堂……?」
声がほんの少し震えた。
未知への期待と、それ以上の不安が混ざっている。
「大丈夫。まずは服だな。耳を隠して、目立たない格好にしよう」
「う、うん……!」
リヴは急いで自分の持ち物を広げた。地球に来るたびに少しずつ覚えた“街の服”。
白いロングフーディ、ゆるめのデニム、小さめのショルダーバッグ。
そして黒いキャップを深くかぶり、マスクをつける。
鏡の前でくるりと回り、こちらを見る。
「……どう? 街の人に……見える?」
「うん。自然だよ。普通に女子高生だな」
「じょ、女子……?」
耳は完璧に隠れているのに、頬だけがほんのり赤い。
その反応がいちいち可愛くて、少し困る。
アパートを出てしばらく歩くと、リヴはナオキの袖をそっとつまんだ。
「……みんな、普通に歩いてる……」
「大丈夫。誰も他の人のことなんて気にしてないよ」
「……そっか……」
街の音や気配に圧倒されながらも、一歩も引かずについてくる。
慣れない地面、慣れない高さの建物、慣れない声のざわめき。
それでも、リヴはナオキの横を離れようとはしなかった。
(頑張ってんな……)
ふと胸の奥が温かくなる。
やがて、赤い看板のファミレスが見えてきた。
大きな窓の向こうで、人々が楽しそうに食事をしている。
リヴは一気に足を止めた。
「……あそこ……入るの……?」
「うん。ここなら気にされないよ」
「……目立たない……?」
「大丈夫だって」
リヴは帽子のつばをぎゅっと握り、小さく深呼吸をした。
「……い、いく……」
扉を開けると、温かい空気と料理の匂いがどっと広がった。
テーブルの木の匂い、油の甘い香り、コーヒーの苦い匂い。
リヴは思わず鼻をひくつかせる。
「……ここ……匂いがいっぱい……」
「店って、こういう感じなんだ」
席に案内されると、リヴは落ち着かずに周りを見回す。
メニューを渡すと、そっと開いた。
……そして固まった。
「……料理の絵が……紙に閉じ込められてる……」
「写真だな」
「しゃしん……? 本物そっくり……。森の絵描きが見たら倒れるよ……」
ページをめくるたび、小さく肩が跳ねる。
「この“ハンバーグ”って……前に作ってくれたの……?
似てる……でも丸い……。なんか強そう……」
「見た目で強弱つけるのやめな」
「“ドリア”……白い……あったかそう……。
この“グラタン”……白い……。
“クリームパスタ”……白い……。地球、白い料理多い……?」
「まあ……たまたまだな」
だんだん“白い料理カテゴリー”を作りはじめているのが分かる。
「食べたいの選んでいいよ。辛いのはやめとこう」
「え……わたしが選んでいいの……?」
「もちろん」
リヴはゆっくり迷い、写真を指でなぞった。
「……これ……白いの……。とろってしてる……。
これ……食べたい……」
「ドリアだな。じゃあ、それにしよう」
注文を済ませると、リヴは店内の音に耳を澄ませた。
「……人が話してるのに……ぜんぶ混ざって聞こえる……。
森だと音って消えるのに……ここは残ってる……不思議……」
「最初は疲れるかもしれない。けど、そのうち慣れるよ」
「でも……嫌じゃない……。にぎやかで……安心する……」
(リヴが“安心する”って言うなら、いいか)
料理が運ばれてきたとき、リヴは大きく目を見開いた。
「……きた……白いの……!」
湯気が立ち上り、チーズの香りがふわりと広がる。
「スプーンで食べてみな。熱いから気をつけて」
「……うん……」
おそるおそるすくい、口に入れる。
「…………っ」
肩がふるっと震える。
「どう?」
「これ……舌の上で……あったかいのに……優しい……。
とろって広がって……止まらない……。
森の昼の光を……そのまま食べたみたい……」
「そんな感じか……」
「すごい……幸せ……」
リヴは少しずつ、丁寧に、一口ずつ大事に食べ進める。
「ナオキの世界って……
食べる場所まで違うんだね……」
「まあ、こっちも時代でいろいろ変わってきたしな」
「でも……それより……」
リヴは少しだけ目を伏せて笑った。
「……誰かと一緒に美味しいもの食べるって……
こんなに幸せなんだって……知らなかった……」
(……俺もだよ)
心の中で返した。
ドリアを食べ終えたリヴは、皿を抱くようにして名残惜しそうに見つめていた。
その表情が「この皿と友情が芽生えた」とでも言い出しそうなほど真剣なので、ナオキは思わず笑う。
「……終わっちゃった……」
「また作るよ。家でもできるし」
「……してほしい……」
その小さな声に、胸が少しだけあたたかくなった。
「このあと、デザートも頼めるぞ。食べる?」
その瞬間、リヴの耳が帽子の下でぴこっと跳ねた。
表情はそのままなのに、反応だけがやたらと元気だ。
「……あるの?」
「あるよ。いっぱい」
「見たい……!」
タブレットを渡すと、リヴは息をのむように画面を見つめる。
「え……えっ……これ……全部“甘いの”……?」
「全部デザートだな」
「ぜんぶ……? こんなに……? 祭りの日でもこんなに甘いの出ない……!」
リヴの指はそわそわ動き、ページをめくるたびに肩が跳ねる。
「チョコの氷……? なんで氷なのに黒いの……?
