第7話:対価と、最初の言葉
名前を交わしてから二日目の朝が静かに訪れた。
六畳ワンルームの空気はまだ冷えたまま、薄いカーテン越しに白い朝の光が差し込んでいた。スマホのアラームが鳴り響き、ナオキは布団から上半身をゆっくり起こした。寝不足の体が少し重い。
手を伸ばしてアラームを止めると、天井をしばらくぼんやりと眺めた。
(今日も、熱が下がりません、で通すしかないな……)
胃の奥が軽くきしむ。会社に嘘をつく苦さと、職を失う恐怖が同時に押し寄せる。手取り十五万の生活で、一度崩れたらもう立て直す余裕はない。家賃、光熱費、食費。ひとつでも狂えば一気に崩れる。
だが、思い浮かんだのは、十畳のウロで眠るリヴの姿だった。
細い肩が緊張のまま固まっていたこと。水を飲むたび、見えない毒を警戒して一瞬ためらっていたこと。痛みに耐えながら、それでも毅然としていたこと。
放置はできない。
気づけば、胸の奥にそう刻み付けるように息を吐いていた。
ナオキは立ち上がり、キッチンの隅に置いたマグカップに湯を注いだ。インスタントコーヒーの匂いがふわりと広がる。仕事のある日の朝に染み付いたルーティン。しかし今日は違う。飲み込む苦味が、罪悪感をかき立てる。
スマホを手に取り、上司の番号を押した。
「おはようございます……柏木です。すみません、やっぱり熱が下がらなくて……はい、三十八度くらいです……もう一日だけ休ませてください。すみません」
通話が終わる直前、ナオキはこめかみをほんの一瞬押した。癖だ。嘘をつくとき、どうしてもそうしてしまう。
電話はすぐ切れた。
沈黙が部屋を満たした。背中のあたりに重たい影が張り付くようだったが、それでも後悔はなかった。
「行くか」
ひとりごち、32型テレビへ向かう。
画面を越えて森へ向かう瞬間、胸の奥のざわつきが少しずつ森の湿った空気へと塗り替わっていくようだった。
ウロの内部は、ランタンの柔らかな光がまだ揺れていた。木の内側に反射して、淡い橙色の光が丸い空間に広がっている。木の香りと土の匂いが混ざり、アパートとはまるで違う静けさがあった。
リヴはすでに目を覚ましていた。寝袋の上で上体を起こし、ナオキが壁からにじみ出るように現れた瞬間、肩を小さく震わせた。けれど昨日のように身構え、逃げようとする素振りはない。恐怖がまったく消えたわけではないが、姿勢の緊張が少しだけ弱まっていた。
ナオキは敵意のないことを示すように、静かに片膝をついて目線を下げた。大きい動きをしない癖が、自然と出てしまう。
「傷、見せてもらってもいいか」
ゆっくりと胸の前で手を動かすジェスチャーで伝える。
リヴは一瞬迷ったが、昨日よりずっと自然な手つきで足を差し出した。動かすたびに痛むのだろう。長い髪の先を指で触り、不安をそっと逃がすような癖が出ていた。
包帯を外すと、ナオキは思わず息を漏らした。
「だいぶ良くなってきたな……」
声は小さかったが、安堵がにじんでいた。
赤黒い腫れは明らかに引いている。触れたときの熱も昨日より穏やかだ。
ペットボトルの水をかけると、リヴの眉がわずかに寄る。だが、身をよじって逃げることはしない。痛みに耐えるとき、リヴは必ず呼吸を浅くし、耳がほんの少し下がる。その小さな癖に、ナオキは昨日よりも彼女の心の形を感じられるような気がした。
軟膏を塗ると、リヴの指が髪の先をつまんだ。痛みと緊張の混じった仕草。
「ごめんな、もうすぐ終わるよ」
ナオキは息をひとつ吸って指を動かす。慎重になってしまう癖は、逆に相手へ安心を与える優しさにも見えた。
新しいガーゼをあて、包帯を巻き直し終えると、ナオキは即座に距離を取った。余計な動きをしないことで、リヴの負担を減らす。それもまた、昨日のやり取りで自然と身についたものだった。
その姿を見て、リヴはゆっくりと息を吐いた。緊張がひとつ解ける音が聞こえるようだった。
ナオキがブルーシートの上へ戻ろうとしたとき。
「……あ」
短い声が背中に届いた。
ナオキはすぐ振り返る。
「どうした?」
リヴはウロの隅、自分の荷物が積まれた場所を指差した。
