夜道の帰り道、プリンを抱いて
コンビニの自動ドアが背中で閉まり、夜の空気が頬へ戻ってきた。人工の光の中にいたせいか、空気はひときわ冷たく感じる。
リヴは胸の前でプリンの袋を両手で抱え、ゆっくりと歩き始めた。足取りは軽いが、妙に慎重だ。袋が揺れるたび、肩をびくっと震わせる。
「……これ、落としたら死ぬ……」
「プリンで死ぬなよ」
「大事って意味……!」
ナオキは苦笑した。真剣に言っているのだから笑ったら悪いとは思いつつ、こらえるのが難しい。
(そんなに大切にしてくれるなら、買ってよかったよな)
そう心の中でつぶやきながら、ナオキはリヴの歩幅に合わせて歩いた。
舗装路には街灯の光がまっすぐに落ちていた。ふたりの影は細長く伸び、歩くたびに寄ったり離れたりする。夜風が少しだけ頬を撫でる。
リヴはふいに足を止め、夜空を見上げた。
「……星、見えにくいんだね」
「街灯が明るいからな。星の光より強いんだよ」
「ウロだと……夜は空の光だけで……世界が広いって思えるのに……」
「こっちは、街のほうが広く見えるんだよ」
リヴはしばらく星の少ない空を見つめていた。それから、胸の前のプリンの袋をそっとぎゅっと抱いた。
「でも……なんか、落ち着く。暗い森みたいじゃないし……ここにいていいって思える」
「それならよかったよ」
(慎重なのに、楽しそうなんだよな)
ナオキは横目でそっと見た。リヴの顔に浮かぶ安堵は、地球の夜を受け入れ始めた証に見えた。
アパートに近づく頃には、緊張はもうすっかり抜けていた。
「ナオキの世界って……ふしぎで、こわいけど……でも、あったかいね」
「夜はただ、みんな寝てるだけだよ」
「ナオキがいるから、あったかいの」
「はいはい」
言葉では軽く流しているが、ナオキの心は妙に嬉しい。
(……そんな風に思ってもらえるなんて、悪い気はしないよな)
階段を上がり、鍵を回すと扉が開く。リヴは中に足を踏み入れた途端、ほっと息をついた。
「……はぁ……ここ、落ち着く……」
「そうか?」
「うん……ナオキの匂いがする」
「やめろって」
からかうように笑い、リヴはプリンをそっと差し出した。
「プリン……食べる?」
「冷やさないと美味しくならないぞ」
「それはだめ!」
本気で慌てた声に、ナオキは思わず笑った。
「だから冷蔵庫。持ってこいって」
「優しく持ってね……!」
「落とさねぇよ」
(こういうときのリヴは本当に子どもみたいだ)
内心で苦笑しつつ、ナオキはプリンの袋を受け取り、冷蔵庫へ向かった。
しばらく冷やし、ほどよい頃合いで取り出してテーブルに置いた。カップの表面はほんのり冷えて、照明をやわらかく反射している。
リヴの目が一瞬で輝いた。
「……すご。プリンが“本場”の顔してる……」
「どういう意味だよ」
「なんか……強い感じがする……」
「強いプリンってなんだよ」
「説明できない……でも強い……」
もう意味が分からないが、リヴの中では説明可能らしい。
席につくと、リヴは背筋を伸ばし、落ち着かない手つきでプリンを見つめた。
「……ナオキ、ふた……開けて……」
「自分で開けろよ」
「こわい。中身が逃げるかも……」
「逃げねぇよ」
金色のふたをぺりっと開けると、甘い香りがふわりと広がった。
リヴは目を細めた。
「……いい匂い……なんか幸せの匂い……」
「ほら、スプーン」
両手でスプーンを受け取ったリヴは、そっとひと口すくう。ぷるんと震えるカスタードが照明に滑らかに光った。
口に運び、舌に載せた瞬間、リヴの瞳がゆっくりと開いていく。肩もふるりと震えた。
(……絶対、美味いって言うな)
ナオキはその反応を見ながら、心の中で苦笑していた。
「……やさしい……あったかい……冷たいのに……あったかい……」
「矛盾してるぞ」
「だって……心が……ぽってなる……」
「擬音が雑だな」
「ナオキのせいだよ!」
「なんで俺なんだよ」
「プリン食べさせてくれたナオキのせいで……心がぽってなるの!」
「はいはい」