ワッフル……焼いた板……?
パンケーキ……この厚さ……? 山……?
フルーツタルト……果物が……光ってる……?」
「落ち着け」
「む、無理……っ」
リヴはページを戻し、進め、また戻して、同じページを三周した。
そのたびに帽子がかすかに揺れる。
「ど、どれも……選べない……全部強そう……」
「デザートの強弱の基準なんなんだよ」
「見た瞬間に心が“うわっ”ってなるやつは強い……!」
「初めて聞く定義だな……」
しばらく悩んだ末、リヴの指がぴたりと止まった。
「……プリンがいる……」
画面には、プリンアラモードの写真。
プリンの周りに生クリーム、アイス、フルーツ。
小さな旗が立っているタイプの、誰が見てもテンションの上がる一皿。
「これ……強い……。森の宴みたい……!」
「じゃあ、それ頼もうか」
「いいの……? ほんとに……?」
「もちろん」
店員が皿を持ってくると、リヴは固まった。
「…………」
スプーンを持つ前に、まず目が皿に吸い寄せられる。
「すご……こんなの……絵本の中にしかない……」
「絵本にはあんまりプリンアラモード出ないけどな」
「こんな見た目の食べ物、森には絶対ない……。
見てるだけで……なんか幸せ……」
「食べてもいいぞ」
「は、はい……!」
リヴは気を取り直し、スプーンですくった。
「………………っ」
肩がまた震えた。
「どう?」
「これ……ずるい……。
とろけるのに……甘いのに……やさしいのに……冷たいのに……
なんで全部が同時にくるの……? ずるい……」
「語彙がまた混乱してるな」
「ナオキの世界の“甘い”は……反則……。
こんなの……森で出したら……戦争止まるよ……」
「そんな威力あったら逆に困るな」
プリン→生クリーム→アイス→フルーツ→プリン……と、
リヴはまるで儀式のように順番に味わい続ける。
「……終わっちゃう……」
「あっという間だな」
「たべおさめする……」
リヴは最後のひとすくいを、目を閉じて食べた。
その表情は、まるで人生の重大な場面でも噛みしめているかのようだ。
「……幸せ……」
「それはよかった」
皿を名残惜しそうに見つめながら、リヴは静かに言った。
「ナオキ……わたし……ここ、好き……
にぎやかで……あったかくて……どこか安心する……」
「そうか」
「でも……」
リヴは帽子のつばを少し触って、こちらを見た。
「ナオキが隣にいるから……怖くないんだと思う……」
(……そんなふうに言われたら、そりゃもう……)
胸の奥がまた温かくなる。
「大丈夫だよ。俺がいるから」
「……うん……」
その返事は、ささやくみたいに小さかったのに、
ナオキの耳にははっきり届いた。
プリンアラモードの皿が片づけられると、リヴは背もたれにそっと寄りかかった。
胸の中に溜まった“幸せ”を消したくないみたいに、深く息をついている。
「……おいしいものって……心があったかくなるんだね……」
「そうだな。いい時間だった」
「うん……すごく……」
リヴはしばらく席の周りを名残惜しそうに眺めていた。
厨房からの金属音、店員の足音、子どもの笑い声。
初めて知る“店の空気”を、まるごと飲み込むみたいに感じ取っている。
「ナオキ……あのね……」
「ん?」
「……帰りたくない……少しだけ」
「ずっといていいよ。時間はいくらでもある」
「……うん……」
そのとき、店員が水のピッチャーを置いていった。
透明な容器の中を、氷がからりと揺れる。
リヴはその音に反応し、ぴくっと肩を動かす。
「……中で……氷が動いてる……」
「動くよ」
「生きてるみたい……」
「ただの水だって」
「……でも、なんか目が離せない……」
リヴはピッチャーを両手でそっと触り、氷がゆっくり沈んでいく様子を真剣に見つめる。
まるで水の精霊でも観察しているかのような集中力で、ナオキは笑いをこらえた。
「そんなに珍しいか」
「だって……透明なのに冷たい……変……」
「変って言うな」
「変だけど……好き……」
「なんで好きになるんだよ」
「透けてて……綺麗だから……」
(どこが気に入るポイントなのか、ほんとに読めない……)
だが、そんなところも全部リヴらしくて、どこか愛しい。
「そろそろ行こうか。混んできたし」
「あ……うん……」
立ち上がったとき、リヴの視線はまだピッチャーに向いたままだった。
今にも持ち帰ろうとしていないか不安になり、ナオキは軽く肩を叩いた。
「店のだぞ」
「……わかってるよ……見るだけ……」