「ああ、荷物な。いいよ、持ってきて」
ジェスチャーで促すと、リヴはゆっくり足を引きずりながら向かった。痛みを堪えるように肩がわずかに揺れ、髪の端を軽く触る癖がまた出る。
弓には触れず、革のポーチをまさぐり、何かをつかんでナオキの前まで戻ってきた。
差し出されたものをナオキが受け取った瞬間、リヴの指先がわずかに震えた。温度のない鉄の冷たさと、少し酸っぱい錆の匂いが手のひらに残る。
手の中にあったのは、古びた釘だった。赤黒く錆び、欠け、価値があるようには見えない。しかし、リヴの目は真剣だった。
(これが……彼女なりの対価、か)
施しを受けたままではいられない誇り。どれほど痛くても、弱者でいたいわけではないという意思。文化の違いを越えて伝わるものがあった。
ナオキはゆっくりとうなずき、釘を両手で丁寧に受け取った。
「ありがとう。大切にするよ」
言葉は通じなくても、声の温度は伝わるのだろう。リヴの肩がほんの僅かに落ち、胸の緊張が解ける。彼女は安堵ともつかない息をひとつ吐いた。
ウロの内部が静まり返った。ランタンの光が二人の影を細長く引き伸ばし、遠くの森からコロコロと低いゴブリンの声が届いた。だがその音さえ、今は二人の距離を乱すことはなかった。
ナオキはスケッチブックを取り出した。
リヴが興味深そうに目を向ける。昨日もそうだったが、文字や絵を「意味の道具」として扱うことが、彼女の文化にはないのだろう。視線の奥に、理解を越えた驚きが灯っている。
ナオキはまず、水のボトルを指差し、水の絵を描いた。
「これは?」
リヴは一度息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「ヴァッサー」
その音は、森の空気に溶けるように柔らかかった。
「ヴァッサー……」
ナオキは思わず笑みがこぼれそうになった。だが、笑いは声にならないよう喉の奥で抑えた。相手を驚かせないための癖でもあった。
彼はその音をカタカナで書き留める。
リヴは、言葉が記号になる瞬間を見て、目を大きく瞬いた。意味を持つ線が、音と結びつく。彼女にとっては未知の技術なのだろう。
次に、ナオキはゴブリンの絵を描いた。
途端に、リヴの目が鋭く変わる。胸の奥にため込んだ感情が一気に顔へ滲み出る。
「グルァ」
低い声だった。
憎しみの熱をまとった一音だった。
ナオキはその音をすぐに書き留めた。
「グルァ……ゴブリン」
リヴはゆっくりと頷き、目を伏せた。
スケッチブックの一ページは、リヴの世界とナオキの世界の最初の“橋”になりつつあった。
ただ、空気の隙間から現実が忍び寄ってくる。
(……明日、どうするんだ俺。会社、もう限界だろ)
森の中で命を落とす心配より、会社で怒鳴られる恐怖の方が現実的に感じられる瞬間すらあった。
だが、手の中にある錆びた釘と、絵を見つめるリヴの目を見れば、その選択は簡単なものではなかった。
ナオキは深く息を吸い、釘とスケッチブックを胸に抱えた。
ウロの空気は静かで、朝の光が木の隙間から細く入り、リヴの髪に淡い色を映していた。
世界が違っても、今この十畳の空間には確かに二人の時間が流れていた。
リヴはスケッチブックを見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。呼吸が昨日より深い。それは、恐怖が消えたわけではないが、少なくとも「今すぐ逃げなくてはならない」という緊張が薄れ始めた証でもあった。
ナオキはスケッチブックを閉じ、ウロの壁に立てかけるように置いた。鉛筆をそっと横に置くと、手のひらに残った錆の感触がじんわりと広がる。リヴから受け取った釘を、改めて掌に置いて眺めた。
錆びついている。欠けている。一般的な価値はほとんどない。だが、この小さな釘が、リヴがナオキへ向けた最初の「対価」であり、「自分を低く置かない」という意思表示だ。
(これが……あいつの誇りなんだろうな)