言いながらも、ナオキはどこか照れくさかった。
リヴはスプーンをそっと動かし、プリンをまたひと口すくった。
ぷるりと震え、光を細かく散らしながらスプーンの先へ乗る。
その様子を見て、ナオキは少しだけ息をゆるめた。
(ほんとに……嬉しそうに食べるよな)
(こんな小さなカップで、こんなに表情が変わるなんて……)
リヴは二口、三口とゆっくり進める。味わうたびに胸の前の空気がふわっと揺れる。
「……おいしい……なんで……こんなに……やさしくて……あったかいの……」
「プリンだからだよ」
「そんな理由でいいの……?」
「いいんだよ」
リヴはふとナオキの顔を見た。
そして、かすかに笑った。
「……ナオキがいっしょに食べてくれてるから……もっとおいしいんだよ……」
「またそういう……」
(……わかってるくせに)
照れくさいが、悪い気はしない。
むしろ胸の奥がやけにあたたかくなっていく。
リヴはプリンの最後の一口をすくい、名残惜しそうに口へ運んだ。
「……終わっちゃった……」
「食べるの早かったな」
「だって……おいしかったんだもん……」
「明日また買えばいいだろ」
「買ってくれる?」
「まあ……多分な」
「その“多分”って言い方がずるい……」
そう言いながらも、リヴの目は嬉しそうで、膨れているというより甘えているように見えた。
空になったプリンのカップを両手で包み、じっと見つめる。
「……なんかね……このプリン……ただの食べものじゃない気がするの……」
「どういう意味だよ」
「なんていうか……ナオキが……地球のこと、少しずつ教えてくれてるって感じ……」
「そんな大げさなもんじゃないだろ」
「大げさじゃないよ。わたし……知らないものばっかりで……でも……ひとつひとつ、こうやって“おいしい”って思えたら……地球がちょっとずつ優しくなる……」
「……そっか」
(そう言われると……変に胸にくるな)
(案内してるだけなのに……そんな風に感じてもらえるなら……悪くない)
リヴはナオキの横顔を見て、すこし微笑んだ。
「ナオキって……やっぱりやさしいね」
「どうした急に」
「だって……きょうも……迷子にならないようにずっとそばにいてくれた……」
「店も道も初めてなんだから当たり前だろ」
「当たり前じゃないよ。ナオキだから当たり前なの」
「それは理屈になってないぞ」
「もう……ナオキ……」
軽く口を尖らせるが、すぐに柔らかく目が緩んだ。
「……今日ね……すっごく楽しかったの……初めての匂いとか、音とか、色とか、こわかったけど……全部おもしろかった……」
「うん」
「いちばん楽しかったのはね……」
リヴは少し息を吸い込む。
「ナオキと歩いたこと」
ナオキはそこで言葉に詰まった。
(……こういうこと……平気で言うんだよな……)
(おれの心の準備とか期待とか、そういうの軽く越えてくるんだよ……)
どう返せばいいか分からず、少しだけ視線を落とした。
「……ありがとな」
「ううん。ありがとうはこっちだよ」
ふたりの声は小さかったが、静かな夜には充分すぎるほどよく響いた。
部屋の中は、プリンの甘い香りと、さっきまでのコンビニの光の余韻が薄く残っていた。
リヴは空のカップを大切にテーブルに置くと、そっと身体をゆらした。
「……ねぇ。ナオキ」
「なんだ」
「また冒険したい」
「コンビニが冒険か」
「冒険だよ。今日は……小さな世界をひとつ見つけたんだよ」
ナオキは目を細めて笑った。
「じゃあ……また連れてってやるよ」
「約束ね」
「ああ」
リヴの顔に、今日いちばん静かで温かい笑顔が浮かんだ。
その笑顔を見ながら、ナオキは思った。
(地球の夜は……こんなにも優しかったか)
(いや……きっと、こいつと歩いたからだな……)
窓の外には街灯の頼りない光と、少しだけ見える星。
部屋の中には、ほんのり甘いプリンの後味。
世界は広くて、まだ知らないものがたくさんある。
でも、今この瞬間はそれで十分だった。
ふたりの小さな冒険は、
静かで温かい夜にそっと溶けていった。