「見るだけでその目は危ない」
「え……そんなに……?」
「そんなに」
会計を済ませて外に出ると、夕暮れの光が街路をうっすら染めていた。
車の音、遠くの笑い声、どこかの店のチャイム。
昼のざわつきとは違う、少し落ち着いた空気。
リヴはマスクの奥で深呼吸をし、帽子をそっと押さえた。
「……さっきより……街が優しくなった気がする……」
「初めての場所は緊張するしな。でも、慣れたら大丈夫だよ」
「うん……ナオキがいたら、全部大丈夫……」
足取りは軽く、けれどどこか慎重で、プリンアラモードの余韻がまだ続いているのがわかる。
「また来ような」
「えっ……いいの……? 一緒に……?」
「もちろん」
「……ほんとに……?」
「ほんと」
リヴは帽子のつばを引っ張り、照れ隠しのように俯いた。
でも歩くたびに腕が少し近づいてきて、袖がほんの少し触れた。
「……また、ナオキと食べたい……。
今日みたいに……いっぱい驚いて……いっぱい笑って……
……それが……すごく幸せだったから……」
(……そんな顔されたら、断れるわけがないだろ)
ナオキは返事のかわりに、歩幅を少しだけ合わせた。
その小さな気遣いに気づいたのか、リヴはそっと笑う。
夕暮れの街を歩きながら、リヴはときどき振り返るようにファミレスを見た。
店の窓から漏れる光を目で追い、今にも手を振りたそうな顔をしている。
「……楽しかった……。すごく……すっごく……」
「そうだな。俺も」
「ナオキ」
「なんだ」
「ドリア……あったかかった……。
プリン……冷たかった……。
アイス……甘かった……。
生クリーム……ふわってしてた……。
それで全部、幸せって思った……」
「……食レポみたいになってるぞ」
「でもね……」
リヴは両手で胸のあたりをそっと押さえた。
「いちばん幸せだったの……ナオキが隣にいたこと……」
その言葉は唐突でも誇張でもなく、淡々と本心だけを言ったように聞こえた。
(……こういうところが、本当に……)
「……ありがとう。連れてきてくれて」
「どういたしまして」
その一言に、リヴの目が柔らかく細まった。
街灯が灯り始め、影が少しずつ長く伸びていく。
ふたりの影は並び、寄り添うように揺れながら帰路へ続いた。
アパートまでの帰り道は、昼と夜の境目みたいな不思議な静けさがあった。
風は少し冷たく、街灯の光はやわらかく長い影を作っている。
リヴはその影の中で、ときどきふわっと笑った。
「……ねぇ、ナオキ」
「ん?」
「今日みたいな日って……すごく大事にしたい……。
森で初めて大きな川を見つけたときみたいに……心の奥が広くなる……」
「大げさだな」
「大げさじゃないよ……。
知らない場所で……知らない料理食べて……
ナオキが横にいて……
なんか……全部が新しくて……ぜんぶ嬉しかった……」
そう言うと、リヴは帽子を少し押さえて照れ笑いした。
声は小さいくせに、気持ちは全部伝わってくる。
「また行こうな。行きたい場所、たくさんあるし」
「……うん……。
今日みたいに……手、つないで歩いても……いい……?」
「……つないでたわけじゃないけど?」
「心が、だよ……」
ナオキは返す言葉を探し、結局ただ小さく息が漏れただけだった。
リヴはその沈黙を責めるでもなく、ふわりと肩を寄せてくる。
その体温が、ほんの少しだけ服越しに伝わる。
街灯の下を歩く足音が、急にゆっくりになった。
ナオキは前を向いたまま、ほんの短い間だけ迷った。
けれど、その迷いはすぐに溶けた。
(……怖がってたくせに、こんな顔するんだもんな)
歩幅を合わせながら、ナオキはそっと手を出した。
触れるか触れないかの距離で、リヴの指先へ向かって差し出す。
リヴは一瞬、驚いたようにまばたきをした。
そして――かすかに震えた指が、ゆっくりとナオキの手に触れた。
「……いいの……?」
「いいよ」
リヴの指先が、頼るように手を包む。
ナオキも強く握りすぎないように気をつけながら、優しく握り返した。
街の喧騒の中、ふたりの足音だけが静かに並ぶ。
手のひらは小さく、温かく、柔らかかった。
「……あ……
手、つなぐって……こんな感じなんだ……」
「嫌だったか?」
「ううん……なんか……胸がふわってなる……」
「それは……よかった」
マスクの奥で、リヴは笑った。
その笑みが伝わるように、つないだ手がわずかにきゅっと締まる。
街灯がふたりの影を伸ばし、寄り添う影が揺れながら道を続いていく。