リヴは、ナオキの視線が釘に注がれているのを見て、わずかに眉を動かした。長い耳が、ほんの少しだけ下へ傾く。緊張ではない。自分の行動がどう受け止められたかを探る、慎重な動きだった。
「ちゃんと受け取ったよ。ありがとう」
言葉は通じないはずなのに、ナオキが釘を丁寧に布切れで包む仕草を見て、リヴの肩が小さく上下した。安堵のようなものが混じる呼吸だった。
しばらくの間、ウロには静寂が続いた。木の内側を流れる風の音と、遠くの鳥の声がかすかに混ざり合う。森の空気はどこか湿っているが、ここには街の騒音がない。静けさが広がり、呼吸の時間がゆっくり降りてくる。
リヴは不意に、寝袋の上で体を少しだけ横にずらし、痛む足の位置を調整した。そのとき、長い髪の端が肩から滑り落ち、光を少し反射した。痛みに顔が少しゆがむが、それでも姿勢を整える仕草には戦士としての癖がにじみ出ていた。
ナオキは、そんな彼女の横顔を一瞬だけ見つめてから、ペットボトルを手に取った。
「水、飲むか?」
ジェスチャーを交えながら、ボトルを差し出す。
リヴは受け取る前に、必ず匂いで確かめる癖を発揮した。ボトルの口へほんの少し鼻を寄せ、慎重に空気を吸い込む。
森で育った彼女にとって、水の毒は生死に関わるのだろう。だからこそ、警戒するのは自然なことだ。
だが、昨日よりも、確かめる時間が短かった。
リヴは蓋をひねり、ゆっくりと一口飲んだ。顔をしかめた。カルキ臭はやはり苦手らしい。
「悪いな……あんまり美味しくないよな」
苦笑混じりに言うと、リヴは一瞬だけ視線を向けた。意味が通じたわけではないが、ナオキの声の柔らかさを読み取ったような仕草だった。
ナオキは改めて、釘を包んだ布をポーチの中へ大切にしまい込んだ。リヴはその動作をじっと追い、何かを確認するように小さくうなずいた。
その姿がどこか子どものようでもあり、戦士のようでもあった。
それから少し経った頃。
ウロの外から、弱くて湿った風が入り込んだ。木の隙間から差し込む光が少し揺れ、リヴの肩に落ちて淡い影を作る。森の奥からは、何か小さな動物が草を踏む音がした。
ナオキは耳を澄ませ、ウロの入り口の方へ顔を向けた。
「外、まだ危ないな」
昨日の戦いの痕跡が森のどこかに残っているはずだ。ゴブリンの気配は決して遠くない。むしろ、昨日よりも警戒すべき可能性がある。
リヴがナオキの顔を見て、小さく首を傾げた。何かを感じ取ろうとするように、長い耳がわずかに動く。
「お前は……出ちゃだめだ。まだ足も痛むし」
ジェスチャーを使いながらも、声は限りなく優しかった。
リヴは言葉こそ理解していないが、ナオキの意図は少しだけ読めたらしい。目の端に浮かんだ緊張が弱まり、髪の端をそっとつまむ癖が出る。
まだ怖い。けれど、敵としてではなく、危険を知らせようとする相手として見ているのだろう。
ナオキは腰を下ろし、ポータブル椅子に深く座った。リヴは寝袋の上で体を横にし、痛みを抱えながらもゆっくり呼吸を整えていく。
ウロの中には静かな時間が流れた。昨日までは嵐のような緊張だったが、今は薄い幕に包まれたような静けさがあった。
リヴは、ふいにナオキの方へ視線を向けた。
その瞳にはまだ怯えも混じっている。ただ、それだけではなかった。恐怖と不安の奥に、小さく灯った何かがあった。言葉ではない、小さな信号のようなもの。
それを見たナオキが、小さく微笑んだ。
「大丈夫だよ。しばらくは、一緒にいような」
声は静かで、重たくなりすぎないように抑えていた。受け止めるように柔らかく。
リヴは胸の上に手を置き、息をゆっくり吐いた。昨日より穏やかな呼吸だった。
そして、ほんの少しだけ、耳が下へ傾いた。
安心したときの癖。
それは、敵意の消えた最初の合図だった。
ナオキはその仕草を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
世界が違う。言葉が違う。文化が違う。
それでも今、この十畳のウロには、はっきりとした「つながりの始まり」が芽生えていた。
木の壁に揺れるランタンの光が、二人の影を寄り添うように映していた。




